陸遜(伯言)

陸遜といえば、呂蒙の後釜を継いだ呉の名将です。

 

 

劉備が関羽の復讐として呉を攻めてきた夷陵の戦いでは、

火計を用いて大勝利しています。

 

晩年は孫権の後継者争いである「二宮の変」に巻き込まれて悲運の最期を遂げますが、

長く呉を支え続けた人物でした。

 

 

そんな陸遜について三国志正史を著した陳寿も絶賛しています。

 

ですが正史に注釈を加えた裴松之は、

「陸遜のことが嫌いだったの?」ってぐらいに陸遜を酷評しています。

234年の石陽での戦い

「正史」では、234年5月、

(「陸遜伝」では236年になっています)

 

諸葛亮の北伐に呼応した形で、

魏と呉との間でも大規模な衝突が起こりました。

 

 

孫権自身は合肥に攻め込み、

陸遜と諸葛瑾は荊州の襄陽を攻めたわけです。

 

ですが戦況は悪くなり、孫権は撤退しているんですが、

陸遜は状況を冷静に分析した上で、「ある作戦」を実行しています。

 

 

陸遜は撤退すると見せかけるのですが、

「白囲」という所まで撤退した際に何故か狩りをはじめたのです。

 

まぁ狩りは真っ赤なウソで、

真の目的は江夏の石陽・新市・安陸を急襲することでした。

 

 

石陽の民衆は、どこからともなくいきなり呉の軍勢が出現したことで、

石陽の人々は完全に混乱してしまったわけです。

 

何より呉軍の出現に一番焦ったのが、

そこを守っていた守将だったのは言うまでもありません。

 

 

守将は慌てて城門を閉めようとしたのですが、

混乱した住民で城門が溢れかえっていた為に閉ざすことができませんでした。

 

この時に守将は、

邪魔になっていた住民を殺害しまくります。

 

その犠牲者は数千人ほどにものぼったそうです。

 

 

石陽の人々が、混乱している事を知った陸遜は、

兵士に住民を乱暴する事を禁止します。

 

また捕らえた住民に対して、

食糧・衣服を与えて大事に接しました。

 

 

そして帰宅したい者には自由に帰宅をさせた為、

石陽の住民の多くが呉に帰順したともいわれています。

 

普通に陸遜についての良い話に過ぎませんね。

またこれは呂蒙が荊州を奪った時の石陽版って感じですね。

裴松之の陸遜談

裴松之といえば、

晋が統一を果たした約百年後の人物ですが、

 

歴史家であると同時に、

三国志正史に注釈を加えた人物として有名です。

 

裴松之は陸遜についてのことにも触れていますが、

それがめちゃくちゃ酷い評価を与えられているんですよね。

 

 

裴松之は、石陽の戦いでのことについて、

「陸遜の行った行為は、偽善に過ぎない!

 

「酷い戦略だし、

孔明とは天と地ほどの違いがある!!」

と言っています。

 

 

またこれだけに収まらず、

陸遜の子孫についてまでボロクソに書いてます。

 

 

陸家は陸遜から数えて、三代後に途絶えているのですが、

「陸家が3代で途絶えたのは、

全て陸遜のせいだわ!

 

陸遜の悪行の数々の報いが、

最終的にこうなってしまったのだ!!」

 

といったように、陸家が途絶えたのも陸遜のせいにされています(笑)

陳寿にまで噛みついた裴松之

「正史」を書いた陳寿は、

陸遜に対して非常に良い評価を与えています。

 

しかし裴松之は、

陳寿に対してもダメ出しをしています。

 

「陳寿は間違った事を言っている。

陸遜はそんな優れた人物ではなく酷い人物である!」という風に・・・。

 

 

裴松之が言う程に、

陸遜は酷い事をした感じはしないので、

 

裴松之は陸遜という人物が

「個人的に嫌いだっただけでは!?」と想像してしまいます。

 

 

そうでなければここまで酷評することはなかなかないでしょうし、

 

「陸遜が何故嫌いだったのか?」

は裴松之以外は、知るすべがないことではありますね。