「三国時代の名医」といえば、華佗を思い浮かべる人が多いと思いますが、

華佗と同じく高い評価を受けた張機ちょうきという医者がいました。

 

 

日本では張機という名前より、張仲景ちょうちゅうけいという名前の方が有名だったりします。

ちなみに張機が姓名で、仲景があざなになります。

 

別の分かりやすい例を一つあげますと、

劉備の姓名で、あざなが玄徳といえば分かりやすいでしょう。

 

 

ただ「字」の名前を呼ぶのは非常に親しい者だけでしたし、

後の人々が親しみを込めて張仲景と呼ぶようになったのかもしれませんね。

 

馬超が劉備の事を「玄徳」と呼び捨てにして、

関羽・張飛に殺されかけたなんて話もあるぐらいですからね。

 

 

まぁ個人的には、

この話はさすがになかったのではないかと思ってもいますが・・・

 

何故なら馬超が劉備に降伏してから、

荊州を任されていた関羽と会ってないはずですからね。

 

なのでここでは張仲景の方で名前を統一して呼びたいと思います。

張伯祖のもとで学んだ張仲景

張仲景は後漢の末期の頃に、

荊州南陽郡涅陽県で誕生しています。

 

ちなみにいつ生まれたかなどは分かっていません。

ただ資料から逆算して考えると、150年前後という可能性が高そうです。

 

 

張仲景が成長すると推挙を受けて、漢王朝に仕官し、役人仕事をしていました。

 

この頃の時代は「黄巾の乱」が起こったりと、

三国志の時代に突入していたタイミングでもあったわけです。

 

 

 

その後に霊帝が崩御し、

董卓の暴政の中で劉協が新たな皇帝(献帝)となりますが、

 

張仲景は様々な学問に通じていたこともあり、

「張仲景は長沙太守を任された」といいます。

 

 

しかし張仲景が優れていた点は学問に通じていたというだけではなく、

同郷の張伯祖ちょうはくそから医術を学んでいた事で、医術の道にも通じていたわけです。

 

張伯祖は高い医学知識を備えていた名医として名を馳せていましたが、

張仲景はもともと学問好きだったこともあり、真剣にその知識を学んでいったといいます。

 

そして多くの時間を要せずに、張伯祖の知識を吸収したと言われています。

張仲景の転機

正確な年月日が残っているわけではないですが、

建安時代(196年〜220年)に疫病が流行り、多くの者達が命を落としました。

 

命を落とした者達の中に張仲景の一族(約二百人)もいましたが、

そのうちの百三十人〜百四十人ほどが亡くなってしまったといいます。

 

一説によれば、この出来事は建安十一年(206年)前後だと言われています。

 

 

ちなみにこの頃疫病が流行ったのは中国だけでなく、

 

インドやヨーロッパでも疫病が発生して多くの死者を出していたことからも、

おそらく世界的に流行していた疫病だったのでしょう。

 

 

この現状を目の当たりにした張仲景は、

「人は早死を防いで、

天寿を全うしなければいけない」と強く思い、

自分自身の医療の知識を根本から見直して、医術の勉強に励んだといいます。

 

 

そして「医術に携わる者達は、

きちんと勉強をしないといけない」と言って、

 

十六巻からなる「傷寒雑病論」を誰でも見れるように書き上げました。

 

 

同時代に生きた華佗は、張仲景の書を見て、

 

「これは真の活人の書である」と張仲景を褒め称えると同時に、

華佗自身も張仲景のような人物が出てきて喜んだといわれています。

 

当時の最高の医者との呼び声が高かった華佗に認められた瞬間でもあったわけです。

 

 

そして張仲景は、医術によって多くの人を救い続けますが、

建安二十四年(219年)に七十歳前後で天寿を全うしています。

華佗に治療を受けた事がある人達とその治療法

「傷寒雑病論」

「傷寒難病論」の「傷寒」とは、

肺炎・感冒・腸チフス・コレラ等の発熱をともなう病気(伝染病)のことを指しています。

 

その治療法については次のようなものでした。

  • 汗を出させる
  • 吐かせる
  • 便とともに毒素を出させる

 

「傷寒雑病論」は、

上の三つをサポートする為の薬の使い方が記載されているものになります。

 

 

現在も「傷寒論」なるものが伝わっていますが、

これは張仲景が書いたものではありません。

 

まず、張仲景が著した「傷寒雑病論」は、王叔和おうしゅくかによって一度まとめなおされます。

 

 

「王叔和が何故まとめなおしたか?」というと、

張仲景が亡くなった219年は三国時代の戦乱の真っただ中であり、

 

死後十年足らずで、「傷寒雑病論」の多くが散逸してしまったからになります。

 

 

そして北宋(960年 〜1127年)の林億りんおく孫奇そんきらが、

更に再編したものが現代に残っている「傷寒論」「金匱要略きんきようりゃく」になります。

 

 

「金匱要略」とは、十六巻からなる、

「傷寒雑病論」の雑病(合計六巻)に当たる部分を書いたもので、

 

傷寒に関する部分(合計十巻)と分けられています。

「傷寒雑病論(著:張仲景)」を現在に伝えた王叔和

「医聖」と称された張仲景

張仲景は後の世「医聖」と呼ばれるようになり、

張仲景の祠があった場所には、現在では立派な「医聖祠」が建てられています。

 

 

ちなみにですが、南陽で発見された張仲景の祠を1982年に改修した際に、

「漢長沙太守医聖張仲景墓」と書かれた墓碑の台座に、

咸和五年」(330年)と刻まれていました。

 

 

これが表すところの意味は、

 

張仲景死後の百年たらずの東晋の頃に、

張仲景が既に「医聖」と呼ばれていたという事実ですね。

 

 

このように医学界に多大な貢献をした張仲景ですが、

 

長沙太守などを務めたにも関わらず、

「後漢書」「三国志」の史書に全く登場しておりません。

 

 

ちなみに神医と呼ばれた華佗は、

「魏志」華佗伝(方技伝)に紹介されています。

 

一方で張仲景に関する記述が多く見られるのは、

比較的新しい書物である「襄陽府志」だけというのは悲しい事でもあります。

 

 

ただ張仲景の残した多大な功績は、「後漢書」「三国志」に記録が残されずとも、

 

「張仲景が多くの人々に愛され、

後の世にまで受け継がれた」というのは嬉しい事でもありますね。