甄氏しんしはもともと袁煕えんきの妻でしたが、

 

曹操が204年に鄴を陥落させたことがきっかけで、

大きくその後の運命が変わってしまった女性になります。

 

 

鄴にいた甄氏は曹丕の妻として迎えられたわけでが、

この時点で袁煕とは強制離婚になるのは言うまでもありませんね。

この時代戦いの戦利品の中の一つとして、

女性も含まれていたというのが実情でしたから・・・

 

 

その後甄氏はというと、

曹丕との間に曹叡と東郷公主を産むのですが、

 

曹叡の出生には秘密(疑惑)があり、

今回はその点を掘り下げてみたいと思います。

亡き母(甄氏)の名誉を回復させた曹叡

曹叡そうえいは曹丕の跡を継いで、

魏の二代皇帝になる人物ではありますが、

 

「曹叡の母が誰か!?」というと、

いわずもがな曹丕と甄氏との間にできた息子になります。

 

 

曹叡が皇帝に即位した時には、

母である甄氏は夫である曹丕の命により処刑されています。

 

処刑した理由は、

単純に曹丕の寵愛が薄れたことが理由に挙げられます。

 

 

そこで曹叡は母親である無念と名誉を回復すべく、

「皇后」の位を贈っています。

 

 

 

また「英知をもって世の中を正しい方向に導いた」

という意味合いを込めて、

 

「昭」という諡(贈り名)を贈り、

これにより「文昭皇后」と呼ばれるようになります。

 

 

それだけでなく母親に対する待遇への謝罪も込めて、

甄氏の一族を厚遇したといいます。

 

これは無念の中で死んでいった母親に対する曹叡の、

「出来る限りの親孝行」だったのだと思いますね。

傾国の美女、甄氏(甄皇后/甄姫/しんし) 〜曹操・曹丕・曹植を虜にした美貌〜

「曹叡の出生」に対する疑惑

曹叡は204年に誕生したわけなんですが、

ここで一つの疑問がわくわけです。

 

 

曹操が鄴を陥落させたのが、204年9月になります。

 

それから曹操の息子である曹丕は甄氏を妻としたわけですが、

同じ年に曹叡が誕生しているわけです。

 

 

「はい、これがどれだけ不自然な事か分かりますか?

完全に生物学上的にも無理があるんです。」

 

 

もう少し分かりやすく説明すると、

 

その年のギリギリである204年12月に、

曹叡が誕生したとしても、

 

曹丕が甄氏を妻に娶って、

4か月以内に誕生しているということになります。

 

 

また不自然な事はこれだけではなく、

そもそも第二代皇帝となった曹叡の誕生年が不明なのです。

 

分かっているのは「239年に36歳で亡くなった」という記録だけで、

このことは「三国志」明帝紀に記載されています。

 

 

だから上の方では、曹操が鄴城を落とした204年に、

曹叡が誕生したと逆算して言えただけです。

 

そもそもの話として皇帝になった人物の誕生年が、

正史に描かれていないことがそもそもありえません。

 

 

 

そもそも曹丕の甄氏に対する寵愛からの冷遇問題。

 

 

「絶世の美女」から最初のうちは寵愛したけど、

 

「後継者の事を考えたら、

甄氏が長生きしてもらっても困る!」

といった感じにも受け取れます。

 

 

甄氏さえ亡くなってしまえば、

曹叡を強く推さなければいけない理由も薄くなりますしね。

 

 

この時代は曹操もですが、

連れ子がいても自分の子のように育てたりはあったのでしょうが、

 

「後継者には血の繋がりのある息子になってほしい!」

と思うのが当たり前だと思いますしね。

 

ましてや皇帝の跡継ぎともなると尚更なわけです。

 

 

 

「曹叡自身も父親である曹丕から冷遇されていた」ともいいます。

 

その一つの証拠として、

曹丕が死ぬ直前まで曹叡は皇太子に立てていません。

 

自分の死が目前に迫って初めて国が乱れるのを防ぐために、

 

バタバタとした感じで、

年長者であった曹叡を皇太子にしたわけです。

 

 

 

このあたりを考えても、

曹丕が甄氏を妻にした時には、

 

「既に袁煕との間に、

新しい命が芽生えていた可能性」は普通にあると思います。

 

実際周りの者達も声に出したり、記録を残せなかっただけで、

「暗黙の了解」みたいなところがあったとしてもおかしくないですね。

「曹叡は父親である曹丕に冷遇されていた」といえる証拠は?

