暴虐政治を行って、民を恐怖に陥れた董卓でしたが、

そんな董卓が高く評価し、大きな信頼を寄せた人物がいました。

 

娘である蔡琰さいえんの方が有名だったりしますが、

今回は蔡琰の父親でもある蔡邕さいようについて見ていきます。

 

 

董卓が信頼しただけあって、結構な人物です。

むしろ董卓配下として最もまともな人物ではなかったかと思いますね。

橋玄に高い評価を受けた蔡邕(さいよう)

若かりし頃の蔡邕は、橋玄から非常に高い評価を受けています。

 

「橋玄って誰?」って思う人もいるかもしれませんが、

司空→司徒→大尉として三公全てを歴任した人物であり、人物評としても有名な人物になります。

 

 

まぁ人物評の評価が高い事で他の功績については薄れがちですが、

 

異民族との争いにもきちんと成果を出した人物でもあり、

辺境安定に力を尽くした人物でもあります。

 

 

橋玄がどんな評価をしていたのかということですが、

一番分かりやすい例としてあげるとすれば、曹操との逸話でしょうね。

 

 

当時まだまだ無名だった曹操に対して、

最初に高い評価を与えたのがこの橋玄という人物でした。

 

むしろ曹操の名声が非常に高まったきっかけを与えたといっていいでしょう。

 

 

橋玄はまだ無名だった曹操を見て、

「私はこれまで沢山の人々を見てきたが、貴方のような人物は一人もいなかった。

 

私はもうこのように老いてしまった。

できれば私の妻子を貴方に託したいものだ!」

 

と評価した事がきっかけとなり、曹操の名は広まっていく事になります。

 

 

ちなみに曹操の人相見で一番有名なのが、

許劭きょしょうの「治世の能臣、乱世の奸雄」だと思いますが、

 

この許劭を紹介し、名声を更に高めるように曹操に進言したのも橋玄になります。

治世の能臣、乱世の奸雄

「六経」の検定という大偉業

橋玄によって高く評価された蔡邕は、

地方で働いた後に中央に呼び戻されて郎中を任される事になりました。

 

それにより蔡邕は、後漢の首都であった洛陽の東側に位置する書物が、

全て管理されていた「東観」で書物の校訂を行っています。

 

 

蔡邕は、「東観」の書物があまりにも古い上に、

誤字も多く混ざっていた書物が多いことに大変な懸念を示したそうです。

 

その為、これらの書物を新しく正しいものにきちんと訂正しないと、

謝った解釈が後の世に伝わる可能性があると考えたわけですね。

 

 

霊帝から許可を得た蔡邕は、「六経」の文字を正しく修正する事に成功します。

 

そして蔡邕が正しく修正した文章を、

職人の力も借りて石に刻み込ませた碑「熹平石経きへいせきけい」を建てさせました。

 

 

この碑文は洛陽城南太学の門外に建てられたのですが、

碑文を一目見ようと毎日長蛇の列ができたと言われています。

約12年間の放浪生活

後漢王朝の中でも頭角を現した蔡邕でしたが、

司徒であった劉郃や程曠ていこう・陽球に疎まれてしまい、嘘の証言によって処刑される事が決定します。

 

 

しかし蔡邕の無実を訴え出す者のお陰で、

幷州の五原郡に流刑に減刑の処置がとられることとなりました。

 

この時に蔡邕を擁護した人物は、呂強という宦官で、

呂強はこの時代には珍しいほど後漢王朝を憂いていた宦官の一人でした。

※呂強・・・後に中常侍(十常侍)に罠に嵌められて自殺

 

これらの処置に納得いかない劉郃・程曠・陽球側は、

刺客を送ったり、賄賂で役人を買収したりして、どうにかして蔡邕の殺害を試みます。

 

しかし役人達は蔡邕が優れた人物で、清廉さに溢れた人物であった為に、

殺害命令を聞くことはなく、逆に蔡邕に注意するように教えてあげたといいます。

 

 

それから9カ月ほどして、蔡邕の罪は許される事になって、

洛陽へ戻ってくることができるようになったのですが、

 

しかしここで蔡邕によって思いもよらない事態が起きてしまいます。

 

 

五原太守であった王智が、

「罪を許された事がめでたい」と蔡邕の送別会を開いてあげたのですが、

 

この送別会での蔡邕の態度が気に食わなかった王智は、

洛陽へ「蔡邕は流刑にされた事を深く恨んでますよ!」と密告してしまいます。

 

 

これにより誅殺される事を恐れた蔡邕は洛陽へは戻らず、

家族を連れて長江を渡り、揚州の呉郡・会稽郡で長らく暮らすことを決意。

 

そしてその生活は10年以上続くことになります。

霊帝の死と宮中の乱れ

189年に霊帝が崩御する事件が発生します。

 

