曹操の腹心的立ち位置であった陳宮(公台)

陳宮兗州東郡武陽県の出身になります。

 

陳宮は剛直な性格で、若い頃から様々な者達と交友を結んでいたといいます。

そんな中で陳宮は曹操に仕えることとなります。

 

 

「三国志演義」では、

董卓殺害計画に失敗した曹操に懸賞金がかけられた際に、

 

陳宮に捕縛されるも、曹操の高い志を知って逃がしています。

 

「その際に陳宮も曹操に従った」という感じになっていますよね。

 

 

ただその後の「呂伯奢事件」によって曹操に愛想をつかし、

「曹操の元を立ち去った」という感じで描かれています。

 

 

ただ「正史」にはそういった記載があるわけではなく、

「曹操に付き従った」という感じでいきなり登場しています。

 

 

 

そして192年に曹操にとって、

大きな転換点ともいうべき出来事が起こります。

 

兗州に百万とも言える黄巾賊が雪崩れ込んできたわけです。

まぁ実際に百万ほどはいなかったと思いますが・・・

 

 

兗州刺史であった劉岱が、青州黄巾賊の侵入で討死すると、

 

「済北国の相」であった鮑信が、

東郡太守であった曹操を「兗州牧」として招いたのでした。

 

 

鮑信と曹操は深いつながりがあったことから、

劉岱の独断専行的な判断として書かれてあることが多いですが、

 

曹操に声がかかるように陳宮が色々と根回しをした結果だったといいます。

 

 

曹操はこの戦いで青州黄巾賊を降すことに成功し、

「青州兵三十万」を手に入れています。

 

そしてここから曹操は大きく飛躍していくこととなります。

「魏武の強 ここから始まる」と言われる程に・・・

陳宮の反旗

194年に曹操の父親である曹嵩が、

「陶謙配下に殺害される」という事件が発生します。

 

これに大きな怒りを覚えた曹操は徐州へと攻め込みます。

 

 

しかしこのタイミングで陳宮は張邈に対して、

「兗州を奪う絶好の機会である!」とそそのかし、

呂布を迎えて反乱を起こしています。

 

 

張邈と曹操はかつて次のような約束をしていた事もある間柄でした。

「お互いの身に何かあった際に家族を任せる!」と・・・

 

だからこそ曹操のショックは、

非常に大きなものでもあったわけです。

 

 

これにより兗州の鄄城・東阿城・范城を除く全てが、

陳宮・張邈・呂布勢力へと落ちたのでした。

 

ちなみにこの三城が落ちなかったのは、

荀彧・程昱の功績によるところが非常に大きかったのは余談です。

 

 

急ぎ徐州から撤退してきた曹操でしたが、

大飢饉が発生したことで曹操と呂布は膠着状態に・・・

 

しかし食糧の確保ができた曹操は、

翌年呂布らを撃退する事に成功し、兗州を取り戻したのでした。

 

 

曹操に敗れた張邈は部下からの裏切りで殺害され、

「張邈の三族は曹操によって処刑された」といいます。

 

ちなみに陳宮や呂布は戦線からの離脱に成功し、

徐州の劉備を頼って落ち延びていったのでした。

 

 

 

劉備は呂布を歓迎するものの、

 

「その後の呂布の行動に不快感を抱いた」

という記述があったりします。

 

 

しかし劉備が袁術討伐に乗り出した際に、

呂布は劉備の下邳城を奪い、徐州を乗っ取ってしまうのでした。

 

「三国志演義」では陳宮が呂布をそそのかしたように描かれていますが、

「正史」にはそういった事は書かれているわけではないですね。

 

 

また「三国志演義」では、呂布と劉備の間を引き裂く為に、

様々な計略を駆使した記載がされていたりします。

不可解な陳宮の行動

「陳宮は高順と非常に仲が悪かった」

という逸話が残っていたりしますが、

 

そして「二人が仲が悪くなった」と思われる事が記録として残っていたりします。

 

 

呂布が徐州を手に入れてからすぐの話ですが、

呂布配下の郝萌かくぼうが反乱を起こしたことが「漢末英雄記」に書かれてあります。

 

