曹邵&曹真の親子

まだこれは曹操が挙兵した頃の話になりますが、

曹邵そうしょうも一族としてこれに参加しています。

 

しかし董卓と敵対していた曹操は、

初平元年(190年)に豫洲牧の黄琬こうえんによって、曹邵は殺害されてしまったのでした。

 

 

ちなみにですが黄琬は董卓が朝廷を掌握すると、

中央に召還されて、司徒を経て、大尉に任じられています。

 

司徒も大尉も三公なので、董卓によって抜擢された事がよく分かりますね。

 

 

この曹邵の息子が曹真になります。

 

幼くして父である孫邵を失った曹真に同情した曹操は、

曹真を自ら引き取って、実の息子である曹丕・曹彰・曹植らと共に育てたといいます。

 

そして年齢も非常に近かった曹丕と日常生活を共にさせていたそうです。

勿論実際に育てたのは、曹丕らの母親である卞夫人だったのは言うまでもないでしょう。

 

 

また曹真同様に父親を失っていた曹休も、

曹操に引き取られる形で曹丕らと供に育てられていますから、

 

曹真・曹休の関係も深かったのが想像できますね。

 

ちなみに曹休は曹操から、

「この子はわが家の千里の駒なり」

と高く評価された人物でもあります。

曹真の父親が曹邵ではない説(秦伯南が父親説)

「魏志」曹真伝の注釈に載せられた「魏略」には、

 

『曹真のもともとの姓は「秦」であり、

曹真の父親は秦伯南である。

 

また秦伯南は曹操と仲が良かった』という風に書かれています。

 

 

これがもし正しかったとするならば、

曹邵の息子が曹真ではなかったという事になり、

 

更に言うならば「曹邵という人物がいなかった」

という可能性まで出てくることになります。

 

 

そして興平末年(195年)に、袁術の配下が曹操を攻撃してくると、

曹操は秦伯南のもとへと逃げ込んで、曹操を開門して受け入れたといいます。

 

 

ちなみに軽く補足を入れておきますが、

興平末年が何故に195年と言えるかというと、

 

「興平」という元号は興平元年(194年)&興平二年(195年)しかない事から、

195年と想像ができるわけです。

 

 

 

そして敵が攻め寄せて曹操の所在を問うと、

「私が曹操である!」と名乗った事で殺害されてしまいます。

 

つまり曹操の身代わりとして、秦伯南は亡くなったわけです。

 

 

このことがあって、曹操は秦真に「曹」の姓を授けて曹真と名乗らせたといいます。

曹操に「我が家の千里の駒」と高く評価された曹休

立派に成長していった曹真

ある時に曹真が狩猟に出かけた際に、虎に追いかけられたことがあった。

曹真は振り返ると、虎を一撃で射止めています。

 

曹操は曹真の勇猛さを褒め称え、

曹休と共に「曹純亡き後の虎豹騎を率いさせた」といいます。

 

 

ただ建安十五年(210年)に曹純が亡くなった後は、

 

「曹純ほどに虎豹騎を操れるものはいない」と判断し、

曹操自身で指揮を取り、後任が選ばれる事がなかったという記録が残っている事から、

 

あくまで曹操がその戦場にいなかった場合の隊長的な立ち位置で、

曹真・曹休が指揮をしていたのだと思います。

 

 

冀州中山郡にある霊丘県で反乱が起こった際は、

曹真が討伐を任されることになり、平定にも見事成功しています。

 

その結果、曹真は霊寿亭侯に封じられることになったのでした。

 

 

また劉備が漢中へ侵攻してきた際には、曹操から命じられた形で、

曹洪・曹休と共に夏侯淵の援軍へと赴き、

 

武都の戦いでは、雷銅・呉蘭・任夔を見事に打ち破っていますね。

 

 

この際に雷銅・任夔を討ち取っており、

 

残った呉蘭もまた陰平郡にて、

魏に味方した氐族の強端に斬り殺されて勝利しています。

 

そのせいで張飛・馬超らはどうすることもできなく、戦わずして撤退を余儀なくされています。

 

 

この功績により曹真は中堅将軍に任命され、

曹休とともに長安へ戻ると中領軍に任じられています。

 

ちなみに「中領軍」とは近衛軍司令で、

宮殿内の守備隊長のような役職になりますね。

 

 

また定軍山の戦いで夏侯淵が戦死すると、

 

それを強く憂いた曹操は、曹真は征蜀護軍に任じ、

徐晃らと共に陽平へ向かわせ、劉備軍の高翔を打ち破っています。

 

そして劉備の更なる進軍を防ぐべく、

武都にて曹洪の軍勢と合流し、曹真と張郃は共に陳倉の守備を任されています。

曹操の死&曹丕の「魏」建国

建安二十五年(220年)に曹操が亡くなり、

曹丕が跡を継いで魏を建国すると、

 

曹真を鎮西将軍・仮節・都督雍涼州諸軍事に任命し、

東郷侯に封じられており、

 

 

涼州酒泉郡にて張進が反乱を起こした際には、張進討伐にも成功してますね。

 

