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	<title>他 &#8211; なんでも三国志</title>
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	<title>他 &#8211; なんでも三国志</title>
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		<title>橋瑁 -董卓討伐の檄文を作成した人物-</title>
		<link>https://daisuki-sangokushi.com/2026/08/18/%e6%a9%8b%e7%91%81-%e8%91%a3%e5%8d%93%e8%a8%8e%e4%bc%90%e3%81%ae%e6%aa%84%e6%96%87%e3%82%92%e4%bd%9c%e6%88%90%e3%81%97%e3%81%9f%e4%ba%ba%e7%89%a9/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[nekozyarashi]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 18 Aug 2026 12:52:44 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[橋瑁]]></category>
		<category><![CDATA[曹操]]></category>
		<category><![CDATA[威厳]]></category>
		<category><![CDATA[袁紹]]></category>
		<category><![CDATA[「魏志」武帝紀]]></category>
		<category><![CDATA[反董卓連合]]></category>
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		<category><![CDATA[英雄記]]></category>
		<category><![CDATA[後漢書]]></category>
		<category><![CDATA[豫州]]></category>
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		<category><![CDATA[群雄割拠]]></category>
		<category><![CDATA[董卓討伐]]></category>
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		<category><![CDATA[睢陽県]]></category>
		<category><![CDATA[檄文]]></category>
		<category><![CDATA[人柄]]></category>
		<category><![CDATA[東郡太守]]></category>
		<category><![CDATA[恩情]]></category>
		<category><![CDATA[董卓]]></category>
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					<description><![CDATA[橋瑁（きょうぼう、字：元偉） 後漢末期、漢王朝が大きく揺らぎ始める中で、 各地の政治家や軍人たちが次々と歴史の表舞台へ登場しました。 &#160; 曹操、袁紹、劉備、孫堅といった後の群雄らが有名ですが、 彼らより少し前か [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h3><span style="font-size: 18pt;">橋瑁（きょうぼう、字：元偉）</span></h3>
<p><img fetchpriority="high" decoding="async" class=" wp-image-16247 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/橋瑁.png" alt="" width="800" height="450" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/橋瑁.png 1672w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/橋瑁-300x169.png 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/橋瑁-1024x576.png 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/橋瑁-768x432.png 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/橋瑁-1536x864.png 1536w" sizes="(max-width: 800px) 100vw, 800px" /></p>
<p>後漢末期、漢王朝が大きく揺らぎ始める中で、</p>
<p>各地の政治家や軍人たちが次々と歴史の表舞台へ登場しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹操、袁紹、劉備、孫堅といった後の群雄らが有名ですが、</p>
<p>彼らより少し前から後漢の混乱に身を投じていた人物もいます。</p>
<p>その一人が、橋瑁です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>橋瑁は字を元偉といい、兗州刺史や東郡太守を務めた人物です。</p>
<p>後漢末の人物でありながら、その生涯について詳しい記録は多くありません。</p>
<p>しかし、残された史料を丁寧に追っていくと、橋瑁は決して単なる地方官ではありません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>むしろ、董卓に対する反発が全国的な軍事行動へ発展していく過程で、重要な役割を果たした人物と見ることができます。</p>
<p>そして、その最期は非常に皮肉なものでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>董卓を討つために立ち上がった橋瑁は、董卓との戦いで命を落としたのではありません。</p>
<p>最後には、同じく董卓討伐に加わった劉岱との対立によって殺害されてしまったのです。</p>
<p>橋瑁の生涯には、後漢という王朝が崩壊し、群雄割拠の時代へ移っていく過程が凝縮されています。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">橋瑁の出自</span></h4>
<p>橋瑁は、豫州梁国睢陽県の出身とされています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>「魏志」武帝紀の注に引かれる『英雄記』によれば、</p>
<p>橋瑁は後漢の名臣として知られた橋玄の一族であったとされています。</p>
<p>ただし、橋玄と橋瑁が具体的にどのような続柄だったのかについては、はっきりしていません。</p>
<p>そのため、橋玄の「子」や「兄弟」といった具体的な関係まで断定することはできません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、少なくとも橋瑁は、</p>
<p>後漢の政治社会において一定の地位を持つ家柄につながる人物だったと考えられます。</p>
<p>やがて橋瑁は官界で頭角を現し、兗州刺史を務めることになります。</p>
<p>その後、東郡太守にも任じられました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>「魏志」武帝紀の記述では、</p>
