曹操は魏の基礎を築いた人物であり、

後世に多大な影響を及ぼした完璧超人とも呼ばれる人物なんですが、

 

才能の塊のような人物であり、

「治世の能臣、乱世の奸雄」と許劭に評価されたことは有名です。

 

他にも曹操を高く評価した人物は他にもたくさんおり、

橋玄や何顒かぎょうはその最たる例でしょう。

許劭(許子将) -人物批評の大家/治世の能臣、乱世の奸雄-

橋玄 -曹操の才能を非常に高く評価した第一人者-

若かりし頃の曹操と荀彧を高く評価した何顒(かぎょう)

 

 

ちなみに「孟徳新書」の著者としても知られていますが、

 

「孟徳新書」は三国志演義で登場する書物であり、

実際は「兵書接要」というのが正式な名称になりますね。

 

曹操は「兵書接要」を多くの臣下達に読ませていたこともあり、

曹操自身が采配を取らずとも、曹操軍が強かった一つの要因であるとも言われています。

 

 

また「孫氏の兵法書」を読みやすいように曹操なりの注釈を加えたりもしています。

「魏武注孫氏」というものですね。

曹操の「魏武注孫氏(孫氏の兵法書)」

 

 

今私達が目にしている「孫氏の兵法書」は、

 

正式には孫武が著したものではなく、

曹操が注釈を加えた「魏武注孫氏」ということになります。

 

 

日本の武田信玄なども「孫氏の兵法書」を好んだ事でも知られている人物になりますが、

信玄もまた曹操の注釈した「魏武注孫氏」を読んだことになるわけで・・・

 

 

他にも建安の七子と共に三曹七子に数えられたりと文学の発展に多大な貢献をしたり、

当時の美味しい酒の作り方(九醞春酒法)を記録として後世に残したりと・・・

 

本当にきりがないほどのものを後世に残してくれています。

曹操・曹丕・曹植・建安七子合わせて「三曹七子」

曹操が後世に伝えた「九醞春酒法(美味しいお酒の作り方)」

 

幼少時の曹操(孟徳)

若い時の曹操は女遊びに夢中で、

格好はだらしなく、ならず者たちとよく一緒に遊んでいたといいます。

 

一族であった夏侯惇・夏侯淵などもその例でしょうね。

 

 

また上でも少し触れていますが、

曹操は宦官のトップまで昇りつめた曹騰の孫にあたるわけです。

 

 

曹騰は安帝・順帝・沖帝・質帝・桓帝の五帝に仕え、

 

莫大な権力を握る中常侍だけではなく、

宦官の中で最高位にあたる大長秋にまで昇りつめた人物でもあります。

 

 

また曹操の父である曹嵩は、

一億万という銭を使って三公の一つである太尉の官位を買ったりもしたぐらいですから、

 

権力と金でやりたい放題していた感じですね。

 

当時の漢王朝は、お金の工面に苦労していたこともあり、

官位を売りに出していたという背景もあったりしたわけですが・・・

 

 

ただ宦官といえば聞こえはあまり良いものではなく、

曹操は生涯宦官の孫であることを気にしていたという一面もあったりしますね。

 

 

 

他にも若かりし頃の曹操と袁紹の逸話も面白かったりします。

曹操と袁紹は結婚式にどさくさに紛れて花嫁を奪って逃げたりと・・・

 

 

その際に袁紹が茂みに足を取られたのですが、

曹操は「ここに花嫁泥棒がいるぞ!」と大声で出したのでした。

 

これに慌てた袁紹は火事場のクソ力ともいえる力を発揮して、

逃げおおせたといった感じですね。

 

 

まさに中華版の織田信長・・・

洛陽北部尉に就任

曹操が二十歳になった時、洛陽の「北部尉」に任命されていますね。

 

洛陽は当時の都だから、都の治安を守る警察みたいな役割だったんですけど、

曹騰・曹嵩のコネがあったのは言うまでもないでしょう。

 

 

この時の曹操は正義感に溢れていた人物でもあり、

法を破った者は誰であっても容赦しないという徹底ぶりでした。

 

 

その中で一番有名な話が、蹇碩けんせきの叔父を処刑した事でしょう。

 

 

蹇碩は第12代皇帝であった霊帝の寵愛を受けていた宦官というのもあり、

 

蹇碩の叔父は誰も逆らえないだろうぐらいの感覚で、

夜間通行の禁令を平気で犯したわけですが、

 

曹操はそれを見て見ぬふりすることがなかったわけですね。

 

 

それ以来、法を犯す者は一人もいなくなったといいます。

黄巾の乱の勃発

北部尉から県令へと出世していた曹操ですが、

朝廷内の腐敗に嫌気がさしていた曹操は職を辞しています。

 

