孫堅の三男としてこの世に生を受けた孫翊(そんよく)は、

武勇に優れたおり、孫策の跡継ぎ候補にもあがった人物でもありました。

 

それにもかかわらず、

孫堅の子として名を馳せたのは孫策・孫権であり、

 

三男の孫翊・四男の孫匡はどうしても存在感が薄かったりします。

孫堅の子としてこの世に生を受けた孫翊は、どんな生涯を送ったのでしょうね。

孫策の面影があった孫翊(そんよく)

184年、孫翊は孫堅と呉夫人との間に生まれています。

 

191年に孫堅が劉表討伐で黄祖に討ち取られると、

孫策が跡を継ぐことになります。

 

孫策が袁術から独立を果たして、破竹の勢いで江東制圧に乗り出して成功。

 

 

しかし江東制覇したのも束の間、

許貢の食客らに孫策は襲われて重傷を負ってしまいます。

 

その際に、孫策の臣下であった張昭らによって、

孫策の面影があった孫翊を推す動きがあったものの、

 

孫策は孫権を跡継ぎにするように言った為、孫翊が孫策の跡を継ぐことはありませんでした。

生涯かけて剛直な態度を貫いた呉の御意見番「張昭」

孫翊、殺害される

孫翊は武勇に優れてはいたものの、乱暴者で傲慢な性格で、

酒を飲むと周りの者に乱暴を働いたりと手が付けられない事も多かったようですね。

 

孫家三代(孫堅・孫策・孫権)に仕えていた朱治は、

何度も何度も孫翊のこのような態度を注意したそうですが、

 

孫翊は変わる事はありませんでした。

孫家三代に仕え、呉の地盤を築いた縁の下の力持ち「朱治」

 

203年に、孫翊は丹陽太守を任されますが、

翌年の204年、孫翊に仕えていた辺洪(へんこう)・媯覧(きらん)・戴員(たいうん)らによって、

宴会に誘い出された挙句、その宴会の席で殺害されてしまいました。

 

 

孫翊は20歳で亡くなったことになり、

兄の孫策は25歳、弟の孫匡も20歳前後で亡くなっていることからも、

 

相変わらず孫家の皆さんは短命の人が多い感じですよね。

父である孫堅の爵位を引き継いだ四男、孫匡(そんきょう)

 

それにしても張飛が張達・范彊に恨みをかって、

殺害されてるのと似たような末路。

 

酒飲んで暴れる人の末路ってやっぱり人の恨みを買いやすいのかもですね。

孫翊の死の裏側に徐氏の占いあり

孫翊は徐氏という女性と結婚していましたが、徐氏は占いを得意としていました。

 

嬀覧と戴員によって開かれた宴会に呼び出された孫翊に対して、

徐氏は占いで危険を察知し、参加しないように忠告したそうです。

 

しかし徐氏の言葉に耳を傾けることなく参加した孫翊は、

妻の不安通り、辺洪・嬀覧・戴員らによって殺害されてしまいました。

 

 

ちなみに江南八絶の一人である劉惇(りゅうとん)は、

孫翊の死を見事に言い当てたそうです。

呉を支えた江南八絶(趙達・劉惇・呉範・厳武・皇象・曹不興・宋寿・鄭嫗)

徐氏、夫の仇討ちを決意

夫である孫翊が殺害された事を聞くと、

徐氏は泣き寝入りする事はなく、懸賞金をかけて犯人を捜し出そうとします。

 

この時、嬀覧・戴員は辺洪に孫翊殺害の全ての罪をなすりつけた上で、

辺洪を「死人に口なし」といわんばかりに殺害してしまいます。

 

嬀覧と戴員はそれだけでなく、孫翊亡き後の孫翊の軍勢を全て奪ってしまい、

自分らに逆らう者達まで殺害してしまいます。

 

この時、孫翊の妻であった徐氏にも危険が及びだすと、

辺洪だけでなく、嬀覧・戴員の二人も共犯だと思った徐氏は一計を案じます。

 

 

孫翊の喪が明けるまで待ってくれるようにお願いし、

そして喪が明けると、嬀覧・戴員の二人を呼び出しました。

 

何もしらない二人は、徐氏の元を尋ね、

喪が服した事ということで徐氏が準備していた酒の会(法事)で酔わせます。

 

そこで徐氏は潜ませておいた徐元・孫高・傅嬰(ふえい)に合図を送り、

嬀覧・戴員の二人を討ち取ることに成功。

 

孫翊が酒の席で殺されたという事で、

嬀覧・戴員の二人も同じ酒の席で殺したのかもしれませんね。

 

 

ちなみにですが、孫翊が討ち取られたことで未亡人になった徐氏は、

あえて嬀覧の妻になりたいと伝え、

 

二人を呼び出した所を狙って、

潜ませていた徐元・孫高・傅嬰に討ち取らせたとも言われています。

 

無事に孫翊の仇を討った徐氏は、

その後は孫権の世話になって余生を過ごしたそうです。

最後に一言

なんか揚州というか江東というか、この辺りの人達って占える人多いですよね。

 

それも占いがかなり的確と言う感じで・・・

江東八達の人達も8人中5人が占い師みたいな感じですし。

 

そういう土地柄なんでしょうかね。