安熹県の県令に任じられた劉備

黄巾賊討伐で活躍した劉備でしたが、

宦官への賄賂等が横行していた時代だったにもかかわらず、

 

劉備は賄賂を宦官に送る事もありませんでした。

 

 

その為に劉備は宦官の者達からよく思われず、

 

黄巾賊討伐後の褒美として、

中山国安熹県という田舎の県令に任命されています。

 

 

 

とりあえず建前上の役職をあげた感じで、本当の気持ちは、

「賄賂も送らないお前には県令でも十分すぎるだろう」

だったのでしょうけどね。

 

 

ただ田舎の県令ではありましたが、劉備はきちんと民衆に慕われるような政治を行い

民衆もまたそんな劉備を慕っていたのです。

劉備の治める安熹県を訪問した督郵

督郵とくゆうというのはまずはじめに言っておくと、

人の名前ではありません。

 

「その話は知ってるよ」と言う人もいますが、

「督郵がその役人の名前だ」と勘違いしてる人も実際は多いる気がしますね。

 

実際に三国志演義では人の名前のように書かれていますから、

その影響を受けて勘違いしたのでしょう。

 

 

あくまで「督郵」というのは監査官であり、

これは各地を視察する人達が任命された役職ですね。

 

簡単に言ってしまえば、

「地方の役人や長官がきちんと仕事をしているか、

それを視察することが目的」ということになります。

 

 

 

また正史では「督郵が劉備の元に訪れた」と言ったように、

名前ではなく、役職名でしか書かれていない為、

 

督郵が役職名だと知ってもらった上で、「督郵」という呼名で話を進めていきます。

督郵を殴ったのは張飛!?

横山光輝三国志(3巻78P・79P)より画像引用

 

督郵が劉備の県に視察に来た時に、

劉備は可能な範囲で、精一杯のもてなしをしました。

 

しかし督郵はそれに満足せず、劉備に賄賂を請求してきたのです。

 

 

劉備は民衆が一生懸命働いて収めた貴重な税金を、

「私腹を肥やすこやつなんかにあげられない!」

と思い、断固拒否します。

 

 

督郵は賄賂を渋る劉備に対して脅しをかけ、

「このまま劉備殿が賄賂を贈らないようなら、

朝廷に悪い報告をしなければいけない」といってきたわけです。

 

それでも劉備は督郵に賄賂を贈る事はなかったために、

督郵から色々と嫌がらせを受けますが、我慢して時を過ごすのでした。

 

 

 

しかし督郵の言動に我慢ができない者がいました。

劉備の弟分である張飛ですね。

 

張飛は怒りのまま、督郵を木に縛り付け、

容赦なく督郵を殴り続けます。

 

 

そして理由はどうあれ、監査官であった督郵に対して暴行を加えた事で、

劉備は県令を捨て、関羽・張飛と共に安熹県を去っていくのでした。

 

これにより劉備の放浪が続くこととなります。

督郵暴行の真犯人

三国志演義では上記のように張飛の暴行が描写されていましたが、

正史では事情が異なります。

 

実は督郵に対して暴行を加えたのは張飛でなく、

「兄貴分であった劉備の暴行であった」と書かれてあります。

 

 

劉備は賄賂を請求する督郵に怒りを感じ、

 

木に縛り付け、

二百回以上叩き続けたそうです。

 

 

ただ実際は賄賂とかいう話ではなく、

 

監査役であった督郵に対して面会を願い出たと言いますが、

それを断られたことで、劉備は頭に血がのぼったとも言われていますね。

 

 

 

まぁどちらにしても張飛の暴行はあくまで濡れ衣であり、

実際は劉備の仕業であったわけです。

 

 

ただ三国志演義では「聖人君子の仁君様」であられる劉備が、

そういうことをした逸話は良いものではないために、

 

劉備の始末は末弟の立ち位置にある張飛に回されたという感じだと思います。

 

 

ただ正史に記載されている劉備は、

「聖人君子の仁君様」と真逆の位置の人間と言っても過言ではなく、

 

任侠精神の強い親分のようなものと想像して頂ければ、

わかりやすいかなと思います。

 

 

とにもかくにも督郵に暴行を加える劉備を止めるのに、

「関羽と張飛は大変なほどだった」といいます。

 

関羽・張飛らによって我に戻った劉備でしたが、

その後は安熹県の県令を捨てて、放浪の旅へと旅立ったのでした。

劉備 -流浪の果てに皇帝まで上り詰めた英雄-