三国時代の発明家と言えば、

諸葛亮を思い浮かべる人もいるのではないでしょうか!?

諸葛亮の発明品(木牛流馬・連弩・饅頭・諸葛菜等)

 

 

しかし三国時代のNo1の発明家は誰かと言えば、今回紹介する馬鈞が断トツかなと思いますね。

 

馬鈞が後世に与えた影響は大きく、

それほどまでに当時画期的であり、多くの発明品を残しています。

 

馬鈞(ばきん)

 

馬鈞は司隷扶風郡で生まれますが、

若い時の馬鈞は非常に貧しい生活を送っていたようです。

 

そして馬鈞は魏に仕えることとなるわけですが、

生活費を稼ぐ為に機織機を改良した「提花織」を作り出し、

 

これがきっかけとなって、馬鈞の名が世間に広まっていくこととなりました。

 

 

ちなみに馬鈞が改良した提花織とは、

縦糸と横糸を効率的に交錯させるという効率性が非常に優れた機械でした。

 

土地柄的に馬鈞は魏に仕えている立場でしたが、

敵国であった蜀(益州)では絹織物の生産が非常に盛んであり、

 

馬鈞が発明した提花織は、蜀にも伝わり、非常に役立つものになっていったと思われます。

「翻車(竜骨車)」の発明

馬鈞は田畑へ水を効率よく送るために、

翻車ほんしゃと呼ばれる竜骨車を発明します。

 

ちなみに竜骨車とは、人力によって水を汲み上げて水田に注ぐ機械のことで、

日本では江戸時代に普及したものですが、中国ではそれより遥か前から使われていたのでした。

 

 

翻車は非常に精巧な作りをしており、水を汲み上げる為の板を足で踏んで動かすことで、

連続して水を汲み上げることができるというものでした。

 

翻車の操作は非常に簡単なもので、子供にも簡単にできたほどだったといいます。

 

ちなみにですが翻車が誕生する前までは、水車などで田畑へ水を引き込んでいた感じですね。

 

 

今では産業革命を経て、技術も大きく発達した結果、

給水ポンプが使われていますが、

 

給水ポンプが誕生するまで、世界で見ても最先端の汲み上げ式の機械でした。

 

 

勿論中国でも馬鈞の開発以後、様々な改良をされながらも、

1500年以上にわたって使われていくこととなります。

 

それほどの代物だったわけですね。

指南車の復元

指南車とは、一言で分かりやすく言えば「羅針盤」です。

 

羅針盤は東西南北の方角を正確にはかることが可能なものですが、

軍需物質を運ぶ際に、道に迷わず羅針盤の機能を兼ね備えた車といえばわかりやすいかと思います。

 

これにより正確に軍需物質を目的地に輸送することを可能としたのです。

 

 

ただこの三国時代に指南車というのは既に失われていた技術であり、

もともと戦国時代(秦・楚・韓・魏・趙・斉・燕)に使われていた技術でした。

 

 

しかし馬鈞が誕生した三国時代には、

実際には存在していなかった伝説上の車だと思われていました。

 

 

ただ馬鈞は指南車が架空のものではなく、実際に実在したものだったと信じていました。

このことが曹叡の耳に入ると、馬鈞に指南車を開発するよう命令が下ります。

 

そして馬鈞は研究の末に、見事に指南車の復元に成功!!

 

それまで馬鈞の考えを馬鹿にしていた者達も、

指南車が復元して完成されたことで驚きを隠せなかったといいます。

 

 

指南車は名前からも分かるかと思いますが、

あくまで南の方角だけが分かるというものでした。

 

車をどんな方向に向けても車に備え付けられた人形が南を向くといった感じですね。

 

もう少しだけ指南車の詳細を書くと、

車に備え付けられていた木の人形の指が南を指さすといったものです。

 

 

人形がきちんと南を向くことができたのは、

複数の歯車と伝導機器が備え付けられていたことで可能になり、

 

目的地に向けて自動的に車の車輪を制御するというものでした。

 

