賈充 –司馬氏(司馬師・司馬昭)の腹心-

賈充かじゅうは魏の名臣であった賈逵の子として誕生しています。

 

 

しかし父であった賈逵が228年に病気で亡くなってしまうと、

 

賈充は若干12歳にして、

父の爵位である陽里亭侯を引き継ぐことになります。

 

 

賈充は曹爽一派に採り立てられますが、

 

曹爽らが司馬懿のクーデターによって処刑されてしまったことで、

処刑こそ免れたものの免官されてしまいます。

 

 

 

免官されてしまった賈充ですが、

その後の政権を握った司馬一族に採り立てられます。

 

 

「毌丘倹・文欽の乱」がおこった時には、

司馬師の参謀としてこの討伐に付き従ってしますし、

 

司馬師がこの戦いで文欽の子であった文鴦の突撃によって、

左目が飛び出してしまった事がきっかけで亡くなると、

 

今度は司馬師の弟であった司馬昭の腹心として活躍していきます。

「趙雲の再来」と言われた一騎当千の猛将、文鴦(ぶんおう)

 

 

 

諸葛誕が寿春で怪しい動きをしだすと、

賈充は司馬昭の使者として諸葛誕の元を訪れているのですが、

 

賈充の下した判断は「諸葛誕に謀反の疑いあり」というもので、

そのことを司馬昭に報告しています。

 

 

賈充から報告を受けた司馬昭は、

諸葛誕討伐に乗り出し。諸葛誕の抵抗空しく鎮圧されてしまうのでした。

 

 

 

「毌丘倹・文欽・諸葛誕の反乱」は、

司馬一族から見たら逆賊になるけれども、

 

曹一族からしてみれば、

三人は魏に忠義を尽くした者達でもあります。

 

 

「敗者が悪である」

というのは歴史の中でいくつも証明されている事実ではありますし、

 

「勝者が正義」と言われるように、

勝者によって都合の良いように歴史を作られていくことの一つの事例の良い例だと思いますね。

 

 

 

だから「毌丘倹・文欽の乱」や「諸葛誕の乱」は

失敗こそしたからただの反乱となっているだけであり、

 

 

もしこの反乱が成功して、

後に司馬一族が排除されるきっかけになっていたのなら、

 

毌丘倹・文欽であったり、諸葛誕であったりは、

魏の英雄の一人になっていた可能性もあったのでしょうね。

高句麗討伐最大の功労者で、魏への忠誠を貫いた毌丘倹(かんきゅうけん)

司馬一族に反乱を起こした魏の諸葛一族、諸葛誕(しょかつたん)/【諸葛亮=龍、諸葛瑾=虎、諸葛誕=狗】

魏帝曹髦の殺害事件

魏皇帝であった曹髦そうぼうは、

魏王朝をないがしろにする司馬一族の専横を許せず、

 

皇帝自身の身でありながら、

司馬一族に対して兵を率いて討伐へ乗り出したのでした。

 

 

これは曹髦自身が反乱を起こさないといけない程、

曹一族の力が衰えていた事の分かりやすい証明でもあったのです。

 

 

 

ただ曹髦自身もおそらく、

「皇帝である自分を攻撃できる者はいない」と推測しており、

だからこそ小数の兵のみでも行動を起こしたのでしょう。

 

 

そして実際に曹髦が予想していた通り、

 

誰も曹髦を攻撃する事ができず、

周りの者達はただただ曹髦の行動を見ているだけだったと言います。

 

 

 

しかしここで動いたのが賈充だったのです。

 

賈充は部下の成済せいせいに対して

後から罪に問う事はない!」と言うと、

 

成済は賈充の言葉を信じて、曹髦を殺害してしまったのでした。

 

 

司馬昭は曹髦殺害の意志があったにも関わらず、

「自分は何もそんなつもりはなかった!」とすっとぼけ、

 

殺害命令を出した賈充が罪に問われる事もありませんでした。

 

 

一方の曹髦殺害の張本人である成済は

「皇帝殺しの全ての責任を負わされた形」で、

 

司馬師・賈充に代わって一族皆殺しにされてしまいます。

 

