曹爽(曹真の息子/そうそう)

曹爽は曹真の息子であり、

曹叡死後の曹芳の補佐を司馬懿と共に任された人物でした。

 

 

曹爽は年上であり、実績からしても格上であった司馬懿の意見を聞き入れて、

司馬懿を立てていたわけですが、

 

曹爽の周りの者達が「司馬懿に権力を持たせることの危険性」を説いた事から、

曹爽は司馬懿を疎んじるようになっていきます。

 

 

そして曹爽は司馬懿から兵権を奪う事を目的に、

大将軍よりも立場的には上でしたが、実権がない名誉職の太傅に祭り上げたのでした。

 

 

 

そしてこれをきっかけに曹爽の暴走は始まります。

 

曹爽は身内や側近を重要視し、高位の役職に次々に任命していったことで、

曹爽にとって都合の良い人材だが強い力をもっていったわけです。

 

 

 

そして曹爽一派に属して重要視された者達は碌な者達がいなかったのが実情です。

「類は友を呼ぶ」って感じでしょうか!?

 

 

まぁ曹爽派の何晏(何進の孫/曹操の養子)は、

「論語集解」を著したりと、文学の面で後世に与えた影響が大きな人物ではあるので、

 

この人物に関しては性格には多少の難はありましたが、優秀な人物の一人であったとは思います。

 

 

〈取り巻きを簡単に説明〉

  • 丁謐(ていひつ)→司馬懿を太傅に祭り上げるように進言した張本人
  • 何晏(かあん)→何進の孫・優れた学者・仲間を簡単に売る
  • 鄧颺(とうよう)→お金と女性が好き
  • 李勝(りしょう)→落ちこぼれ
  • 畢軌(ひつき)→いたって傲慢なだけの普通の人

 

 

 

最終的にはやりすぎた事もあり、

司馬懿のクーデター(高平陵の変)により敗北し、

 

最終的に曹爽・曹羲兄弟だけでなく、

曹爽派に属していた多くの者達が処刑されてしまう事となります。

 

 

そんな曹爽ですが、正始五年(244年)に蜀討伐に乗り出したことがありました。

今回はその話について話していきたいと思います。

後世の文学に多大な影響を与えた何晏(何進の孫/曹操の養子)

「蜀討伐(興勢の役)」/正始五年(244年)

曹爽は自らの威勢と権威を高める為に、

丁謐・鄧颺・李勝らからの言葉もあり、蜀漢討伐に乗り出します。

 

この時の魏軍の兵力は十万人程度と言われており、

その兵力をもって王平が守備する漢中へと侵攻を開始したのでした。

 

 

 

王平は歴戦の猛者であり、蜀にとってなくてはならない存在の一人でしたが、

の漢中を三万人に満たない兵で守っていたようです。

 

 

この時の漢中の守備兵が減っていたのには理由があり、

前年の243年に蒋琬が北伐の為に備えていた大軍を分散させ、

 

蒋琬をはじめ主力部隊は漢中の後方にあった涪城に置かれている状況だったのです。

 

 

曹爽が攻め込んできた理由の一つにも、そういった背景があったともいえますね。

 

 

その後に双方が激突するわけですが、兵力的に勝っていたにもかかわらず、

曹爽は王平の見事な対応の前に苦戦を強いられてしまいます。

 

 

 

そこに涪城から援軍が到着しただけでなく、

成都から費禕までもが援軍を引き連れてやってきたわけです。

 

最終的に曹爽は撤退を開始するわけですが、

そこを費禕により追撃され、退路を遮断されたりしたことで大敗したといいます。

 

それは輸送用の牛馬すらもほとんど失うほどだったのでした。

 

 

 

ただその輸送用の牛馬の多くを異民族から借りていた経緯もあり、

曹爽が異民族から怒りを買ったのは余談です。

 

また正始七年(246年)に、

呉の朱然と戦うこともあったのですがそこでも大敗を喫していますね。

 

 

そして曹爽の権威も地に落ちていく中で、

司馬懿の反撃を食らってしまい、正始十年(249年)に処刑されてしまうのでした。

費禕 -蜀を支えた最後の「四相」-