指南車の制作を命令した曹叡自身も、

どの方角に車を向けてもきちんと人形が南を向いたことに非常に感銘したといいます。

水転百戯「自動仕掛けの人形」の発明

ある時に曹叡に対して音楽を奏でる人形が献上されたことがありました。

 

 

曹叡は音楽を奏でる人形に満足したものの、

「この人形が動けば更に良いのになぁ」と思って、

 

発明家の馬鈞に対して、「人形を動くようにしてくれ」と命じます。

 

 

馬鈞は承諾し、歯車を利用して人形が動くように改造し、

これを水の力を利用して動かすという発想で曹叡の要望に見事に応えたのでした。

 

この人形はお手玉や綱渡りなど変わったこともできたようで、

曹叡は大変満足したといいます。

発石車の改良

三国時代で用いられたものとして発石車という、

反動を持って石を飛ばすという軍事兵器がありました。

 

「てこの原理」を使って石を飛ばす軍事兵器ですね。

 

 

攻城戦などでよく利用されたものでもあるんですが、

発石車の欠点として一発放った後に次を発射するのに時間を要するという点でした。

 

しかし馬鈞はこの従来の発石車に改良を加えて、

連続で石を発射できる機械仕掛けを施したわけですね。

 

 

しかしこの案が最終的に採用されて使われるまでには至りませんでした。

 

何故ならこの発石車の改良案を受け取った曹爽が、

発石車の改良案を後押しすることはなかったからですね。

 

そして最終的に曹爽は司馬懿のクーデターによって殺されてしまいますし・・・

 

 

もしもこの時に改良案を受け取った曹爽が、資金提供など馬鈞の後押しをしていれば、

連投式の発石車が蜀呉の戦いで使われていたかもしれません。

連弩に関する逸話

諸葛亮が生み出したことで有名な連弩ですが、

ある時に馬鈞がこの連弩を目にする機会があったそうです。

 

 

馬鈞は連弩のからくりを見て、

 

「こういうものを作れる諸葛亮は大した人物だ!」

と馬鈞は率直に諸葛亮を褒め称えました。

 

 

それと同時に、

「もしも私がこの連弩に私が改良を加えれば、

五倍の威力を持つ連弩を作り出すことができる!」と馬鈞は語ったと言われています。

 

しかし馬鈞が諸葛亮が生み出した連弩を改良することは恐らくなかったと思われます。

何故なら馬鈞に対して、改良するような命令が出されていないからですね。

 

試作品を作っていたとしても、それにとどまった程度だったでしょう。

発明家の社会的地位

三国時代の発明家というものは、

どんなに人々の役に立っていたとしても社会的地位は低かったようですね。

 

 

馬鈞の発明に関する記録も、「方士伝」に記録が収められている点からも、

それがうかがえるというものです。

 

「方士伝」に記載が残る人物で有名なのは、なんといっても神医と呼ばれた華佗でしょう。

そしてそんな華佗も医療の社会的地位が低いことに嘆いていましたし・・・

華佗に治療を受けた事がある人達とその治療法

 

 

だからこそ、馬鈞が多くの大発明をしていたにも関わらず、

馬鈞が生涯官僚として出世するようなことはありませんでした。

 

それも最初の役職から全く変わらずというほどに・・・

 

 

しかし馬鈞が後世に与えた影響は計り知れないもので、

 

もしも馬鈞がもっと高い評価を受けて、魏から積極的に支援を受けていたならば、

内政面でも軍事面でももっと多くの発明品が生まれていたことでしょうね。

 

 

司馬昭の側近であり、馬鈞の弟子であった傅玄ふげんは、

自分の書記「傅子」の中で次のように語っています。

 

「馬鈞先生は非常に優れた才能を持っていた。

しかしその才能が最後まで適正に評価されることはなかったのが非常に残念である」と・・・。

 

また歴代の発明家であった公輸盤・墨子・張衡と比較しても、

何一つ見劣る点はなく、同等の評価を受けるべき人物であったとも付け加えています。

 

公輸盤・・・雲梯の発明者

墨子・・・「科聖」と称されるほどのカリスマ

張衡・・・水力渾天儀・水時計・候風儀[・地動儀等の発明