<p>橋瑁は人柄がよく、威厳と恩情を兼ね備えた人物だったとされています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この評価からは、単なる武勇を頼みにする人物ではなく、</p>
<p>地方を治める政治家として一定の評価を受けていたことがうかがえます。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">何進によって軍を動かす</span></h4>
<p>橋瑁が歴史の大きな流れに巻き込まれていくのは、</p>
<p>後漢王朝の内部対立が激しくなった中平六年（１８９年）のことです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>当時、朝廷では大将軍の何進と、宮中で大きな権力を持っていた宦官勢力が激しく対立していました。</p>
<p>何進は宦官勢力を排除するため、各地の軍事力を利用しようとします。</p>
<p>その一環として地方の軍勢が呼び寄せられ、橋瑁も命令を受けて成皋に軍を駐屯させました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、この軍事動員は、</p>
<p>後漢王朝にとって取り返しのつかない結果を招くことになります。</p>
<p>何進は宦官勢力との争いの中で殺害され、宦官側も討たれます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その混乱に乗じて洛陽へ入ったのが、涼州の軍閥であった董卓でした。</p>
<p>董卓は献帝を擁し、朝廷の実権を掌握します。</p>
<p>ここから後漢末期の情勢は、一気に緊迫していきました。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">橋瑁が作った「董卓討伐の檄文」</span></h4>
<p>董卓が朝廷を掌握すると、各地の有力者たちは次第に董卓への反発を強めていきます。</p>
<p>この時、橋瑁が取った行動は非常に重要です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>正史『後漢書』によれば、</p>
<p>橋瑁は三公の公文書を偽造し、それをもとに董卓討伐を呼びかける檄文を作りました。</p>
<p>そこでは董卓の罪を糾弾し、漢王朝の危機を訴え、各地に兵を起こすよう呼びかけたとされています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これは、橋瑁という人物を考えるうえで非常に重要な事柄です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>橋瑁は単純に自分の軍勢だけで董卓と戦おうとしたのではありません。</p>
<p>各地の諸侯を動かすために、「漢王朝を救うために義兵を起こす」という大義名分を作り出そうとしたのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかも、そのために三公の公文書を偽造するという大胆な手段を用いました。</p>
<p>もちろん、これは正式な朝廷の手続きを無視した行為です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、この時すでに朝廷は董卓によって掌握されていました。</p>
<p>正規の命令を待っていては、董卓に対抗することなどできるものではありません。</p>
<p>そのような状況の中で、橋瑁は「漢王朝を救う」という大義を掲げ、地方勢力を動かそうとしたのです。</p>
<p>この檄文が、後の反董卓勢力の形成につながっていきます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ちなみに『三国志演義』では反董卓連合の檄文を作成したのは曹操となっています。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">反董卓の義兵が各地で立ち上がる</span></h4>
<p>初平元年（１９０年）になると、董卓に反発する関東の諸侯が相次いで兵を起こしました。</p>
<p>袁紹をはじめ、劉岱、孔伷、張邈、張超、袁遺、鮑信、曹操ら、多くの有力者が董卓に対抗する動きを見せます。</p>
<p>橋瑁もその中に加わりました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>後漢末の歴史を語る際、この勢力は一般に「反董卓連合」と呼ばれます。</p>
<p>ただし、現代的な意味での統一された軍事同盟と考えるのは適切ではありません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>それぞれの諸侯が自分の軍勢を率いて集まり、</p>
<p>共通の敵である董卓に対抗していたという性格が強かったからです。</p>
<p>そして、諸侯たちは袁紹を盟主として推しました。こうして、董卓に対抗する大きな勢力が形成されます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ところが、この連合は最初から大きな問題を抱えていました。</p>
<p>それは、諸侯たちが必ずしも一枚岩ではなかったことです。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">酸棗に集まった諸侯たち</span></h4>
<p>橋瑁らの軍勢は、酸棗に集結しました。</p>
<p>ここには劉岱、張邈、袁遺、鮑信、曹操らも駐屯していました。</p>
<p>ところが、董卓を討つという大義を掲げながら、実際には戦況がなかなか動きません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>「魏志」武帝紀によれば、</p>
<p>曹操は、酸棗に集まった諸侯たちが酒宴などに時間を費やし、</p>
<p>積極的に董卓軍と戦おうとしないことを憂えていました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そこで曹操は自ら進軍計画を立て、董卓を討つべきだと諸侯に進言します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、諸侯たちは曹操の提案に応じませんでした。</p>
<p>ここに、反董卓連合の限界が表れています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>董卓を討つという目的では一致していても、</p>
<ul>
<li>誰が先頭に立つのか？</li>
<li>どこへ進軍するのか？</li>
<li>どのように戦うのか？</li>
</ul>
<p>という具体的な問題になると、各勢力の足並みはそろいませんでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして時間だけが過ぎていきます。</p>
<p>やがて兵糧も不足し、酸棗に集まっていた軍勢は解散へと向かいました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ちなみに曹操は董卓軍へ攻撃を仕掛けていますが、徐栄に撃退されています。</p>
<p>また孫堅も一度徐栄に敗れはするものの、陽人の戦いで胡軫・呂布・華雄らに勝利を収め、</p>
<p>廃墟となっていた洛陽入城を果たしているのは余談です。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">橋瑁と劉岱</span></h4>
<p>反董卓連合が崩壊すると、橋瑁は東郡太守としてその地位を保っていました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、ここで橋瑁の人生に大きな転機が訪れます。</p>
<p>同じ兗州の有力者である劉岱との関係が悪化したのです。</p>
<p>そして最終的に、劉岱は橋瑁を殺害しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>「魏志」武帝紀の記述は、非常に簡潔に書かれています。</p>