曹叡が曹丕から、

冷遇されていた証拠は複数ありますが、

 

「ここでは最も分かりやすい例をあげたい」と思います。

 

 

「曹叡は221年に斉公に、

222年に平原王に封じられた」と言われています。

 

あくまで曹丕の子であるといった前提の年月日の記録年ですが・・・

 

 

ただ曹叡が斉公になった年である221年の8月

 

「甄氏が曹丕から殺害されてしまう」

という事件が起こってしまいます。

 

 

その後に曹叡が平原王に封じられたかと思うと、

 

「なぜか平原侯に格下げされていた」

という記録も残っていたりします。

 

 

そもその話として後継者にする気があったのなら、

普通は王侯にはしないものです。

 

普通は自分の身近においておきますからね。

 

 

「それ時点で普通は後継者にする気がなかった」

と受け取られるのが一般的です。

 

そのあたりは曹操の息子である曹丕が一番に良い例でしょう。

 

 

ただ曹操は生前に曹叡の才能を愛しつつ、

曹叡について絶賛もしていました。

 

そのあたりからも曹丕は曹叡の扱いに非常に困ったんじゃないかなと思いますね。

 

 

また「魏末伝」には、

「曹叡は廃嫡どころか命を失う覚悟すらしていた。」

というような記録も残っていたりしますから、

 

「曹丕によって、

煙たがれていた可能性は高かった」と思います。

 

 

曹丕自身も色々な所で葛藤していた可能性はありますが・・・

曹操に溺愛された曹叡の才能

「晋書」閻纘伝

曹叡が冷遇されていたことについてもう少し深堀りしていくと、

 

「魏志」毌丘倹伝・「晋書」閻纘伝あたりを読むと、

そう取らざるを得ないような内容が書かれてあったりします。

 

 

特に「晋書」閻纘伝には、

閻纘(閻圃の孫)が当時の皇太子廃嫡について、

「命をかけて曹叡の便宜をはかった」という話があります。

 

つまり記録としてどうどうと、

曹叡が廃嫡にされそうであった事が描かれているわけです。

 

 

そこに書かれていた内容を見ても

「曹叡様は母親の罪により、

平原侯になってしまいましたが、

 

曹叡の周りには優れた臣下を置いたことで、

優れた教育を受けて立派な人物に成長しました。」

と平原侯に格下げされていることも書かれていたりもします。

 

これらの記述からも曹叡が冷遇されていたことに対しての、

一つの証明になるかと思います。

陳寿の葛藤

「平原侯」に関する記述に関しては、

記録の中でもかなりぶれて書かれています。

 

つまり資料によって違うわけです。

 

 

『曹叡は「平原侯」に格下げされていない』

と書かれたものから、格下げされているとしか取れないものなどですね。

 

 

おそらく「三国志」の著者である陳寿も、

 

魏&晋に仕えていた事からも、

魏&晋が正統王朝だという前提での記載しかできなかったでしょうし、

 

また皇帝についてのことであれば、

裏事情があったとしてもはっきり書けないことは多かったと思います。

 

 

なので陳寿も「平原王」から、

「平原侯への格下げ」があったとはっきり書かれていませんが、

 

私は格下げがあったと思っています。

 

 

それを証明するのが先程に述べた、

「晋書」閻纘伝や「魏志」毌丘倹伝でもありますし、

 

もしそういう事実がなかったのならば、

皇帝である曹叡の嘘の話をわざわざと盛り込む意味もないと思いますしね。

 

