KOEIの三国志などにも登場している羌族の俄何焼戈がかしょうかという異民族の人物を、

一度は目にしたことある人も多いのではないでしょうか?

 

俄何焼戈は三国志演義にも登場しますが、

実際に正史の方にも記載が残る人物でもあります。

 

そんな俄何焼戈ですが、史実と三国志演義では大きな違いがあるんで、

ここではそのあたりを見ていきます。

三国志演義に登場する俄何焼戈(がかしょうか)

俄何焼戈が登場するのは、

諸葛亮が亡くなり、姜維の時代に変わったあたりに登場する人物になります。

 

そして姜維が247年に北伐を行った際に、

姜維の出身地が涼州天水郡出身であったこともあり、

 

涼州・雍州方面にいた羌族に援軍を要請したことがありました。

 

 

姜維の話を聞き入れた羌族の王であった迷当大王めいとうだいおうが、

俄何焼戈に5万を預けて先鋒隊を命じ、迷当大王自身も出陣します。

 

ここで俄何焼戈の名前が登場するわけですが、

俄何焼戈・迷当大王を迎え撃ったのは魏の陳泰ちんたいでした。

 

 

陳泰は姜維と俄何焼戈・迷当大王を同時に迎え撃つのは得策でないと判断し、

まず姜維に呼応した俄何焼戈・迷当大王を倒すことを決断!

 

ここで陳泰が取った作戦は、まず偽って降伏して相手を油断させ、

油断した相手を誘い出して討つというものでした。

 

 

陳泰からの降伏を聞いた俄何焼戈は、

陳泰の降伏を受け入れ、陳泰のもとへと向かうのですが、

 

俄何焼戈は陳泰が事前に作っていた落とし穴にまんまとはまってしまいます。

 

「計られた!」と思った俄何焼戈でしたが、時すでに遅く、

敵に捕らえられて辱めを受けるぐらいならとその場で自決して果てたのでした。

 

 

一方の迷当大王自身も郭淮によって捕らえられたことで、

羌族の反乱はあっさりと鎮圧されてしまったわけです。

 

俄何焼戈を失い、迷当大王自身も捕らえられてしまったことで、

迷当大王は魏にあっさりと降伏!!

俄何焼戈死後の戦争経過

魏に降伏した迷当大王でしたが、

郭淮・陳泰は迷当大王の降伏を大いに利用します。

 

姜維に呼応した羌族が既に鎮圧されてしまったことを知らない姜維のもとへ、

迷当大王を援軍として何食わぬ顔で送るのでした。

 

もちろん迷当大王が率いる羌族の軍勢の中には、

多くの魏兵を忍ばせていたことは言うまでもありません。

 

 

郭淮・陳泰が思った通り、何も知らない姜維は迷当大王を歓迎したわけです。

 

そして姜維の懐に忍び込んだ魏兵によって、

姜維率いる蜀軍は多大なる被害を受ける形で敗北してしまいます。

 

 

姜維の元へと忍び込む役割を与えられた迷当大王でしたが、

 

姜維を見事に騙せたことで用済みとなり、

魏軍が姜維軍に奇襲を仕掛けてる際におまけ程度に殺されてしまったのでした。

正史では俄何焼戈という人物は存在しない!?

三国志演義で迷当大王の部下として登場した俄何焼戈ですが、

俄何焼戈という人物は正史に登場しません。

 

登場しないというより、俄何焼戈は、

二人の人物を何故か合体させた名前なんですよね。

 

つまり「餓何」という人物と「焼戈」という人物がいて、

二人とも羌族の首領をやっていました。

 

実際は餓何と焼戈を含めて、

羌族が住んでいた隴西・南安・金城・西平郡に四人の首領がいたわけです。

 

その四人とは餓何・焼戈以外に、伐同ばつどう蛾遮塞がしゃさいという首領がいました。

 

 

餓何・焼戈・伐同蛾遮塞の四人は結託して、

247年に魏に対して反乱を企てます。

 