<table style="border-collapse: collapse; width: 100%;">
<tbody>
<tr>
<td style="width: 100%;"><span style="font-size: 14pt;">劉岱與橋瑁相惡、岱殺瑁、以王肱領東郡太守。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">劉岱と橋瑁の関係は悪化し、劉岱が橋瑁を殺害し、王肱を東郡太守とした。</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、なぜ二人が対立したのか、その具体的な理由について正史は詳しく記録していません。</p>
<p>後世の物語では、人物同士の対立に明確な理由が設定されることがあります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、橋瑁と劉岱については、現存する正史から具体的な原因を断定することはできません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>したがって、橋瑁の死については、</p>
<p>「劉岱との対立が深まり、その結果として劉岱に殺害された」</p>
<p>とするのが、正史に忠実な表現になります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>橋瑁の死後、東郡太守の地位は王肱が引き継ぎましたが、</p>
<p>王肱が黒山賊に敗れ、その後に東郡太守を任されるのが曹操であったりします。</p>
<p>そしてそこから曹操の快進撃が始まっていきます。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">橋瑁の死が象徴するもの</span></h4>
<p>橋瑁の生涯を振り返ると、非常に皮肉な歴史の流れが見えてきます。</p>
<p>橋瑁は、董卓が漢王朝の実権を握ったとき、董卓に対抗するために動きました。</p>
<p>しかも、単に自分の軍勢を動かすだけではありません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>三公の文書を偽造して檄文を作り、各地の諸侯に「義兵」を起こすよう呼びかけました。</p>
<p>その後、実際に各地の諸侯が立ち上がり、袁紹を盟主として董卓討伐の勢力が形成されます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ところが、その連合は董卓を討ち果たすことなく崩壊しました。</p>
<p>そして、その後に待っていたのは、董卓との戦いではなく、諸侯同士の争いでした。</p>
<p>橋瑁は、かつて同じように董卓討伐へ立ち上がった劉岱によって殺されます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ここには、後漢末期という時代の大きな変化が表れています。</p>
<p>最初、人々は「漢王朝を救う」という大義のもとに集まりました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、中央政府の権威が弱まり、各地の軍事力が強くなるにつれて、</p>
<p>諸侯たちはそれぞれ自分の勢力を守る必要に迫られていきます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<table style="border-collapse: collapse; width: 100%;">
<tbody>
<tr>
<td style="width: 100%;">共通の敵である董卓がいなくなれば、今度は隣り合う勢力同士が対立する。</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>その流れは、やがて曹操、袁紹、劉備、孫権らが、</p>
<p>各地で勢力を拡大していく「群雄割拠」の時代へつながっていくこととなります。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>曹性 -反逆の主を討ち、呂布に認められた忠義の将-</title>
		<link>https://daisuki-sangokushi.com/2026/08/15/%e6%9b%b9%e6%80%a7-%e5%8f%8d%e9%80%86%e3%81%ae%e4%b8%bb%e3%82%92%e8%a8%8e%e3%81%a1%e3%80%81%e5%91%82%e5%b8%83%e3%81%ab%e8%aa%8d%e3%82%81%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%9f%e5%bf%a0%e7%be%a9%e3%81%ae%e5%b0%86/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[nekozyarashi]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 15 Aug 2026 04:42:43 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[曹性]]></category>
		<category><![CDATA[高順]]></category>
		<category><![CDATA[一騎打ち]]></category>
		<category><![CDATA[反乱]]></category>
		<category><![CDATA[漢末英雄記]]></category>
		<category><![CDATA[英雄記]]></category>
		<category><![CDATA[夏侯惇]]></category>
		<category><![CDATA[葭萌]]></category>
		<category><![CDATA[呂布]]></category>
		<category><![CDATA[建安元年]]></category>
		<category><![CDATA[陳宮]]></category>
		<category><![CDATA[１９６年]]></category>
		<category><![CDATA[袁術]]></category>
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					<description><![CDATA[曹性（そうせい） 曹性は、後漢末期に呂布に仕えた武将です。 &#160; 史料に登場するのはわずかな期間ですが、 郝萌の反乱を鎮圧する過程で重要な役割を果たした人物として記録されています。 字・出身地・生没年などは伝わっ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h3><span style="font-size: 18pt;">曹性（そうせい）</span></h3>
<p><span style="font-size: 18pt;"><img decoding="async" class="wp-image-16208 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/曹性.png" alt="" width="800" height="450" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/曹性.png 1672w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/曹性-300x169.png 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/曹性-1024x576.png 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/曹性-768x432.png 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/曹性-1536x864.png 1536w" sizes="(max-width: 800px) 100vw, 800px" /></span></p>
