下邳で物資の横領&略奪に励んだ笮融(さくゆう)

笮融さくゆうはもともと丹陽出身で、

「丹陽にいた頃から既に数百人の部下がいた」といいます。

 

その後の笮融は徐州へと渡っています。

 

 

そしてそのまま徐州の陶謙に仕えており、

物資輸送の監督官を任されていたようですが、

 

しかし笮融は任された物資を密かに「横領」し、

「略奪」の限りも尽くしたといいます。

 

 

陶謙は薄々と笮融の動向に不信感を抱いていくわけですが、

曹操が徐州へと侵攻を開始する事件が起こります。

 

しかし劉備が援軍としてかけつけたこと、

そして張邈・呂布らが兗州を襲ったことにより、陶謙はこの危機を運よく退けています。

 

 

 

この時に笮融が何をしていたかというと、

 

不信感を抱かれていた事に気づいていた笮融は、

そそくさと揚州刺史であった劉繇へと轡替えをしています。

 

 

曹操によって徐州で大虐殺が行われ、

それによって徐州は荒廃したと一般的には言われることが多いですが、

 

実際に徐州が荒廃した原因の1/3は、

笮融による略奪行為が原因だとも言われたりしています。

劉備に徐州を譲った陶謙

中国仏教の先駆者(三国時代随一の仏教勢力者)

笮融は物資輸送の監督官を任されていたことをいいことに

横領や略奪の限りを尽くしていたのは上でも述べた通りですが、

 

 

笮融はこれらの横領物や略奪物を注ぎ込んで、

 

三千人が収容できるという仏教寺院であったり、

仏像を建立したといいます。

 

祀られた銅製の仏像は、金箔で仕上げられており、

その上から鮮やかな布服を着せており、非常に立派なものだったようです。

 

 

そして仏教徒に入信する者が次々に訪れると、

その数は数万人にまでのぼったとされています。

 

また入信すると税金(賦役)も免除されたということで、

それが要因となり、信者が増えた一因とも言われていますね。

「笮融が下邳国の相だった」と記載されています(江表伝)

 

 

ただ信者には仏典を読むことは義務付けたらしく、

 

また釈迦が生まれた日を祝う4月8日(仏誕節/灌仏会)に、

仏教寺院に訪れた者達に無償で酒や食料を提供したといいます。

 

この様子を一目見る為に訪れた者達は、一万人を超える程だったとも言われ、

かかった資金は半端ない額だったと伝わっています。

 

 

それだけの資金を捻出できたという事は、

略奪行為を一生懸命に頑張って私腹を肥やしていたのでしょうね。

 

そして仏教の普及の為に大判振る舞いをした笮融・・・

 

 

確実に間違っている気がしますが、

中国仏教の普及を加速させた人物であることは間違いありません。

広陵で略奪の限りを尽くした笮融

徐州から逃げてきた笮融を救ってくれたのが、

広陵太守の趙昱ちょういくでした。

 

趙昱は笮融を「賓客の礼」をもって手厚く迎えたわけですが、

 

笮融は広陵の豊かさを目の当たりにし、

「この地の物資も略奪したい!」という欲が発生してしまいます。

 

そこで笮融はお世話になった張昱をサクッと殺害して、

広陵でも略奪の限りを尽くしたのでした。

 

 

そして広陵の地でも奪えるものがほとんどなくなってしまうと、

笮融が次に目を向けたのが以前より縁があった薛礼さつれいが守る秣陵城(後の建業)へと足を運んだわけです。

 

そして笮融と薛礼は話し合って、

揚州刺史であった劉繇を主君と仰ぐことにしたといいます。

孫策VS劉繇・薛礼・笮融

孫策が劉繇の領土に攻め込んでくると、

笮融は劉繇・薛礼に協力して共に戦うこととなります。

 

両者は一進一退の攻防を繰り広げるわけですが、

この戦いで孫策は矢傷をうけてしまいます。

 

 

これを利用したのが孫策で、

「自分自身(孫策)が矢傷が元で亡くなった」

という嘘の情報が流されると、

 

その情報にまんまと踊らされた笮融が敗北を喫してしまいます。

 

それに伴って薛礼の軍も崩壊を招き、

最終的に劉繇・笮融・薛礼らは逃亡していったのでした。

 

 

ちなみに太史慈と孫策が一騎打ちを繰り広げた戦いは、

この劉繇VS孫策の中での戦いになりますね。

太史慈と孫策の出会い(一騎打ち)

豫洲太守の座(諸葛玄&朱晧)

後漢末期の時代においては、

各地の群雄が好き勝手していたこともあり、

 

「太守の座」がいきなり空席になることもよくありました。

 

そういう場合は自らと親しい者を勝手に任命して、

「支配権を拡大する」といった事が平然と行われていたのです。

 

 

 

この時の豫章太守の状況がまさにそのような状況で、

一つの太守の座に「二人の太守」任じられているという状況でした。

 

 

つまりどういうことかというと、

袁術は自分よりの諸葛玄を豫章太守に任命したわけですが、

 

その後に朝廷から正式に派遣された朱晧しゅこうを新たに太守に任じ、

袁術が命じた諸葛玄から交代させようとします。

 

そこで諸葛玄は仕方なく、以前から付き合いのあった劉表の元へと、

一族を引き連れて落ち延びていくのですが、

 

ちなみにこの諸葛玄の甥にあたるのが、

諸葛瑾・諸葛亮・諸葛均になります。

 

 

ただこれには別説もあり、

諸葛玄を豫洲刺史に任じたは劉表で、

 

諸葛玄と朱晧の間で戦いが勃発したという話もあります。

 

そんな折に孫策に敗れた劉繇・笮融・薛礼らが朱晧を助たことで、

最終的に諸葛玄は討ち取られてしまったというものですね。

 

 

 

ちなみにですが朱晧が朝廷より任命された経緯として、

 

「揚州刺史であった劉繇が、

朝廷に働きかけてた可能性がある」と思っています。

 

そうでなければ孫策に敗れて逃亡中の劉繇が

わざわざ朱晧を助けたりなんて普通は考えられないと思いますしね。

朱晧・薛礼を殺害→劉繇から独立→そして・・・

完全に落ち目となった劉繇・薛礼らを見た笮融は、

専売特許である「裏切り」を発動して、二人をサクッと裏切ります。

 

まず豫洲太守であった朱晧を殺害し、

前からの付き合いがあった薛礼も殺害し、

 

完全に劉繇を見捨てた形で独立したわけです。

 

 

これに激怒したのが言わずもがな劉繇で、

怒りを爆発させ、笮融討伐に向かったのでした。

 

この劉繇の侵攻を一度は防ぐことに成功した笮融でしたが、

再度の激突で劉繇軍に打ち破られてしまいます。

 

これにより笮融は逃亡することになるわけですが、

「その最中に殺害された」といいます。

 

 

殺害した者達は地域住民だとも地元の元信者だとも言われていますが、

 

仏教の教えと真逆の動向を続ける笮融に対して、

「信者が愛想をつかして殺害した」とみる方が自然な感じもしますね。