 

また後世に矛盾と取られるような記述を残すことを、

そもそも陳寿は望むはずもないでしょうから・・・

そもそも甄氏が夫(袁煕)に付き従わずに鄴城に滞在していた不思議

 

「妻が家を守ることは普通だし、

夫に従って遠征する事なんてない!」

と思ってる人も多いかもしれませんが、実際は結構付き従っていたことは多いのです。

 

 

曹操も愛する妻を連れて、戦に赴いた事なんて普通にありますし、

放浪を続けていた劉備については、曹操の比でないぐらい何度もやっています。

 

劉備の場合は命の危機が迫った時は、

平気で妻を捨てる事も多かったのも実情ですが・・・

 

 

そして曹操との戦いにおいて、

劣勢を強いられていた袁煕が、

 

「妻である鄒氏をそもそも鄴城においていたこと」がそもそもの謎だと思います。

 

いつ危険が訪れても不思議でない鄴城に置いておくよりも、

「身近に置いておきたい」と思うのが普通だと思うわけです。

 

 

では何故そんな状況にもかかわらず、

甄氏は鄴城で留守を預かっていたのでしょうかね。

 

 

少しこのあたりの甄氏の立場に立って状況を考えてみたいと思うのですが、

 

曹操が袁尚の本拠地であった鄴城へと侵攻を開始したのが、

204年5月であり、

 

審配らの奮闘こそあったものの、

鄴城が陥落した時期204年9月になります。

 

 

そして問題の甄氏ですが、

「鄴城に留まる理由が何かあったのか!?」と考えた際に、

 

甄氏は袁煕との間に子供を授かっていたか、

もしくは既に曹叡が生まれていた可能性すらあると思います。

 

その際はまだ乳児だったと思いますが・・・

 

 

「だからこそ夫である袁煕に従う事が出来なかった」

と考えると納得できるところが出てきます。

 

 

もし生まれていた場合は、その子も共に迎え入れる形で

甄氏を妻としたのではないかという事です。

 

 

「敵である袁家の血を引いている者を、

引き取るなどあり得ない!」

と思われる方もいるかもしれませんが、

 

父親である曹操は、

そういう事をあまり気にしない人物でしたし、

 

逆に杜氏の息子であったり、

尹氏の息子であったりも自分の実子と同様に大事に育てています。

 

 

曹丕の一番身近にそういう、

「お手本」となる人物がいるわけですから、

 

「曹丕も甄氏を妻とする際にそれほど気にしなかった」

と考えても自然だと思いますね。

 

特に当時の曹丕は甄氏を妻としたくてたまらなかったでしょうから尚更です。

陳寿VS裴松之(はいしょうし)

裴松之「魏志」明帝紀に書かれてある

曹叡の享年(死亡年齢)は、

 

間違って記載されているものであり、

実際の享年は36歳ではなく34歳であるといっています。

 

この場合だと206年に曹叡は誕生している事になるので、

曹叡は曹丕と甄氏の子である事になります。

 

 

 

まぁ陳寿の書き方だと生物学上ありえないので、

裴松之はそこに注釈をつけて辻褄をあわせたのでしょう。

 

 

「ただ陳寿がわざわざ嘘をつくでしょうか?」

 

「陳寿の記載が全て正しい」とは言えませんし、

間違って書いたと思われる個所も多数あります。

 

実際にそれぞれの人物伝を比較した場合に矛盾が見られる人物も普通にいます。

 

 

ただ魏&晋に仕えて「三国志」を書いていた陳寿が、

第二代皇帝である曹叡の記載には誤りがないように厳重に注意して記録を残したはずです。

 

 

ですがはっきり書けない理由が実在しており、

その結果として皇帝の誕生年を書いていなかったり、

 

「人物伝」によって矛盾が生まれたりと、

中途半端な記載に終わってしまったのではないかと想像します。

 

 

「曹叡の出生についての謎」についてここまで書いてきましたが、

このあたりは皆さんはどう思いますか!?