<p>曹性は、後漢末期に呂布に仕えた武将です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>史料に登場するのはわずかな期間ですが、</p>
<p>郝萌の反乱を鎮圧する過程で重要な役割を果たした人物として記録されています。</p>
<p>字・出身地・生没年などは伝わっておらず、その生涯の大部分は不明です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ただし、わずかな記録からも、曹性が単なる一兵卒ではなく、</p>
<p>呂布軍内部で一定の兵力を率いる立場にあった武将だったことが分かります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹性は、呂布の配下である郝萌の部将として仕えていました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>建安元年（１９６年）６月、</p>
<p>呂布が徐州を支配していた時期に、郝萌が突然、呂布に対する反乱を起こします。</p>
<p>郝萌は夜間に兵を率いて呂布の居所を襲撃しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>突然の襲撃だったため、呂布は自分を狙った反乱だと気づくことができず、一時は逃走を余儀なくされます。</p>
<p>呂布は下邳の府に逃げ込み、そこで高順に事情を伝えました。</p>
<p>高順はただちに兵を率いて反撃し、郝萌の軍勢を追撃し、反乱軍を崩壊させていきます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このとき、郝萌の部将だった曹性も行動を起こしました。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">郝萌を裏切り、反乱を鎮圧する</span></h4>
<p>曹性は、もともと郝萌の反乱に反対していたとされています。</p>
<p>「魏志」呂布伝（裴松之注「英雄記（漢末英雄記）」）によれば、郝萌が反乱を起こそうとした際、曹性はこれを諫めました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし郝萌は曹性の忠告を聞き入れず、ついに反乱を決行します。</p>
<p>ところが反乱が失敗すると、曹性は郝萌を見限りました。</p>
<p>逃走する郝萌を追って襲撃し、その腕を切り落とします。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ただし、曹性もこの戦いで負傷しました。そこへ高順が追いつき、郝萌を討ち取ります。</p>
<p>こうして郝萌の反乱は、わずかな時間で鎮圧されました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹性にとっては、ここが歴史上もっとも重要な場面となります。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">郝萌は誰と結んでいたのか？</span></h4>
<p>反乱が鎮圧された後、曹性は呂布の前で郝萌の反乱について証言しました。</p>
<p>その証言によれば、郝萌は反乱を起こすにあたり、袁術と呂布配下の陳宮と結んでいたとされます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>とくに陳宮の関与は重大な問題でした。</p>
<p>陳宮は呂布の側近として軍事・政治の両面で重要な位置にいた人物です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そのため、もし本当に陳宮が郝萌の反乱に加担していたのであれば、</p>
<p>呂布政権そのものを揺るがしかねない大事件でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、陳宮はこの追及に対して明確な反論をせず、</p>
<p>ただ顔を赤らめるばかりだったと『英雄記』は記しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>もっとも、この証言だけで陳宮が実際に反乱に加担していたと断定することはできません。</p>
<p>この事件について、その後に陳宮が処罰された形跡もなく、最終的には大きな問題として追及されなかったようです。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">呂布から評価された曹性</span></h4>
<p>一方、曹性自身は、「自分は郝萌に反乱を思いとどまるよう諫めた」と説明しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>郝萌の反乱を阻止しようとしたうえ、</p>
<p>最終的には自ら郝萌を襲撃して反乱の鎮圧に貢献したわけです。</p>
<p>このため呂布は曹性を評価し、郝萌が率いていた部隊を曹性に引き継がせました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ここは曹性という人物を考えるうえで重要な部分です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹性はもともと郝萌の部将でしたが、</p>
<p>主君が反乱を起こした際にはその命令に盲従せず、反乱を止めようとしています。</p>
<p>そして反乱が始まってからも郝萌を見限り、最終的には自ら郝萌に斬りかかっています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その結果、曹性は郝萌の旧部隊を引き継ぐことになりました。</p>
<p>つまり曹性は、反乱によって失脚するどころか、その後は呂布から一定の信頼を得ることに成功したわけです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ところが、ここから先の曹性については、正史系史料に記録が残っていません。</p>
<p>その後の戦争で活躍したのか、呂布とともに各地を転戦したのか、最終的にどのような人生を送ったのかも分かっていません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そのため、「呂布軍の名将・曹性」と大きく扱うよりも、</p>
<p>「呂布軍内部の反乱事件で重要な働きをした武将」と見るのが史料に即した評価でしょう。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>少なくとも、郝萌の反乱をめぐる一連の事件からは、</p>
<p>曹性が一定の兵力を預かる立場にあり、戦闘能力も備えていたことがうかがえます。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">三国志演義の曹性</span></h4>
<p>曹性は『三国志演義』になると、史実とは大きく異なる人物として描かれます。</p>
<p>演義では、曹性は呂布軍の武将として登場し、「八健将」の一人に数えられています。</p>
<p>しかし、これは史実には確認できない設定です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>さらに演義では、曹性は弓の名手として描かれ、呂布軍の武将として曹操軍と戦います。</p>
<p>とくに有名なのが、夏侯惇との戦いです。</p>
<p>曹性は戦闘中に夏侯惇の左目を矢で射抜きます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、激怒した夏侯惇の反撃を受け、討ち取られるという最期を迎えます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして夏侯惇が自ら矢の刺さった目を引き抜き、</p>
