夏侯淵(かこうえん/妙才)

夏侯淵は夏侯惇と共に、曹操が挙兵した時から従った一人であり、

義に厚い人物であり、多くの者達に慕われていました。

 

 

曹操が兗州・豫洲と勢力を拡大していくにつれ、

夏侯淵は陳留太守や潁川太守といった大役を任されるようになっていきます。

 

 

 

そして袁紹を官渡の戦いで破った後は、

兗州・豫洲・徐州の兵糧管理を任されます。

 

 

 

また呂布討伐時に臧覇と共に降伏した昌豨しょうきが反旗を翻した際には、

夏侯淵は張遼と協力して昌豨討伐に乗り出しますが、かなりの苦戦を強いられます。

 

 

最終的にこの戦いは、

昌豨と旧知の中でもあった張遼が降伏を勧め、

 

昌豨がそれを受け入れたことで一段落つくことになったのでした。

三国志演義で平凡に描かれた豪傑「臧覇」

 

 

それからも夏侯淵は、

黄巾の残党軍であった徐和・司馬倶を打ち破ったり、

 

廬江の雷緒を打ち破ったりと、

連戦連勝で負けをほとんど知らないほどだったといいます。

 

 

そして夏侯淵は、

「三日で五百里、六日で千里」

移動できたと言われており、

 

拠点間の行軍であったり、

後方支援であったり、奇襲を非常に得意とした将軍でした。

 

 

ちなみにですが、一里は大体ではありますが約四百mなので、

五百里≒二百km〜千里≒四百kmを移動できたという事が言えますね。

涼州平定戦で大活躍

211年に馬超・韓遂らが涼州で反乱を起こすと

夏侯淵は曹操に従って遠征!

 

そして両者が激突した潼関の戦いで、馬超・韓遂らを打ち破っています。

 

 

その後は馬超・韓遂と共に反乱を起こした「関中十部」の一人である楊秋を追って、

安定郡にて討伐に成功しています。

 

またそれだけにとどまらず、

懲りずに何度も反乱を起こす韓遂・馬超らと涼州の地で戦い続けたのでした。

 

そして夏侯淵によって追い詰められた結果、

最終的に馬超は漢中の張魯の元へ落ち延び、韓遂は殺害されることに・・・

 

 

これによって長らく反乱が続いていた涼州の支配に曹操は成功したのです。

その立役者が夏侯淵であったことは間違いないですね。

反乱に生涯を捧げた男「韓遂」

韓遂の手下八部(関中八部)

 

 

そして215年に漢中の張魯が曹操に降伏すると、

夏侯淵はこれまでの功績を加味されて征西将軍に任命されています。

 

またそれだけでなく劉備対策として、漢中の守備をまかされていますね。

漢中攻防戦

蒼天航路(32巻116P)より画像引用

 

その三年後に劉備が漢中へと侵攻を開始してくると、

 

夏侯淵は張郃・徐晃と共に協力しながら戦いを繰り広げていきますが、

次第に追い詰められていく事となります。

 

 

その要因の一つとして、

劉備は作戦参謀の法正をはじめ、

張飛・馬超・黄忠・趙雲・魏延・呉懿・劉封を投入しており、

 

また益州の兵力も総動員させていました。

 

 

一方の曹操自身も漢中への援軍に向かってはいたものの、

 

吉本の乱、鳥丸族・鮮卑族の反乱であったり、

宛城で侯音の乱が起こったりしていました。

 

 

なので曹操は長安まで来ていたにも関わらず、

そこから漢中へと動くに動けずに足止めを食らっていたのも、

 

夏侯淵にとっては不運なことだったでしょうね。

劉備が夏侯淵を倒せたのは侯音のお陰だった?

 

 

本来ならば、曹操の本隊の到着が遅れていたとしても、

 

夏侯淵は張郃・徐晃と協力しながら、

援軍が到着するまで持ちこたえれるだけの可能性は十分にあったはずです。

 

 

しかし行軍速度に自信を持っていた夏侯淵は、

 

騎馬隊千騎を引き連れて、

焼き払われていた逆茂木さかもぎの修復に向かってしまいます。

 

 

見事におびき出される形になってしまった夏侯淵ですが、

それと同時に不運までもが重なってしまいます。

 

法正の策にはまった張郃の為に兵を半数割いて援軍に送ったのでした。

 

そしてそれだけでなく、

劉備軍の黄忠に不意を襲われて討ち取られることに・・・

 

 

奇襲を得意とした夏侯淵が、

最後は奇襲で討ち取られる形となったのは皮肉な話です。

夏侯淵の子供達の生涯(夏侯衡・夏侯覇・夏侯称・ 夏侯威・ 夏侯栄・夏侯恵・夏侯和)

夏侯淵が討ち取られた事を聞いた曹操の反応

 

曹操は夏侯淵の才能を高く評価し、

曹操の奥さんの妹を嫁に与えていたほどでした。

 

特に夏侯淵が涼州の宋建を滅ぼした際に、

曹操は次のような事を言って完全にべた褒めしています。

 

「宋建が謀反を起こして早くも三十年たつが、

夏侯淵はたったの一回の戦いで宋建を滅ぼしてしまった。

 

関右の地(涼州地域辺りのこと)に攻め入ること、まさに敵なしと言うべきだろう。

 

 

その昔に孔子が「弟子の顔回には及ばない」

と言ったことがあったが、

 

これは孔子と顔回だけに言えるのでなく、

私と夏侯淵の間にも言えることだ!」と・・・

 

 

ただ曹操は夏侯淵を褒めると同時に、

「指揮官に必要なものは勇猛さばかりではなく、

時には臆病になって慎重になることも大事である。

 

どうしても自ら行動しなければいけない時は、

必ず策を用いなければならない!」

といった話もしていたといいます。

 

 

そして夏侯淵が定軍山で討ち取られた原因が、

少人数で自ら逆茂木の修繕に向かったのが原因だったと知ると、

 

「指揮官たるもの自ら戦う事は避けなくてはならない。

ましてや逆茂木の修復に向かうとは何事だ・・・」

と夏侯淵の死を悲しむと同時に落胆したといいます。

三国志演義での夏侯淵

三国志演義での夏侯淵は夏侯惇の弟として登場します。

実際の夏侯淵と夏侯惇の関係従兄弟です。

 

 

また弓矢を非常に得意とした将軍として描かれ、

 

鄴で銅雀台が完成した時には、

的に既に当たっていた四本の矢の真ん中を射抜くという離れ業を見せています。

 

そして史実同様に夏侯淵は曹操を助けながら、数多くの活躍を見せていきますが、

最終的に定軍山の戦いで命を落としていますね。