黄蓋(こうがい)

黄蓋は、若かりし時に父を亡くしていた為に、

 

貧しい生活を余儀なくされていましたが、

黄蓋は薪(まき)を背負いながら、勉学にいそしんでいました。

 

そのかいあって、黄蓋は零陵郡の役人になることができます。

 

 

官僚への道を歩んでいた黄蓋でしたが、

孫堅が挙兵するとこれに従います。

 

その後の黄蓋は、各地で活躍し、

程普・韓当・祖茂と共に「孫堅四天王」と呼ばれるようになります。

 

孫堅が黄祖によって討たれると孫策に仕え、孫策の死後は孫権に仕えています。

 

 

江東では多くの反乱が起こっていましたが、

黄蓋は自ら先頭に立って戦い、多くの反乱鎮圧に成功します。

 

また黄蓋は部下に優しかった為、

部下からの信頼も非常に高かったようです。

 

また治安が悪い地域の長官として赴いて、

各地で優れた統治能力を発揮し、多くの民衆に慕われます。

赤壁の戦いで火攻めを提案

曹操が南方制圧の為に進軍してくると、

両者は長江を挟んで曹操軍と孫権軍は対峙します。

 

この時黄蓋は、大都督であった周瑜に火攻めを提案し、

曹操軍に降伏する振りをし、火攻めを行って曹操軍の艦船の多くを焼き払っています。

 

 

また武陵蛮と呼ばれる非漢民族が反乱を起こすと、

たったの500人で討伐にあたり、武陵蛮を誘いこんで撃退しています。

 

彼らは荊州付近を中心に居住していた非漢民族でしたが、

首謀者以外の者の罪を問わず、全て許しています。

 

無駄な血を流さず、彼らを心服させたわけです。

 

 

そんな黄蓋も病気にかかってしまい、この世を去ってしまいます。

 

多くの人々に惜しまれながらこの世をさった黄蓋は、

死後も季節が変わるたびに、黄蓋の肖像画が描かれ祀られたそうです。

赤壁の戦い時に死にかけた逸話

横山光輝三国志(26巻103P)より画像引用

 

赤壁の戦いの勝利の立役者になった黄蓋ですが、

黄蓋についてのちょっとしたエピソードが残っています。

 

黄蓋は曹操軍の船を焼き払うことに成功するものの、

曹操軍の流れ矢が黄蓋に当たってしまって川へ落とされてしまいます。

 

その後に黄蓋はなんとか助け出されたのですが、

助け出したものが黄蓋だとは気づかず、近くのかわやにとりあえず避難させました。

 

 

この時も曹操軍との戦いはまだ継続しており、

そのまま放置されるはめに・・・

 

黄蓋は川に落ちたことで体温が下がっていたこともあり、凍え死にそうなります。

 

 

しかし黄蓋の顔を知っていた韓当によって見つけ出された為に、

黄蓋はなんとか命をつなぎとめることができました。

 

赤壁の立役者が戦死でもなく、

厠で凍えて死んだとなっては黄蓋も浮かばれませんからね。

三国志演義での黄蓋

三国志演義での黄蓋も、正史同様に赤壁の戦い時に、

曹操に嘘の降伏をする為に周瑜と計って苦肉の策を実行しています。

苦肉の策

 

これによって黄蓋の降伏を信じた曹操は、

 

龐統がしかけた連環の計もあいまって、

火攻めによって曹操の艦船は焼き払われてしまいました。

 

正史同様に、赤壁の戦いの立役者の役目を与えられたという事ですね。

連環の計

 

ちなみに三国志演義でも、矢に当たったエピソードは使われています。