<p>「父母の精血を捨てるわけにはいかない」という有名な場面へとつながっていきます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この一連の物語は非常に印象的ですが、</p>
<p>曹性が夏侯惇の目を射抜いたという話は正史にはありません。</p>
<p>曹性について正史で確認できるのは、あくまでも郝萌の反乱に関する記録です。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">正史の曹性</span></h4>
<p>曹性という人物の記録は非常に短いものです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、その短い記録の中には、</p>
<p>後漢末期の群雄たちが抱えていた軍閥内部の複雑な人間関係がよく表れています。</p>
<p>呂布の配下には、高順・陳宮・郝萌らのような有力者がいましたが、必ずしも一枚岩ではありませんでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その中で郝萌が呂布に反旗を翻し、</p>
<p>曹性がそれを諫め、さらに反乱が失敗すると郝萌を裏切って討伐側に回るという曹性の行動は、</p>
<p>まさに後漢末期の群雄割拠を象徴するような、緊迫した軍閥社会の一場面ともいえます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして最終的に曹性は、反乱を鎮圧した功績によって郝萌の旧部隊を引き継ぎます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その後の消息は歴史の中から消えてしまいますが、</p>
<p>少なくともこの一件においては、「反乱に加担した将」ではなく、</p>
<p>「反乱を止め、最後には反乱者を討つ側に回った将」として記録されている人物です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>なお、曹性の知名度が現在高いのは、正史での事績以上に、</p>
<p>後世の『三国志演義』の「夏侯惇の左目を射抜いた武将」という強烈なキャラクターが与えられた影響が大きいでしょう。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>徐栄 -孫堅と曹操を相次いで退けた董卓軍の猛将-</title>
		<link>https://daisuki-sangokushi.com/2026/08/11/%e5%be%90%e6%a0%84-%e5%ad%ab%e5%a0%85%e3%81%a8%e6%9b%b9%e6%93%8d%e3%82%92%e7%9b%b8%e6%ac%a1%e3%81%84%e3%81%a7%e9%80%80%e3%81%91%e3%81%9f%e8%91%a3%e5%8d%93%e8%bb%8d%e3%81%ae%e7%8c%9b%e5%b0%86/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[nekozyarashi]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 11 Aug 2026 14:42:03 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[徐栄]]></category>
		<category><![CDATA[胡軫]]></category>
		<category><![CDATA[中郎将]]></category>
		<category><![CDATA[孫堅]]></category>
		<category><![CDATA[１９２年]]></category>
		<category><![CDATA[董卓]]></category>
		<category><![CDATA[曹操]]></category>
		<category><![CDATA[李傕]]></category>
		<category><![CDATA[１９０年]]></category>
		<category><![CDATA[郭汜]]></category>
		<category><![CDATA[反董卓連合]]></category>
		<category><![CDATA[幽州]]></category>
		<category><![CDATA[公孫度]]></category>
		<category><![CDATA[玄菟郡]]></category>
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					<description><![CDATA[徐栄（じょえい） 徐栄は幽州玄菟郡の出身で、董卓に仕えて中郎将を務めた人物です。 徐栄について残されている記録は決して多くありません。 &#160; しかし、わずかな史料の中でも特に注目されるのが、 反董卓連合軍の中核を [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h3><span style="font-size: 18pt;">徐栄（じょえい）</span></h3>
<p><img decoding="async" class=" wp-image-16166 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/徐栄.png" alt="" width="800" height="450" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/徐栄.png 1672w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/徐栄-300x169.png 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/徐栄-1024x576.png 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/徐栄-768x432.png 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/徐栄-1536x864.png 1536w" sizes="(max-width: 800px) 100vw, 800px" /></p>
<p>徐栄は幽州玄菟郡の出身で、董卓に仕えて中郎将を務めた人物です。</p>
<p>徐栄について残されている記録は決して多くありません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、わずかな史料の中でも特に注目されるのが、</p>
<p>反董卓連合軍の中核を担っていた孫堅と曹操を、それぞれ別の戦場で撃破した実績です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>後世の三国志では、呂布・華雄・張遼などの名将が大きく取り上げられる一方で、</p>
<p>徐栄の名前は比較的知られていません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし正史の記録を見ると、董卓軍の中でも非常に優れた戦闘指揮官だったことがうかがえます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>徐栄が董卓に仕えるようになった時期について詳しい記録は残されていませんが、</p>
<p>董卓の配下として中郎将にまで昇進しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>また、徐栄は同じ玄菟郡出身の公孫度を董卓に推挙した人物としても記録されています。</p>
<p>この公孫度は後に遼東へ進出し、遼東太守として独自の勢力を築いていく人物です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>つまり徐栄は、単なる武将というだけではなく、</p>
