「三国志演義」劉封の記述

横山光輝三国志(43巻27P)より画像引用

 

曹操と孫権が手を結んだことで、荊州を失ってしまった関羽だったのですが、

最終的に麦城に追い込まれてしまいます。

 

 

その後に呂蒙らに捕らえられて処刑されてしまうわけですが、

 

追い込まれていた際に関羽は、

近い距離にあった上庸城に援軍を要請しています。

 

この時に上庸城を任されていたのは、

劉封と孟達でした。

 

 

ちなみに劉封は劉備の養子となった人物であり、

 

一方の孟達は劉備の入蜀を歓迎した人物で、

法正とは劉璋に仕える以前からの古い付き合いの二人でもありました。

 

 

そんな二人が治めていた上庸城ですが、

関羽からの援軍要請が来ても援軍を出すことはありませんでした。

 

任された仕事をこなす上で、

ただでさえ少なかった兵をこれ以上割けなかった事も事実だったでしょう。

 

送らなかった理由としては、

「上庸を手に入れたばかりで安定していない」

ということが最大の理由だったようです。

 

 

その後に関羽から成都へと救援の依頼を飛ばすわけですが、

普通に時間がかかり過ぎた事もあり、

 

関羽は持ちこたえらえれずに捕縛&処刑されています。

関羽死後の劉封と孟達

 

横山光輝三国志(43巻38P・39P)より画像引用

 

劉備は援軍を送らず関羽を見捨てた行為を許さず、

二人を捕縛して罰する準備をしていたのですが、

 

「もう蜀では出世することも叶わない!

ましてや命の危機すらある現状・・・」

と孟達は冷静な分析を降し、あっさりと魏へと寝返ったのでした。

 

 

一方の残された劉封はというと、

孟達から劉封が現在置かれている状況が悪すぎること、

 

そして自分同様に魏へと降ることを勧められるも、

劉封は養父であった劉備を最後まで裏切る事はありませんでした。

 

 

その後に魏軍を引き連れて攻め込んできた孟達によって、

劉封は散々に打ち破られてしまいます。

 

 

その後に劉備の元まで落ち延びた劉封ですが、

 

「関羽を見殺しにした事」に

「孟達らに散々に打ち破られた事」がプラスされ、

処刑を言い渡されたのでした。

 

しかしその孟達から劉封に裏切るように書かれた手紙が送られ、

それに怒りを覚えた劉封が手紙を破り捨てていたことを聞かされた劉備は、

 

劉備は劉封の罪を許そうとするものの、

既に劉封が処刑されてしまった後だったといいます。

 

これが「三国志演義」に記載されている劉封の最後になりますね。

「正史」劉封の記述

劉封が最終的に自害を言い渡された理由として、

関羽に援軍を送らなかった事が影響していたのも事実です。

 

三国志演義では処刑ですが、

正史での最期は自害させられたことになっています。

 

 

また孟達と劉封の関係は、

三国志演義にはそれほど描かれていませんが、

 

劉封が孟達の軍楽隊を強制的に没収したりと、

仲違いしている現状がありました。

 

 

孟達は劉封と対立し、劉備にも疎まれ、

自分と長らく苦楽を共にしてきた法正も病死・・・

 

孟達にとっては悲惨な状況が一気に襲い掛かったのです。

 

だからこそ孟達が魏に降ったのは、当然と言えば当然の状況だったわけです。

 

 

 

ただ劉封は劉備の養子という関係もあり、

孟達のように簡単に裏切るということができるわけもなく、

 

 

あくまで劉備に忠義を尽くす道を選んだわけですが、

「結果が伴わず」と言いますか、想像以上に悪い方に結果は傾いていました。

 

 

そんな劉封に対して、

「それらを理由にして省いてしまおう」

という裏の動きがありました。

 

諸葛亮も劉封を処刑するように強く進言しています。

 

 

劉禅が劉備の跡を継いだ際に、

劉禅と劉封の間に問題が起こる可能性が高いからというもので、

 

実際に跡継ぎ問題で国が衰退することなどはよくある事でした。

 

 

劉封は優れた人物でもあったので尚更だったのです。

 

 

劉封が養子となったのは、

まだ劉禅(阿斗)が誕生していなかった時ですが、

 

こういう形で自害を言い渡された劉封はやるせない思いもあったことでしょう。

 

そんな劉封の最後の言葉は次のようなものだったといいます。

「孟達の言葉に従っておけばよかった」と・・・

 

 

また「三国志」の著者である陳寿も、

 

「劉備に疑われているにも関わらず、その対応を怠った。

死んで当然である!」と非常に厳しい言葉でしめくくっています。