三国志演義では姜維に誘われた形で反乱を起こしたように記載されていますが、

実際は、この餓何・焼戈らの反乱に乗ずる形で姜維が北伐の兵を起こしたというのが正しいです。

蛾遮塞・伐同 -魏に反乱を起こした羌族の首領-

餓何・焼戈・伐同・蛾遮塞VS郭淮

そしてこの反乱を迎え撃ったのは郭淮でした。

 

郭淮は反乱軍と姜維率いる蜀軍に挟まれる形になり、

それを打開すべく皆で話し合ったそうです。

 

 

多くの者達は反乱の主役であり、

まとまりにかける餓何・焼戈ら反乱軍への攻撃を優先すべきだというのに対して、

 

郭淮は「反乱軍の心の支えになっているであろう姜維の軍勢を、

まずは蹴散らすことこそが勝利に繋がるだろう」と述べたようです。

 

 

これにより作戦が決まった郭淮と姜維がぶつかったわけです。

 

実際はこれより少し後に蜀に投降することになる夏侯覇がメインとなって姜維とぶつかっています。

どちらかというと郭淮が夏侯覇を助けたような形になりますね。

夏侯淵の子供達の生涯(夏侯衡・夏侯覇・夏侯称・ 夏侯威・ 夏侯栄・夏侯恵・夏侯和)

 

 

そして戦いの末に姜維は敗れ、

その報告を受けた反乱軍の士気はガタ落ちしてしまったのでした。

 

それでも餓何と焼戈は兵士らを鼓舞し続けるものの、

一旦崩れてしまった軍勢を立て直すことはできず・・・

 

最終的に餓何と焼戈は郭淮に対して一騎打ちを挑んで一発逆転を狙うものの、

双方とも一騎打ちの果てに討ち取られてしまったのでした。

 

 

餓何・焼戈と共に兵をあげた蛾遮塞は、

二人が討ち取られたことを知ると撤退して退き、

 

一方の伐同はこの撤退戦で討ち取られたとも言われていますが、

実際どうなったのかはわかっていません。

生涯をかけて蜀と羌族と戦い続けた郭淮

治無戴という人物の存在

一応最後に付け加えると、

この記事では餓何・焼戈・伐同・蛾遮塞をベースに記載はしましたが、

 

治無戴ちむたいという涼州に住んでいた豪族が、餓何・焼戈・伐同・蛾遮塞らに力を貸し、

餓何・焼戈らが討ち取られた後も、最後の最後まで魏に抵抗していく人物がいたりもします。

 

異民族の人々にも色々な人物がいて、

その一人一人の人物にスポットを当てて見たりするのも三国志の中の楽しさの一つかなと思いますね。

治無戴(ちむたい) -餓何・焼戈・伐同・蛾遮塞の反乱に手を貸した涼州の豪族-

正史と三国志演義の大きな違い

正史と三国志演義と違う点は、

 

上でも述べたように俄何焼戈が一人の人物ではなくて、

餓何・焼戈と二人の人物だという点でしょう。

 

 

また迷当大王が俄何焼戈に先鋒隊を任せて出陣させた演義設定になっているのが247年なのに対して、

実際に迷当大王が反乱を起こしたのは240年です。

 

一方で、餓何・焼戈・伐同・蛾遮塞・治無戴らが反乱を起こしたのが、

247年という事になります。

 

三国志演義ではこのあたりを合わせて設定されたという事になりますので、

迷当大王に俄何焼戈(餓何・焼戈)の先鋒隊になったというのは時代背景的には大きく違います。

 

そもそも迷当大王も「大王」なんて描写がされていますけど、

迷当が反乱を起こした当時、餓何・焼戈らのように首領の一人だったという感じですからね。

 

迷当大王なんて呼び名よりも、迷当と呼んだ方が素直な感じです。

 

 

 

また餓何・焼戈・伐同・蛾遮塞・治無戴らの反乱を迎え撃ったのは

三国志演義では陳泰ということになっていますが、

 

陳泰はそもそも戦いに参加していません。

あくまで正史で餓何・焼戈・伐同・蛾遮塞・治無戴を迎撃して打ち破ったのは郭淮です。

 

こういうふうに正史と三国志演義では似ているようで違った設定が多くあるので、

そのあたりを比較しながら三国志の世界に接すると、尚更に楽しめたりするかもしれませんね。