<p>同郷の人物を中央政界へ推薦するだけの人脈と影響力を持っていたことになります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして徐栄の名を歴史に大きく刻むことになったのが、１９０年に始まった反董卓連合との戦いでした。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">反董卓連合軍との戦い</span></h4>
<p>１９０年、董卓が洛陽から長安方面へ移動すると、</p>
<p>袁紹・袁術・曹操・孫堅ら各地の諸侯が董卓討伐を掲げて兵を挙げました。</p>
<p>いわゆる反董卓連合軍です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ただし、この連合軍は一枚岩ではありませんでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>各地の諸侯はそれぞれ異なる思惑を抱えており、</p>
<p>実際には董卓を打倒するために一致団結した軍勢というよりも、</p>
<p>董卓政権に対して各地から軍勢が集まった状態に近いものでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そのような中で董卓は、徐栄らを各地に派遣して迎撃にあたらせます。</p>
<p>そして徐栄は、ここで大きな戦果を挙げることになります。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">孫堅を撃破する</span></h4>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-11976 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/02/軍勢.png" alt="" width="579" height="273" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/02/軍勢.png 727w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/02/軍勢-300x142.png 300w" sizes="auto, (max-width: 579px) 100vw, 579px" /></p>
<p>当時、反董卓勢力の中でも特に積極的に董卓軍と戦っていたのが、長沙太守の孫堅でした。</p>
<p>孫堅は予州方面の兵を率いて北上し、董卓軍との戦いに臨みます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ところが梁県付近で徐栄の軍と遭遇すると、孫堅軍は徐栄によって撃破されてしまいました。</p>
<p>この戦いでは潁川太守の李旻も徐栄に捕らえられています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>孫堅自身も何とか包囲を突破して逃げ延びましたが、</p>
<p>その時に従っていた兵はわずか数十騎にまで減っていたとも言われています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>さらに、この逃走の際に孫堅は、普段身につけていた赤い頭巾を部下の祖茂に着けさせ、</p>
<p>自分の身代わりにしたという有名な逸話も残されています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>徐栄の攻撃がいかに激しく、孫堅軍が大きな損害を受けたのかが分かる戦いです。</p>
<p>しかし、徐栄の戦果はこれだけではありませんでした。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">曹操をも撃破した徐栄</span></h4>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-11976 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/02/軍勢.png" alt="" width="579" height="273" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/02/軍勢.png 727w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/02/軍勢-300x142.png 300w" sizes="auto, (max-width: 579px) 100vw, 579px" /></p>
<p>同じく１９０年、反董卓側として挙兵していた曹操も、董卓軍と戦うために進軍します。</p>
<p>曹操は張邈の配下であった衛茲らとともに兵を率いて滎陽方面へ向かいました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そこで待ち受けていたのが徐栄です。両軍は滎陽の汴水付近で激突しました。</p>
<p>この戦いでも徐栄軍が優勢となり、曹操軍は大きな損害を受けました。</p>
<p>曹操自身も流れ矢を受け、乗っていた馬まで負傷するという危機的な状況に陥っています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このとき曹操を救ったのが、従弟の曹洪でした。</p>
<p>曹洪は自分の馬を曹操に譲り、曹操はその馬に乗って夜の闇に紛れながら戦場から脱出しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この戦いで曹操軍は大きな打撃を受けています。ただここで興味深いのが徐栄の判断です。</p>
<p>徐栄は曹操軍の戦いぶりを見て、「酸棗を攻めるのは容易ではない」と判断したと伝えられています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>つまり徐栄は曹操軍を撃破したものの、</p>
<p>その戦いぶりから反董卓側の兵力や抵抗力を冷静に評価していたわけです。</p>
<p>そして徐栄は無理に追撃を続けることなく、軍を引いて帰還しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この判断からも、単純に武力だけで戦う武将ではなく、戦況を見極める能力を持った指揮官だったことがうかがえます。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">孫堅と曹操を破った実力</span></h4>
<p>こうして見ると、徐栄は短い期間に、</p>
<p>反董卓勢力の中でも後に大きな存在となる二人を相次いで破っています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>一人は、後に呉の基礎を築くことになる孫堅、</p>
<p>そしてもう一人は、後に魏王となり、中国北方最大の勢力を築く曹操です。</p>
<p>もちろん、この一戦だけをもって「徐栄が孫堅や曹操より優れていた」と単純に評価することはできません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし少なくとも、董卓軍の中で徐栄が非常に高い戦闘能力を持っていたことは、正史の記録からも明確です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>三国志演義では徐栄の存在感はそれほど大きくありませんが、</p>
<p>正史においてはむしろ、三国時代の幕開けとなる混乱期において重要な戦果を挙げた武将の一人だったと言えるでしょう。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">董卓の死と徐栄の運命</span></h4>
<p>その後、董卓政権は大きく揺らいでいきます。</p>
<p>１９２年、司徒の王允らによる計画によって董卓は殺害されました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>董卓が倒されると、その配下にいた武将たちはそのまま滅亡したわけではありません。</p>