196年の6月の夜のことだったといいます。

 

 

 

郝萌の反乱は高順の迅速な対応によって失敗に終わるわけですが、

誰が黒幕であるのかが当初分からずにいました。

 

そんな中で郝萌の部下であった曹性が、

郝萌を見限って逃亡してくるわけですが、曹性が口にしたのは次の事でした。

「郝萌に反乱するように持ち掛けた黒幕は、

袁術と陳宮の二人である」と・・・

 

実際にその場にいた陳宮は顔を赤らめながらも、反論することはありませんでした。

 

 

しかし呂布が陳宮を罰した記録はなく、

「陳宮が大将であったという理由で許した」といいます。

 

真相はかなり謎ではありますが、

陳宮は袁術と通じて呂布排除を計画していたという事が書かれてあるわけです。

 

 

そして呂布に長らく忠義を尽くしていた高順は、

 

この件があったからこそ、

陳宮と高順の溝がかなり深まったのは間違いないでしょうね。

呂布VS曹操

呂布に領土を奪われた劉備でしたが、

なんだかんだで再び呂布の元に世話になる形で落ち延びていました。

 

不思議な関係だったわけですね。

 

 

しかしその後二人の関係が完全に崩れると、劉備は曹操の元へと逃亡し、

198年に入ると曹操は呂布討伐に乗り出したのでした。

 

 

陳宮は「曹操軍は遠征による疲労がある」との判断から。

「呂布と陳宮の二手の軍勢での迎撃」を提案するものの、

 

 

その際に呂布の妻が、

次のような言葉をいって反対したといいます。

 

「曹操から厚遇を受けていた陳宮が恩を仇で返したのです。

信用できない人物だと思われます」と・・・

 

「英雄記」の記載も考慮すると、

呂布の妻の意見は当然の判断だったようにも思えますね。

 

 

 

そして下邳城に立て籠もる呂布でしたが、

 

198年の冬に差し掛かると、

「冬の戦闘を避けたい」という曹操の考えもあってか、

降伏するように呼び掛けた事もありました。

 

 

呂布はこれに心がなびいていましたが、

 

「曹操に降伏するのは、

石に卵を投げつけるのと同じです」と大きく反対したといいます。

 

 

これにより呂布は降伏する事をやめるものの、

候成・魏続・宋憲が陳宮を縛り上げて、曹操に裏切った事で戦いは終わりを迎えます。

 

そして呂布も間もなく捕らえられ、処刑されてしまいます。

 

 

「三国志演義」では、

この侯成・魏続・宋憲の三人が「呂布を捕らえた」ことになっていますが、

 

「正史」では三人が捕らえたのはあくまで陳宮ですね。

最期の対話(陳宮と曹操

曹操に捕らえられた陳宮ですが、そんな陳宮に対して、

 

「私は貴方が智謀の士だと思っていた。

しかし今のこの有様はどうだろうか!?」

と曹操は静かに言葉をかけたのでした。

 

 

そうすると陳宮が呂布を指差し、

「こいつが私の言葉に従わなかったからこうなってしまったのだ。

そうでなければ捕らえられることもなかったであろう」

と言葉を返しつつも言葉を続けます。

 

「臣下の立場としては、

忠義がなかったのは間違いない。

 

そして子としても親不孝者である。

殺されても自業自得なだけの話だ!」と・・・

 

 

 

曹操は再び話しかけます。

「残される老母と妻子はどうするのか!?」と問うと、

 

陳宮は「全て曹操殿次第の話である」と返し、

 

曹操が次に口を開ける間もなく、

「早く処刑して頂きたい!」と自ら処刑場へと歩いて行ったといいます。

 

 

最後まで降る事のなかった陳宮に対して、

曹操は涙を流しながら陳宮の後ろ姿を見守ったのでした。

 

 

そして陳宮死後の話ですが、

曹操は陳宮の家族を迎えて厚遇したといいます。

 

また陳宮の娘に関しては嫁ぐまでしっかりと面倒をみたと伝わっています。