羅憲(らけん)

羅憲は真面目な性格で、幼い頃から勉学に励み、

譙周(しょうしゅう)の元で学びます。

 

ちなみに三国志正史を書いた事で有名な陳寿も譙周に学んでおり、

羅憲と陳寿は同門でした。

劉禅に降伏を勧めた陳寿と羅憲の師、譙周(しょうしゅう)

 

そして劉禅が即位した時、

劉禅の長男である劉璿(りゅうせん)の太子舎人に任命されます。

 

蜀の使者として呉へ赴く事もあった羅憲ですが、

呉の人から「羅健の人となり」を称賛されたそうです。

永安へ左遷させられた羅憲

黄皓が劉禅の元で暗躍しだすと、

羅憲は真面目な性格上、黄皓に取り入る事もしなかった為、

黄皓に煙たがれ、左遷されてしまいます。

 

そして羅憲は、巴東都督を任されていた閻宇(えんう)の副将になります。

ここで羅憲は、永安城(旧白帝城)を守備を任されます。

 

 

しかし、鄧艾と鍾会が蜀へ侵攻してくると、

黄皓と仲が良かった閻宇は成都へ呼び戻されてしまい、

兵を引き連れて成都へ戻っていきます。

 

閻宇は2000人の兵士を羅憲に預け、少人数で羅憲が永安城を守る事になります。

蜀滅亡での混乱

その後、劉禅が降伏して蜀が滅んでしまうんですが、

蜀が滅んでしまった事で、各地で混乱が起きていました。

 

永安城も例外ではなく、

混乱が起きて、多くの役人が逃げ出す始末。

 

そこで羅憲は「成都が陥落して蜀が滅んだ!」

と言っていた一人を斬り捨て、混乱を納めたといいます。

 

そして劉禅が降伏した事が事実だと知ると、

3日間喪に服したそうです。

呉、永安城へ攻め込む①

 

263年、蜀が魏に降伏した事を知った呉の孫休は、盛憲に兵を預け、

「蜀を助けにきました」みたいな空気で永安城に攻め込みます。

 

これに対して羅憲は怒りをあらわにし、

「蜀の滅亡はそのまま呉へ影響する事なのに、同盟関係を無視して蜀を見捨てた。

そればかりか攻め込んでくる有様。蜀は滅んでしまったが、呉も長くはあるまい!!」といい、

盛憲の軍から城を守り抜きます。

呉、永安城へ攻め込む②

 

翌年鍾会・姜維のクーデターが成都で勃発し、

その結果、蜀討伐の功労者であった鍾会・鄧艾の2名があべこべに討死してしていまいます。

 

鍾会・鄧艾の2名が死んだことで益州は混乱しているだろうと予想した孫休は、

歩隲(ほしつ)の子である歩協(ほきょう)に命じて、羅憲が守る永安城へ再度兵を差し向けます。

羅憲は攻めてきた歩協の撃退にも成功します。

呉、永安城へ攻め込む③

 

敗戦の報告を聞いた孫休は、

陸遜の子の陸抗らに3万の兵を預け、またもや永安攻略を命じます。

 

陸抗らが永安城へ到着し包囲すると、

兵力的にも羅憲軍は苦戦を強いられてしまいます。

 

ただ羅憲には呉軍に対応すべく、

劉禅が降伏した魏へ自分の息子を人質として送る形で信用してもらい、

その代わりに援軍をくれるように要請していました。

 

しかし魏の援軍は到着せず、

陸抗が永安城を包囲して半年の月日が経ってしまいます。

その間に永安城に病気が蔓延する始末。

 

 

さすがにこれ以上は持ちこたえられないと判断した羅憲の部下が、

永安城を捨てることを提案しますが、羅憲は首を縦に振らず語りだします。

 

「民衆の上に立つ者は、いつでも慕われるものでなければいけない。

ましてや危険が訪れたからと逃げるようとするなど論外だ!

逃げるぐらいならここで討死する!!」

待ちに待った援軍の到着

羅憲はその後も苦戦を強いられながらも、陸抗らから永安城を守り抜きます。

そして待ちに待った魏の援軍が到着します。

 

魏の援軍として派遣された胡烈(これつ)は、

呉の重要地点であった西陵(旧夷陵)を強襲します。

 

西陵が攻められている事を知った陸抗は、

永安城の包囲を解いて撤退せざるをえなくなります。

 

苦戦を強いられながらも、蜀を見捨てて、

甘い汁だけを吸おうとした呉に永安城を受け渡すことを潔しとせず、

しかし本来援軍を請うべきだった蜀は既に滅亡している始末。

 

そんな葛藤の中、今まで敵国だった魏に援軍を求めつつ、

少数の兵で最後まで永安城を守り切った羅憲。

 

羅憲は蜀最後の意地を、魏呉に見せつけたのでした。

 

 

司馬昭はそんな羅憲を信用するに足る人物だと判断し、

最終的に援軍を送ったのでしょう。

 

そして羅憲は司馬昭からの信頼も勝ち取り、

継続して永安城含む巴東地域の守備を任されることになります。

 

 

その後も魏・晋で出世していった羅憲ですが、

呉へ攻め込んで天下統一することを進言しつつ、270年にこの世を去ります。

 

羅憲が死んで10年後の280年、

呉が滅んで晋が天下統一することになります。

司馬炎に旧蜀の人材を推挙する

羅憲は真面目で、部下を可愛がり、

私腹を肥やすようなことはしない人物であったのもあり、

司馬昭・司馬炎から厚く信頼されていきます。

 

265年12月、司馬炎が晋を建国し、

曹一族の時代から司馬一族の時代に完全に代わった頃、

司馬炎から旧蜀の優れた人物を尋ねられたことがありました。

 

ちなみに蜀が滅亡したのが263年、羅憲が魏に援軍を求め降伏したのが264年、

晋が建国されたのが265年12月なので激しく時代が変わっていっています。

後は265年8月に司馬昭はこの世を去っています。

 

 

この時、羅憲が才能を認めていた人達を司馬炎に推挙します。

この時推挙された人達は司馬炎に取り立てられ、各々出世していくことになります。

 

また羅憲が推挙した者の中に羅憲とかつて同門で、

羅憲と同じく黄皓に左遷された陳寿も含まれていました。

 

もしこの時に羅憲の推挙がなかったならば、

三国志正史が陳寿によってこの世に書かれる事はなかったかもしれませんね。