<p>李傕・郭汜ら董卓の旧臣たちは、董卓の死後に長安へ進軍し、董卓の仇を討つことを掲げて王允政権に迫りました。</p>
<p>王允はこれを迎え撃つため、徐栄と胡軫を派遣します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、ここで徐栄の運命が大きく変わります。</p>
<p>徐栄は新豊で李傕・郭汜らと戦いますが、激戦の末に戦死してしまいました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>一方、共に出陣した胡軫は李傕らに降伏しています。</p>
<p>こうして、わずか数年の間に後漢末期の激動を駆け抜けた徐栄は、１９２年にその生涯を終えることになりました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>最初にも述べたように徐栄の生涯について伝わっている記録は非常に限られています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、その短い記録の中には、</p>
<ul>
<li>董卓に仕えて中郎将となったこと</li>
<li>公孫度を推挙したこと</li>
<li>孫堅軍を撃破したこと</li>
<li>曹操軍を撃破し、曹操自身を敗走させたこと</li>
<li>戦況を冷静に判断して無理な追撃を避けたこと</li>
<li>董卓の死後も王允側に従って戦ったこと</li>
<li>李傕・郭汜らとの戦いで戦死したこと</li>
</ul>
<p>など、非常に興味深い経歴が残されています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>特に重要なのは、徐栄が戦った相手が、</p>
<p>後に三国時代の歴史を大きく動かす孫堅と曹操だったことです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>もし徐栄がその後も生き続けていたなら、</p>
<p>董卓政権崩壊後の群雄割拠の中で、さらに大きな役割を果たしていた可能性もあります。</p>
<p>しかし実際には１９２年に戦死したため、その後の歴史に姿を現すことはありませんでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>それでも正史に残された記録を見る限り、徐栄は決して無名の凡将ではありません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>むしろ後漢末期の混乱の中で、孫堅と曹操という後の時代を代表する二人の英雄を相次いで撃破したという、</p>
<p>まさに「知られざる名将」だったと評価できる人物だと思われます。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>盧植 -学徳と忠節を貫いた後漢末の大儒-</title>
		<link>https://daisuki-sangokushi.com/2026/08/09/%e7%9b%a7%e6%a4%8d-%e5%ad%a6%e5%be%b3%e3%81%a8%e5%bf%a0%e7%af%80%e3%82%92%e8%b2%ab%e3%81%84%e3%81%9f%e5%be%8c%e6%bc%a2%e6%9c%ab%e3%81%ae%e5%a4%a7%e5%84%92/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[nekozyarashi]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 08 Aug 2026 16:07:31 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[盧植]]></category>
		<category><![CDATA[礼記]]></category>
		<category><![CDATA[鐘]]></category>
		<category><![CDATA[黄巾賊]]></category>
		<category><![CDATA[書経]]></category>
		<category><![CDATA[台東区立書道博物館]]></category>
		<category><![CDATA[袁紹]]></category>
		<category><![CDATA[１８４年]]></category>
		<category><![CDATA[初平三年]]></category>
		<category><![CDATA[盧毓]]></category>
		<category><![CDATA[公孫瓚]]></category>
		<category><![CDATA[黄巾]]></category>
		<category><![CDATA[儒教]]></category>
		<category><![CDATA[儒家]]></category>
		<category><![CDATA[熹平石経]]></category>
		<category><![CDATA[大儒]]></category>
		<category><![CDATA[詩経]]></category>
		<category><![CDATA[高誘]]></category>
		<category><![CDATA[劉備]]></category>
		<category><![CDATA[軍師]]></category>
		<category><![CDATA[馬融]]></category>
		<category><![CDATA[董卓]]></category>
		<category><![CDATA[１９２年]]></category>
		<category><![CDATA[八尺二寸]]></category>
		<category><![CDATA[曹操]]></category>
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					<description><![CDATA[盧植（ろしょく、字：子幹） 盧植は、後漢末期を代表する人物の一人です。 &#160; 盧植は幽州涿郡涿県の出身で、正史『後漢書』に伝があり、 正史『三国志』の「魏志」盧毓伝に引用された『続漢書』にもその事績が記されていま [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h3><span style="font-size: 18pt;">盧植（ろしょく、字：子幹）</span></h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-16133 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/盧植①.png" alt="" width="800" height="450" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/盧植①.png 1672w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/盧植①-300x169.png 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/盧植①-1024x576.png 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/盧植①-768x432.png 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/盧植①-1536x864.png 1536w" sizes="auto, (max-width: 800px) 100vw, 800px" /></p>
<p>盧植は、後漢末期を代表する人物の一人です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>盧植は幽州涿郡涿県の出身で、正史『後漢書』に伝があり、</p>
