陳式(ちんしき/ちんしょく)

蜀には陳式という人物がいたのですが、

読み方は「ちんしき」、または「ちんしょく」と一般的に呼ばれています。

 

 

「三国志(正史)」を著した陳寿の父親であるとも

 

一つの説として言われていますが、

実際のところ二人が親子とする確たる証拠はありません。

 

 

ただこの話は「晋書」

「第一次北伐で処刑された馬謖の参軍であったのが陳寿の父親であるが、

連座の罪として髠刑(剃髪)の処罰を受けたことがある」といった話が書かれてあります。

 

 

「三国志演義」では、この話を誇張させ、

 

「陳式が諸葛亮によって処刑される」

といった話が盛り込まれていたりします。

 

 

そもそもの話として陳式は。

正史に限られた範囲でしか登場していない人物ですが、

 

諸葛亮の北伐で活躍した人物でもあるわけです。

 

 

ただ第三次北伐以降には登場しなくなり、

最終的にどうなったのか記録が残っていない人物でもあります。

 

 

もし陳寿の父親であったならば、

もう少し詳細な記録があっても良さそうではあるのですが・・・

 

それなりに功績を残した人物であるにも関わらず、

謎が多い人物の一人です。

漢中攻略戦

横山光輝三国志(39巻16P)より画像引用

 

陳式は劉備の漢中攻略戦にも参加しています。

 

 

漢中を守るのは曹操の旗揚げ時から付き従ってきた夏侯淵であり、

 

この戦いの中で陳式は、

夏侯尚の軍勢と戦った際に捕虜になってしまいます。

 

 

ただし、その夏侯尚も黄忠が捕縛したことにより、

後日に二人の人質交換がされたわけです。

 

その後は法正の見事な作戦と大将であった夏侯淵が討ち取られたことで、

劉備は勝利を収めています。

 

 

また夏侯淵の仇を討つべく曹操自ら漢中へと軍を進めていますが、

劉備が漢中を守り通したことによって曹操撃退に成功しています。

第三次北伐

横山光輝三国志(56巻27P・28P)より画像引用

 

それから時代は流れるわけですが、

諸葛亮の北伐で陳式がやらかしてしまいます。

 

それは第三次北伐時のことですが、

魏延と陳式が諸葛亮の命令を無視して敵を追撃したことがありました。

 

この時代は命令違反をしたとしても、

良い結果に結びつけば許されるといった暗黙のルールが存在していました。

 

 

 

しかし結果は魏延と陳式に味方せず、

多くの兵士を無残にも失ってしまったのでした。

 

 

「信賞必罰」を掲げていた諸葛亮にとっては、

魏延と陳式の二人を処罰したいのが心の中の気持ちではありましたが、

 

人材が少なくなっていた蜀にとって、武勇に秀でた魏延を処罰するわけにもいかず、

全ての罪を背負わされたのが陳式だったわけです。

 

そして陳式は多くの兵士を死なせた罪により処刑されてしまうのでした。

「正史」に記載される陳式の姿

 

上記のように「三国志演義」漢中攻略戦での陳式、

第三次北伐時での陳式を見ても分かる通り、

良い所なしの陳式ですが、

 

「正史」に記載が残る陳式は優れた人物として描かれています。

 

きちんとした結果を残している人物で、

一言で言えば「良将」と呼べる人物の一人かと思います。

 

 

そんな陳式の最初の記載は、

「三国志演義」同様に漢中攻略戦で登場しています。

 

陳式は劉備の命により、

馬鳴閣道(漢中の西側にある要所の地)の封鎖を命じますが、

普通に陳式は徐晃によって破られていますね。

 

ちなみに「馬鳴閣道」は、

曹操が「漢中の喉元」と呼んだほどの場所でもあります。

 

 

陳式にとっては苦いデビュー戦だったかもしれませんが、

次に陳式の名前が登場するのは夷陵の戦いでした。

 

ここでは呉班と共に水軍の指揮を命じられていますが、

きちんとした記録は残っていません。

 

 

ただ夷陵の戦いに敗れた劉備が命からがら撤退し、

 

多くの者達が命を落としていく中で、

呉班と陳式は無事に撤退に成功させていますね。

 

 

そして「三国志演義」で処刑された第三次北伐ですが、

諸葛亮と共に郭淮を挟み撃ちにしようとした記録が残っていたりします。

 

またそれだけでなく、先鋒の大将として、

武都・陰平攻略に見事に成功しています。

 

 

「ただの田舎を攻め落としただけだろ!」と言われると、

まぁ否定はできないのですが・・・

 

それでも北伐で結果をきちんと残していることは評価できる点だと思います。

 

その後の陳式の記録は完全に途絶えています。

 

 

ここまで見てきた「正史」での陳式の記録ですが、

任された仕事で失敗したり成功したりという両方の結果はあるものの、

 

命令違反を犯すような人物ではなく、

「任された仕事を完遂すべく全力を尽くせる人物だった」といえるでしょうね。

⑮諸葛亮の北伐(第1次〜第5次)