袁紹・袁術

三国志で名門出身といえば、

袁紹・袁術を輩出した袁一族だとよく言われますが、

 

「袁一族が本当に名門なのかどうか?」

を今回は見ていきたいと思います。

 

 

三国志の時代で一番有名な袁紹・袁術の二人から見てみると、

 

袁紹三公の一つである大尉に任命され、

その後は曹操から譲ってもらう形で大将軍に任じられています。

 

「大将軍」と言えば、

将軍のトップの者に与えられる役職になります。

 

ちなみに後漢皇帝であった霊帝から任じられた人物は、

竇武とうぶ・何進の二人だけですし、

 

献帝から大将軍に任じらた人物も、

韓暹・曹操・袁紹の三人だけになりますね。

 

 

 

一方の袁術はというと、袁紹に比べては落ちてしまいますが、

左将軍に任命されています。

 

後に劉備が任じられた役職ですね。

 

 

その後に袁術は皇帝を自称し、

「仲」を建国しますが、反発を招いて滅ぼされています。

 

まぁ自称とはいえ皇帝になっている事を考えれば、

「三公」より更に上に行ってしまってる事になってはいますが・・・

袁家の系譜(家系図)

 

家系図で見てもらうと分かりやすいですが、

袁紹も含めると六人が「三公」に就任しています。

 

また同じ人物が三公に何度かついた人もいますし、

この点をみるだけでも名門の名に恥じない家系だと言えるかと思います。

 

ちなみにですが、後漢時代に、

袁一族以上に「三公」に任命された一族は他にありません。

 

 

 

ちなみに「四世三公」は名前の通り、

四世代に渡って三公についたことをいいます。

 

  1. 袁安(司徒)
  2. 袁敞(司空)
  3. 袁湯(大尉)
  4. 袁逢(司空/兄)・袁隗(司徒/弟)

 

 

ちなみに袁紹も三公の一つである「大尉」に任じられていますので、

袁紹まで含めると「五世三公」の一族だと言えるでしょうね。

 

ちなみに袁紹が大尉になっていたのは短い間で、

曹操が大将軍に任じられていたことで袁紹は恥じたといいます。

「何故に俺の方が曹操より下なのだ」と・・・

 

 

このことから袁紹が「大尉」の地位を受けずに拒否していたともいわれていますが、

 

まぁその場合にしても、そもそもの話として、

三公より上にあたる「大将軍」に任じられていますので問題ないですね。

 

 

そして袁紹が不満を抱いていることが曹操の耳に入ってくると、

 

「大将軍」の地位にそれほど執着がなかった曹操が袁紹に譲った事で、

「大尉」から「大将軍」へと任じられる事となっています。

 

ちなみにこれにより曹操は、「大将軍」から「司空」に格下げされていますね。

偉大な御先祖様

袁一族はもともと名門などではなく、

袁安えんあんの世代から後に「四世三公」と呼ばれる名門まで上り詰めるわけですね。

 

そんな袁安ですが、大変な苦労人でした。

 

しかし皇帝に見いだされたことで「司空」を経て、

最終的に「司徒」になっています。

 

 

そして袁安以降の世代になっても「三公」を輩出し続け、

最終的に袁紹へと引き継がれていったのでした。

 

  • 袁安(えんあん)・・・章帝の時代に司空→司徒を務める
  • 袁敞(えんしょう)・・・安帝の時代に司空を務める
  • 袁湯(えんとう)・・・桓帝の時代に司空→司徒→大尉を務める
  • 袁逢(えんほう)・・・霊帝の時代に司空を務める
  • 袁隗(えんかい)・・・霊帝の時代に司空→司徒を務める
  • 袁紹(えんしょう)・・・献帝の時代に大尉→大将軍を務める

後漢の官僚制度(三公九卿)

袁紹・袁術一族のその後

「四世三公」と言われるほど名門であった袁一族ですが、

 

董卓が洛陽に入城して独裁政治を行った頃から、

暗雲が立ち込めてくることになります。

 

 

董卓の暴政に対して袁紹・袁術が反旗を翻し、

袁紹を盟主とした反董卓連合が結成されると、

 

董卓は袁一族を処刑してしまうのでした。

 

袁紹・袁術の叔父にあたる袁隗、

兄にあたる袁基もこの時に処刑されています。

 

 

その後に袁紹が官渡の戦いで曹操に敗れ、

袁譚・袁煕・袁尚ら遺児もまた曹操に敗れると、名門袁家の時代は終わりを迎えます。

 

 

 

また一方の袁術はというと、皇帝を自称したことにより、

 

多くの者達から反感を買った結果、

最終的に曹操・劉備らによって袁紹より先に滅ぼされています。

 

 

これらのことにより袁一族の血脈は途絶えたかのように思いますが、

袁紹の次男であった袁煕の子孫が生きのこっていた事が分かっています。

 

 

実際にそのことが分かる資料として、

唐の時代(618年~ 907年)に、

袁煕の子孫にあたる袁恕己中宗の宰相になったことが記録として残っています。

 

そのことが描かれてあるのが、

「新唐書」の宰相世系表になります。

 

もしもここで名前が残っていなければ、

袁紹の一族は曹操によって完全に滅ぼされていたという認識になっていたのでしょうね。

 

 

 

また袁術の家系はというと、

袁術の娘(袁夫人)が孫権の側室となっています。

 

 

孫権は名門出身の周瑜であったり、

「呉の姓姓」との繋がりも強化しており、

 

出生として良くも悪くも名門とは言えなかった孫権は、

袁術の娘(袁夫人)を側室とした感じなのででしょうね。

 

 

また袁術の息子である袁燿えんようで、

袁燿の娘は孫権の息子であった孫奮に嫁いでいますし、

 

袁術滅亡後は、孫一族の中でひっそりと血脈を残していくのでした。

 

 

ただその後の袁術の子孫らも時代の経過とともにどうなっていったのかは、

資料としてほとんど残っていません。

袁夫人 -孫権に嫁いだ袁術の愛娘-