韓遂(かんすい)

韓遂が登場するのは霊帝の時代で、

辺章と共に涼州・雍州地域の人物として高く評価されていました。

 

韓遂が首都であった洛陽に赴いた際に、

大将軍であった何進(かしん)に目をかけられます。

 

韓遂は何進に対して、

漢王朝の癌ともいえる宦官を誅殺するように進言しますが、

 

何進が韓遂の言を聞かなかった為、

何進に愛想を尽かし、郷里に引き上げます。

韓遂、漢王朝を見限る

そんな折、宋建・王国が反乱を起こし、

韓遂・辺章は、宋建・王国らに捕らえられてしまいます。

 

ここで韓遂・辺章は、漢王朝を裏切り、

宋建・王国に寝返ります。

 

そして宋建・王国は、

自分達の代わりに韓遂と辺章に軍勢を任せた事により、

漢王朝は混乱する事態となります。

 

これ以後の韓遂は、

涼州を中心に幾度となく、反乱を繰り返していきます。

反乱の幕開け

 

185年の韓遂が反乱した際には、

漢王朝は、皇甫嵩(こうほすう)と董卓(とうたく)を派遣しますが、

大した成果を上げられず、皇甫嵩のみ罷免させられています。

 

皇甫嵩と言えば、黄巾の乱討伐の際、

一番の功労者と言っても過言でない活躍を見せた人物です。

 

皇甫嵩が罷免させられると、

その代わりに張温(ちょうおん)派遣され、

張温と董卓で韓遂ら反乱軍にあたる事になります。

 

序盤、張温と董卓は、韓遂らに敗れはするものの、

その後反撃し、韓遂の反乱を鎮圧する事に成功します。

 

その後、落ち延びた韓遂は、

辺章を殺害し、彼の軍勢を吸収しています。

※辺章は病死したという説もあります。

王国・韓遂の乱

187年になると、

韓遂は再び反乱の火の手をあげます。

 

この時漢王朝に仕えていた馬騰が韓遂に味方し、

王国を盟主にして暴れまわります。

 

しかし188年に皇甫嵩・董卓に敗れると、

盟主として担いだ王国を追放してしまいます。

 

ちなみに王国は、

この混乱の中で死亡してしまいます。

李傕・郭汜に恭順する

董卓の専横が始まると、

洛陽から長安へ遷都が行われました。

 

董卓が呂布に殺害され、李傕・郭汜らが力を持つと、

韓遂や馬騰は、李傕・郭汜に恭順を示しています。

 

その際に、韓遂は鎮西将軍に、

馬騰は征西将軍に任命されています。

長安奪取計画

 

194年になると、馬騰が心変わりをし、

劉焉と組んで長安を攻めますが、

 

これを聞いた韓遂は、

馬騰と李傕・郭汜らの和解に動きます。

しかし、馬騰を説得する事ができませんでした。

 

それに伴い、韓遂も馬騰に協調する形で加わりますが、

情報が漏洩していたこともあり、この計画は失敗に終わってしまいます。

 

情報が漏れた事により、劉焉の息子である劉範・次男の劉誕(りゅうたん)は、

李傕・郭汜らに討ち取られます。

益州で独立国を夢見た劉焉

敵対する馬騰と韓遂

破れた韓遂・馬騰でしたが、

その後、義兄弟の契りを結んでいます。

 

しかし二人の仲がこじれてくると、

涼州を巡って、二人の間で争いが起こります。

この対立は激化し、韓遂は馬騰の妻子を殺害しています。

 

劉備・関羽・張飛が結んだ義兄弟とは天地の差がありますね。

 

 

この争いは、曹操が仲介して治まり、

二人は曹操に臣従します。

 

この際に韓遂は人質として、息子を曹操の元に送っています。

潼関の戦い

 

211年に入ると、

曹操が張魯討伐に乗り出します。

 

これを知った韓遂は、

自分達が攻められるのではないかと疑心暗鬼に陥り、

馬騰の息子である馬超らと共に曹操に反旗を翻します。

 

潼関(どうかん)で対峙した両軍ですが、

この反乱は大規模なもので、曹操軍は苦戦に陥ります。

 

それを妥協したのが、賈詡による離間の計でした。

これにより馬超に韓遂を疑わせ、足並みを乱れさせ

韓遂・馬超らの反乱は鎮圧されます。

 

この際、曹操に仕えていた馬騰ら一族と

曹操の元に送っていた韓遂の息子らは全員処刑されてしまいます。

韓遂の最後

 

馬超が異民族である氐族と組んで曹操に兵を挙げるも、

夏侯淵によって鎮圧されてしまいます。

 

この際、とばっちりで韓遂も攻められる事になり、

閻行(えんこう)の裏切りもあり、夏侯淵に敗れます。

 

 

この際に韓遂は、

益州を治めていた劉備の元に落ち延びるか考えたようですが、

それを信頼していた成公英(せいこうえい)に相談したところ、

 

成公英が羌族の下で力を蓄える事を勧めた為に、

韓遂は羌族を頼って落ち延びています。

 

 

翌年、羌族から数万の軍勢を借りて閻行を攻めようとしますが、

麹演(きくえん)・蒋石(しょうせき)によって裏切りによって韓遂は首を討たれてしまいます。

 

二人は、韓遂の首を持って曹操に降っていき、

反乱に一生を捧げた韓遂の人生は、これによって幕を下ろすことになりました。

齢70歳あまりだったといいます。

三国志演義での韓遂

横山光輝三国志(31巻36P)より画像引用

 

韓遂は、馬騰と義兄弟の契りを結んでおり、

董卓残党軍と戦うも敗れています。

 

馬騰が曹操の罠にはまって殺害されると、

馬騰の息子である馬超と共に曹操への兵を挙げます。

 

その際、韓遂は、

手下八部と呼ばれる人達を率いて馬超に手を貸しています。

※手下八部・・・楊秋・馬玩・梁興・程銀・成宜・李堪・侯選・張横

韓遂の手下八部(関中八部)

 

韓遂・馬超連合軍は長安を落とし、

渭水で曹操軍と対峙します。

 

最終的に賈詡の離間の計により、

韓遂と馬超の足並みが乱れ、そこを曹操につかれて破れてしまいます。

 

ちなみに韓遂が曹操と通じていると疑った馬超の怒りに触れ、

韓遂は左腕を切り落とされています。

また手下八部の多くがこの戦いで命を落としました。

 

曹操に降伏してからの韓遂は、

関内侯に封じられ、夏侯淵と共に関中に留まっています。

 

三国志演義では、

韓遂はその記述を最後に登場していません。