これにより外戚であった何進と宦官が後継者争いで激突し、

結果は何進は死んで、宦官のほとんどが誅殺されてしまうという共倒れを招きました。

 

そしてそこにつけ込んだのが董卓でした。

 

 

董卓は洛陽への入城を果たし、独裁政治を強いていくのですが、

かねてより蔡邕という人物に興味を持っていた董卓は洛陽へ呼び寄せるための使者を出します。

 

しかし中央政権に嫌気がさしていた蔡邕は、

董卓からの誘いを普通に断ります。

 

 

これに対して董卓は、「洛陽へ赴かないなら殺すぞ!」と脅しをかけるんですが、

蔡邕はさすがに「やばい!」と思ったのでしょう。

 

急いで董卓が治める洛陽へすぐに参上し、董卓に仕えました。

 

 

董卓は、蔡邕が洛陽へ到着すると手厚く迎え、

たったの三日間で尚書しょうしょ御史ぎょし謁者えっしゃと次々に出世し、

 

その後益州の巴郡太守に任じられたものの、

そのまま中央に留まり、蔡邕は侍中に任じられています。

董卓 -三国乱世を加速させた暴君-

董卓の鎮静剤に・・・

蒼天航路(6巻173P)より画像引用

 

董卓は劉弁(少帝)から劉協(献帝)に皇帝を変更したり、

長安遷都などを決行していくのですが、

 

蔡邕は董卓の元を脱出して逃げる事も考えたようですが、

献帝に従って長安へ随行することを決意しています。

 

 

献帝を擁立する際には、盧植が大反対をしたのに対し、

董卓は盧植を処刑しようとしますが、

 

盧植を擁護したのが蔡邕であり、

蔡邕の言葉に耳を傾けた董卓は盧植を処刑することはありませんでした。

 

 

また朝廷から出される草稿のすべてが、

蔡邕によって書かせたものだと言われているほどだったといいます。

 

それほどまでに董卓は蔡邕を大変信頼していたのです。

董卓の死&蔡邕の死

蒼天航路(7巻74P)り画像引用

 

王允が董卓の臣下であった呂布の裏切りを誘い、董卓殺害に成功します。

この時董卓の一族はことごとく処刑されてしまいます。

 

90歳を超えていた董卓の母も惨殺されたといいますから、

この処刑に関して王允側の容赦なさがうかがいしれます。

 

 

また董卓に重く用いられていた蔡邕も、

その例外ではなく、王允によって捕縛の憂き目に・・・

 

蔡邕のこれまでの功績を考えて、蔡邕を擁護する者達も多くいましたが、

蔡邕が董卓の死を聞いて溜息をついたことに対して、

 

王允は董卓が殺された事にショックを受けての溜息だと勘違いして投獄し、

最終的に処刑してしまうのでした。

 

 

 

ただ蔡邕は、後漢王朝の為にあくまで尽くしていたのであり、

董卓が死んだことに対しての溜息ではなく、

 

最後の最後まで董卓の暴政を抑える事ができなかった自分自身の不甲斐なさに対して、

心の声が漏れて溜息をしてしまっただけでした。

 

 

あくまで自分の不甲斐なさに対しての・・・

 

しかしそうとは知らない王允は、周りの諫めも聞かずに蔡邕を処刑。

 

 

蔡邕を処刑してしまったことで、王允・呂布から離れる者達も続出し、

 

王允・呂布らも董卓臣下であった李傕・郭汜に攻めらた結果、

王允は処刑され、呂布は長安から逃げて行ったのでした。

 

まぁこの時は頭が固すぎる王允が、

李傕・郭汜が降伏したいというのを最後まで許さなかった為に起きた結末でもあるんですけどね。

蔡邕に認められた阮瑀・王粲

蔡邕が世に残した功績は大きく、

建安七子で知られる阮瑀げんう(白眼視で知られる阮籍の父)や王粲おうさんの師でもあります。

 

建安七子の7人のうちの二人を見出して育て上げたというのだから

蔡邕がどれほど優れていた人物だったかの一つの証明にもなるんじゃないでしょうかね!?

 

 

ちなみに阮瑀は「陳琳と阮瑀が表現するものに勝るものはない!」

と曹丕は二人の文章を大絶賛していたというほどの人物です。

※陳琳も阮瑀・王粲同様に建安七子

 

また一方の王粲に関しては、

「王粲はまだまだ若いが、非常に卓越した才能を持ち合わせており、

私の才能をもってしても敵わない程の人物だ!

 

もし必要があるならば、

私の家にある書物は好き勝手に持ち帰ってよい。」と蔡邕が王粲をべた褒めしたという話も残っています。

人並外れた記憶力の持ち主「王粲」