劉備の益州攻略戦(正史)

劉備は「天下三分の計」実現すべく、

劉璋が統治していた益州へと侵攻を決意します。

 

つまり「劉備の入蜀」と言われるものですね。

 

 

 

その際に諸葛亮・関羽・張飛・趙雲といった者達は荊州の守りに専念し、

 

諸葛亮の代わりに龐統を従え、

荊州で劉備に仕えた黄忠・魏延・霍峻らと共に益州へと足を進めたのでした。

 

 

劉備は入蜀するとすぐに劉璋と争いを始めたというわけではなく、

 

最初は劉璋からの依頼で張魯討伐の為に呼ばれており、

表向きは劉璋の為に張魯討伐に乗り出すような動きを見せています。

 

 

しかし曹操と孫権の間で戦争が勃発すると、

孫権への援軍名目で兵を動かしやすくなったことから、

 

この時に白水関(涪水関)高沛・楊懐の二人を騙して殺害してしまいます。

 

そして高沛・楊壊の兵士を吸収すると、

劉備はそのまま成都に向けて兵を進めたのでした。

 

 

「楊壊は白水軍督として強力な軍勢を擁していた」

と正史の記録に書かれていますし、

 

おそらく楊壊と高沛は劉焉・劉璋政権を支えた、

東州兵を率いていた将軍だったのではないかと思います。

 

龐統も二人を「名将だ!」はっきり言っていますしね。

 

 

そして連戦連勝で成都に迫っていた劉備でしたが、

劉循(劉璋の息子)や劉璝(劉璋の一族)や張任が守る雒城攻略にてこずってしまいます。

 

雒城の戦いは劉備や龐統が想像していた以上に長引いてしまい、

結果として一年経っても落とせない状況が続いていました。

龐統の死(三国志演義)

蒼天航路(29巻142P)より画像引用

 

龐統の最期ですが、

「三国志演義」と「正史」では大きく違っています。

 

龐統と劉備は雒城へ攻め入る際に別々の道から攻め入る計画を立て、

劉備は表道から、龐統は裏道(間道)から兵を進めようとしていました。

 

 

ただ二人がこれから出陣しようとした際に、

龐統が乗っていた馬が暴れ出してしまったのです。

 

そこで劉備は自分自身の馬を龐統に差し上げていますね。

 

 

このことは触れられていませんが、この馬こそが、

「檀渓を飛んだことでも知られる的盧」

であったとも言われています。

 

的盧は「凶馬」としても知られており、

「乗ったものを不幸にする」という伝説がありました。

 

 

劉備は気にしておらず、不幸になるどころか、

 

荊州にいた頃には劉備殺害を目論んだ蔡瑁・蒯越から逃れる際に、

檀渓を飛んで九死に一生を得た話として残っていたりしますね。

 

 

そんなこんなで劉備から馬を与えられた龐統でしたが、

龐統が落鳳坡らくほうはという地名に差し掛かった所で嫌な気持ちに襲われます。

 

龐統は「鳳雛」と例えられた人物であり、

「鳳が落ちる場所」という意味の地名だったからです。

 

 

そして龐統がそう感じた矢先に、、

前もって兵を伏せていた張任の部隊から大量の矢が射かけられ、

 

龐統はそれによって命を落としてしまうのでした。

 

諸葛亮の到着(三国志演義)

龐統が死んだ後の劉備は、

劉循・劉璝・張任らによって更に苦戦を強いられることとなります。

 

劉備が大きく苦戦している事を知った諸葛亮は、

急いで部隊を編成させ荊州から劉備のもとへと駆けつけたのでした。

 

そして諸葛亮が劉備の元へと到着するのですが、

まずは名将として知られていた張任の捕縛に動きます。

 

 

雒城の南に位置していた金雁橋きんがんきょうで張任を捕らえることに成功します。

 

その後は劉璝は部下であった張翼によって殺害されて降伏したことで、

なんとか雒城の攻略を成し遂げています。

「正史」から見る現状

「正史」と「三国志演義」ではほとんど同じような描写の所もあれば、

全く違った逸話の人物も多々います。

 

とりあえず龐統は「雒城の戦い」以降が、

違う描写として描かれていますね。

 

そのあたりの違いを最後に見ていきたいと思います。

①龐統は「落鳳坡」で亡くなっていない

横山光輝三国志(34巻127P)より画像引用

 

「三国志演義」の龐統は、

「落鳳坡」張任の部隊の待ち伏せにあって、

その中で流れ矢にあたった形で絶命していますが、

 

「正史」では雒城包囲中に、

流れ矢にあたって絶命しています。

②張任を生け捕ったのは龐統である

横山光輝三国志(35巻72P)より画像引用

 

「三国志演義」では張任の策にはまり、

流れ矢にあたる形で命を落としていますが、

 

 

そもそもの話として「正史」の方で、

張任を金雁橋で生け捕ったのは龐統・劉備らの手柄であって、

 

諸葛亮の手柄ではありません。

 

 

そもそもこの段階で諸葛亮は劉備の元にすらいませんから・・・

 

 

最終的に劉璋に忠義を尽くす形で処刑された張任ですが、

 

その翌年の雒城攻略戦の中で、

龐統は流れ矢にあたったという感じになります。

③龐統と諸葛亮は入れ替わりではない

横山光輝三国志(35巻48P)より画像引用

 

龐統が亡くなった事で、

諸葛亮が入れ替わりで入ったように「三国志演義」では描かれています。

 

 

劉備は雒城攻略に一年以上の時間がかかっていますが、

 

まだ龐統が生存していた時期に、

「諸葛亮が雒城がある西川地域に入った」

というのが正確な所です。

 

龐統が亡くなってしまったから、諸葛亮が益州にきたわけではありません。

④諸葛亮は雒城攻略戦で指揮をしていない

横山光輝三国志(35巻53P)より画像引用

 

一年という時間をかけて攻略した雒城ですが、

 

あくまで雒城攻略戦で活躍したのは、

龐統や劉備であるという点です。

 

諸葛亮も益州へと入ってはいますが、

あくまで雒城がある西川地域に入ってきたというだけの話になります。

 

 

ましてや雒城攻略戦で指揮を取ったという話は、全くもって論外です。

龐統 -「鳳雛」の異名を持つ益州攻略の立役者-