その後に曹真が洛陽へと帰還すると、

上軍大将軍・都督中外諸軍事に任じられ、曹丕から節とまさかり(仮節鉞)を授けられたといいます。

 

 

また曹丕の黄初三年(222年)の南征にも付き従っており、

諸葛尚と共に江陵方面の攻略を任されていますが、

 

辛毗・張郃・徐晃・満寵・文聘といった者達も参戦したにも関わらず、

朱然が守る江陵を落とすことはできませんでした。

 

 

ちなみに同時侵攻されたこの戦いは、三方面の戦いとも呼ばれていますが、

洞口・濡須口の二方面でも良い結果を残す事ができずに敗北してしまっています。

 

 

ただ「魏志」曹真伝にのみ、

「牛渚(揚州)で勝利した」という記述が残されており、

 

この記述は江陵侵攻と完全に矛盾してはいますが、記録があるので紹介しておきたいと思います。

與夏侯尚等征孫權、撃牛渚屯、破之。

 

ただ明らかにこれは他の記載と比較しても辻褄があわなすぎますので、

おそらく誤記載かと思います。

 

 

 

またある時に曹丕が宴会を開いた際に、

曹丕の「四友」の一人である呉質が、曹真の体格をからかった事がありました。

 

そして更に曹真を苛立たせたのが、

呉質に乗っかってからかった曹洪・王忠でした。

 

 

曹真は大きく機嫌を損ね、剣を抜いて呉質に向け、

これに対して呉質も剣を抜いたことで、一触即発の空気が漂ったわけです。

 

しかし仲裁が入った事で、この場は収まったという逸話が残っています。

曹丕の崩御&曹叡の即位

黄初七年(226年)に曹丕が亡くなると、

曹真は曹休・鍾繇・司馬懿と供に、曹叡の補佐を任されています。

 

 

曹真はこの時に大将軍に任命される事となり、

邵陵侯に新たに封じらることに・・・

 

また曹真は「対蜀」を任され、大司馬に就任した曹休は「対呉」、

一方で司馬懿は驃騎将軍として「荊州・豫洲方面」を任される事になっています。

 

また三公である司徒・司空・大尉には、

華歆・王朗・陳羣の三人が就任していますね。

諸葛亮の侵攻

諸葛亮が北伐を開始すると、

天水・安定・南安の三郡が蜀に降りますが、

 

劣勢の中にあって郿県に派遣された趙雲・鄧芝でしたが、

曹真により箕谷にて敗北しています。

 

最終的に街亭の馬謖が張郃に敗れた事で、第一次北伐は失敗に終わっています。

 

そして諸葛亮に奪われた三郡奪還に成功したのでした。

 

 

 

また曹真は諸葛亮祁山きざんの失敗にりて、

今度は司隷右扶風ゆうふふう陳倉ちんそう県を通って出撃してくるであろう」と推測し、

郝昭・王生を陳倉に派遣し、陳倉城を修築して対応しています。

 

 

そして曹真が予測した通りに陳倉城に諸葛亮の軍勢があらわれ、

諸葛亮は猛攻を加えるものの陳倉城を落とせず、撤退を余儀なくされてしまうのでした。

 

「三国志演義」では、このあたりの手柄の多くが司馬懿の手柄とされていますが、

実際は曹真の手柄であったのは言うまでもないでしょう。

晩年の曹真

太和四年(230年)になると、曹真は大司馬に任じられています。

※大司馬であった曹休は太和二年(228年)に死亡済。

 

 

そして曹真は曹叡からの信頼も非常に厚くなり、

「剣を腰にさし、靴を履いたまま参上を許される」

という特例措置までも賜ったのでした。

 

 

そして曹真は蜀漢征伐の必要性を強く感じ、司馬懿の軍勢と共に漢中へと兵を進めたものの、

転向が曹真・司馬懿に味方することがなかったのです。

 

三十日以上にわたって雨が降り続いた事で戦いどころではなく、

何もできないまま撤退を余儀なくされたのでした。

 

 

討伐が失敗に終わり、洛陽へと帰還した曹真でしたが、

不幸にも病気にかかってしまい、回復しないままこの世を去る事になったのでした。

「三国志演義」で描かれる曹真

横山光輝三国志(56巻36・37P)より画像引用

 

「三国志演義」での曹真は、常に諸葛亮に翻弄され、

味方の司馬懿にも「常に一歩先を行かれる」という間抜けどころの役になっています。

 

そして病気に陥った曹真に対して、諸葛亮からの手紙が届くのですが、

その手紙を読んだ曹真は、激怒して病状を悪化させた事で亡くなってしまう事に・・・

 

 

「名将中の名将」でもあった曹仁も、

「三国志演義」では諸葛亮に常に翻弄されるという役回りですし、

 

優秀な曹操の一族の者達は、

あくまで劉備を主役として蜀をメインとした物語であるだけに、

 

魏の者達には自然と損な役回りをさせられているのは仕方ない所でもありますね。

曹仁なくして曹操なし