そんな折に張角を教祖とする「黄巾の乱」が勃発すると、

曹操にも声がかかり、騎都尉」として討伐に参加することとなります。

 

 

「三国志演技」では、曹操の初登場シーンがここですね。

 

ちなみにですが横山光輝三国志では、

後のライバルとなる劉備と曹操の初顔合わせの戦いでもあります。

 

 

黄巾の乱討伐で手柄を上げた人物といえば、

盧植・皇甫嵩・朱儁などが一般的にあげられますが、曹操も大きな貢献を果たした一人です。

 

だからこそ曹操は、188年に西園八校尉に任命されています。

 

 

ちなみに西園八校尉とは、

皇帝直属(霊帝)の部隊である「西園軍」のことですね。

 

 

ここで少し面白いのが、西園八校尉に選ばれた八人の中に、

叔父が殺されたことで因縁深かった蹇碩も入れられているということでしょう。

 

他にも比較的有名な人物としては、

官渡の戦いで曹操に敗れた淳于瓊もその一人ではあります。

黄巾の乱の首謀者であり、三国時代の扉を開けた張角

反董卓連合軍への参加

※三国志演義の参加諸侯(正史はまた違います)

 

 

張角の病死、そして張宝・張梁兄弟が討たれたことで、

黄巾の乱は残党を各地に残すも、一区切りの決着を見ることとなります。

 

 

しかし朝廷内では霊帝が死んでしまうという事件が起こり、

後継者争いが勃発することに・・・

 

劉弁(異母兄)と劉協(異母弟)のどちらを跡継ぎにするかで、

劉弁を支持する何進ら外戚と劉協を支持する宦官の間で対立が起こるわけです。

 

 

最終的に劉弁(少帝)が即位するわけですが、

 

宦官によって何進が殺害されて宮廷内が大きく混乱すると、

その混乱に乗じて董卓が乗り込み、朝廷内を掌握してしまいます。

 

 

董卓は劉弁を廃嫡にし、

劉協を皇帝に即位させるというやりたい放題ぶりで・・・

 

 

これらの董卓の横暴に反発して結成されたのが反董卓連合なわけです。

 

袁紹を盟主にして多くの諸侯が参加したのが反董卓連合なのですが、

曹操は袁紹指揮下としてこの戦いに参加しています。

 

 

双方の争いは董卓の敗北で終わるわけですが、

 

董卓が洛陽を焼き払って長安へと強制遷都し、皇帝であった劉協を連れ去ったことで、

反董卓連合の完璧な勝利と言えるものではありませんでした。

 

 

ただこの時に曹操が董卓を追撃すべく激しく主張!!

 

しかし曹操の言葉に耳を傾ける者達はほとんどおらず、

曹操は鮑信らと共に董卓追撃を強行するも見事に失敗に終わったのでした。

 

その後も反董卓連合の中に大きな亀裂が入り、

反董卓連合は自然と解散していくこととなります。

何進 -群雄割拠時代への扉を開けた大将軍-

董卓 -三国乱世を加速させた暴君-

青州兵の誕生

董卓の追撃に失敗した曹操ですが、袁紹によって東郡太守に任じられ、

父親の援助もあり、次第に力を回復させていきます。

 

曹操は黒山賊と手を結ぶ於夫羅(匈奴の単于)を討伐することに成功したりもしていますが、

曹操が飛躍するきっかけになったのは青州で暴れる黄巾賊の残党との戦いでした。

 

青州黄巾賊の暴動が激しさを増す中で、

兗州刺史であった劉岱が討ち取られてしまう事態になります。

 

 

もともと劉岱は主戦派であり、篭城派であった鮑信と意見の相違があり、

劉岱が討ち取られたことで、兗州牧として曹操を迎えるように鮑信は動いたのでした。

 

つまり青州黄巾賊に対抗すべく篭城だけでは限界があると分かっており、

曹操に助けを求めたわけです。

 

そして曹操は鮑信の呼びかけに応じて馳せ参じ、

 

百万人(三十万人の兵士含め)ともいえる黄巾賊の者達を、

降伏させる事に見事に成功!

 

 

そして黄巾賊の兵士から、

更に精鋭して選別した者達が「青州兵」と呼ばれ、

 

「魏武の強」とも言われるように、

曹操が大きく飛躍するきっかけになっていくのでした。

 

 

歴史にもしという言葉はありませんが、

それでももし曹操が青州黄巾賊を降伏させることがなかったならば、

 

もっと言ってしまえば、もし兗州牧として迎え入れられていなければ、

曹操が中華の三分の二を制圧するほどの勢力になることは間違いなくなかったといっても過言ではないかなと思います。

 

それほど青州兵が曹操に及ぼした影響は計り知れないものだったわけです。

青州兵(曹操軍精鋭)誕生の秘話