成済は死ぬ直前まで、

「司馬師と賈充の悪口を言いながら処刑された」といいます。

司馬炎の即位と晋の建国

263年に蜀が滅亡してしまいますが、

それから間もなく司馬昭がこの世を去ってしまいます。

 

その後は司馬昭の息子である司馬炎が跡を継いだわけですが、

賈充は司馬師・司馬昭同様に司馬炎を盛り立てていきます。

 

 

そして曹髦殺害後は、魏皇帝に曹奐が即位していましたが、

完全に形だけの司馬一族の操り人形的な皇帝でしかなかったのです。

 

司馬炎はそんな曹奐から強制的に禅譲を受ける形で、

「晋」を建国しています。

 

これにより曹丕から始まった「魏」は滅亡する事になったのでした。

 

 

そして賈充は「晋」建国の最大功績者の一人に・・・

 

 

 

蜀と魏を滅んだ司馬炎にとって、

残された敵は孫晧が治める呉だけとなっていました。

 

 

しかし賈充は呉討伐には反対しており、

羊祜・杜預・張華といった呉討伐を主張する者達と意見がぶつかっていましたが、

 

魏のことを思い続けて呉討伐を主張した羊祜の死によって、

ついに司馬炎は呉討伐に乗り出します。

 

 

 

この時にいたっても、賈充は呉討伐に反対していたといいます。

 

それでも司馬炎は賈充の言葉に耳を傾けることはなく、

逆に呉討伐の総司令官に任命されていますね。

 

 

実際に呉討伐に反対していた賈充を総大将にしてもあまり良い事はなく、

度々撤退をしようとしたことがあったといいます。

 

 

しかし呉は孫晧の暴政によって既に国は衰退しており、

 

呉への六方向侵攻も優勢に展開しており、

280年に孫晧が降伏したことで呉は滅亡したのでした。

 

 

ちなみに呉を滅ぼした時に生まれた言葉

「破竹の勢い」になりますね。

 

またもととなった人物は、

乗馬できなかった逸話が残る杜預だったりします。

 

 

最後まで呉討伐に反対し続けた賈充でしたが、

賈充の立場がその後も悪くなるようなことはなかったばかりか、

 

「晋」の中での賈充の立場は確固たるものとなっていくのでした。

㉒晋の天下統一

娘の賈南風(かなんぷう)

司馬炎は中華統一を果たし、

国内での地位を確立した賈充でしたが、

 

司馬炎の息子(次男)であった司馬衷しばちゅうに対して、

娘の賈南風を嫁がせることに成功しています。

 

これにより賈充は司馬炎の外戚の立ち位置にまで昇り詰めたわけです。

 

 

魏皇帝を殺害しておきながら、

晋という新たな政権で確固たる地位を築いた賈充ではありましたが、

 

中華統一の二年後にあたる282年にこの世を去ります。

 

 

 

290年に司馬炎が崩御した際には、

賈南風の夫である司馬衷が皇帝に即位しています。

 

 

賈充のお陰で、そして司馬衷に嫁いだ賈南風のこともあって、

政権内で大きな力を持った賈充の一族ではありましたが、

 

賈南風の独裁により、賈一族は処刑されてしまうのは皮肉な話ではあったりします。

 

 

ただ捉え方によっては賈一族の滅亡によって、

曹髦の無念が少しでも晴らされた瞬間ではあったのかもしれませんね。

三国時代随一の悪女、賈南風(かなんぷう)

「曹髦殺害事件」の裏側の逸話

賈充の母であり、

賈逵の妻であった柳氏は節義を重んじる女性であり、

 

「成済が皇帝でった曹髦を殺害したこと」

を心の底から非難していました。

 

 

ただ成済は司馬昭や賈充に利用された被害者であり、

 

「曹髦殺害を命じたのが自分の息子であった」

とは夢にも思っていなかったのです。

 

 

周りの者達はその事実を知ってはいたものの、

柳氏は「曹髦殺害の真実」を最後まで知ることはありませんでした。

 

もしも柳氏がその事実を知ることがあったならば、

恥ずかしさのあまりに自殺した可能性は十分にあると思いますね。

 

 

そして賈充が最後の最後まで、

「曹髦殺害の真実」の事実を母親である柳氏に隠し通せたことが、

 

賈充にとっての一番の親孝行だったのかもしれませんね。