<p>正史『三国志』の「魏志」盧毓伝に引用された『続漢書』にもその事績が記されています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>学者としては『礼記』研究の第一人者であり、</p>
<p>政治家としては朝廷を支え、将軍としては黄巾の乱の鎮圧に尽力しました。</p>
<p>また、後に蜀漢を建国する劉備や、公孫瓚の師としても知られ、後漢末の知識人を代表する存在でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そんな盧植が若かりし頃、</p>
<p>当代最高峰の大学者・馬融の門下に入り、鄭玄とともに儒学を学びました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>馬融は豪奢な生活を送り、多くの侍女に囲まれて講義を行うことでも知られていました。</p>
<p>しかし盧植はそうした華美な環境に一切心を動かされることなく、ひたすら学問に没頭します。</p>
<p>その真摯な姿勢に馬融も深く感服し、盧植を特別に高く評価したと伝えられています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>また、盧植は『詩経』『書経』『礼記』をはじめとする古典に広く通じ、</p>
<p>学識だけでなく節義にも優れ、多くの人々から尊敬を集めました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>身長は八尺二寸（約１８９センチ）と非常に長身で、鐘のようによく響く声を持っていたと記されています。</p>
<table style="border-collapse: collapse; width: 100%;">
<tbody>
<tr>
<td style="width: 100%;">身長八尺二寸、音聲如鍾。（『後漢書』盧植伝/呉延史盧趙列伝）</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h4><span style="font-size: 18pt;">官界への歩みと地方行政</span></h4>
<p>盧植は州郡から幾度も出仕を求められましたが、</p>
<p>自ら名誉を求めることはなく、その多くを辞退していました。</p>
<p>やがて博士に任じられ、建寧年間には九江太守となります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>九江では異民族の反乱鎮圧を任されましたが、</p>
<p>武力だけに頼るのではなく、恩徳と信義による統治を行ったことで、人々は自然と帰順しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>任務を終えた後は病を理由に官を辞し、故郷へ戻ります。</p>
<p>この時期には『尚書章句』『礼記解詁』などの著作を執筆し、学問の研究に専念しました。</p>
<p>さらに私塾を開き、多くの若者を育成します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その門下には、</p>
<ul>
<li>劉備</li>
<li>公孫瓚</li>
<li>高誘</li>
</ul>
<p>など、後に歴史へ名を残す人物たちが学びました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>劉備・公孫瓚に関しては説明は省きますが、</p>
<p>高誘は曹操が司空だった際に招かれて司空掾（三公である司空の補佐官）となった人物で、</p>
<p>その後に兗州東郡の濮陽県令、河東郡の監官等も歴任した人物になります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ちなみに高誘は政治家としての面よりも、学者としてよく知られる人物です。</p>
<ul>
<li>『呂氏春秋』（『呂氏春秋』注は全巻が現存）</li>
<li>『淮南子』（『淮南子』注は全２１篇のうち１３篇が現存）</li>
<li>『戦国策』（『戦国策』注は全３３巻のうち１０巻が現存）</li>
<li>『孝経』（現存せず）</li>
</ul>
<h4><span style="font-size: 18pt;">朝廷を支えた学者官僚</span></h4>
<p>再び朝廷へ召されると、盧植は議郎・侍中・尚書などを歴任しました。</p>
<p>東観では馬日磾・蔡邕・楊彪ら当代屈指の学者とともに、『漢紀』の編纂や五経の校訂事業に参加します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>また、熹平四年（１７５年）の熹平石経（記録に残っている最古の石経/蔡邕作）建立の際には、</p>
<p>自ら儒学者として意見書を提出し、後漢学術の発展にも大きく貢献しました。</p>
<p>ちなみにこの盧植の願いは通る事はなかった事も記載しておきます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして熹平石経の一部は現存しており、台東区立書道博物館（日本）にも収められています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>政治においても常に国家を憂い、</p>
<p>日食などの天変が起こるたびに皇帝へ上奏して政治改革を訴えました。</p>
<p>しかし霊帝はその忠言を受け入れず、後漢政治は次第に混迷を深めていきます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>折角なので盧植が石経事業に参加を願い出た内容が、今に伝えられているので全文を紹介しておきます。</p>
<table style="border-collapse: collapse; width: 100%;">
<tbody>
<tr>
<td style="width: 100%;"><span style="font-size: 12pt;">作尚書章句、三禮解詁、時始立太學石經、以正五經文字。</span></p>
<p><span style="font-size: 10pt;">盧植は『尚書章句』と『三礼解詁』を著しましたが、</span></p>
<p><span style="font-size: 10pt;">この頃、朝廷では太学に石経を建立し、五経の文字を正そうとしていました。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">植乃上書曰、</span></p>
<p><span style="font-size: 10pt;">そこで盧植は上奏して、次のように述べさせて頂きます。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">「臣少從通儒故南郡太守馬融受古學。</span></p>
<p><span style="font-size: 10pt;">私は若い頃、通儒として名高い故・南郡太守の馬融に師事し、古文学を学びました。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">頗知今之禮記特多回冗。</span></p>
<p><span style="font-size: 10pt;">そのため、『礼記』についても多少の知識を持っておりますが、</span></p>
<p><span style="font-size: 10pt;">現在流布している書には、なお冗長で誤りの多い箇所が少なくありません。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">臣前以周禮諸經、發起秕謬、敢率愚淺、為之解詁、而家乏、無力供繕上。</span></p>
<p><span style="font-size: 10pt;">私は以前、『周礼』をはじめとする諸経について、</span></p>
<p><span style="font-size: 10pt;">その誤りを正し、浅学ながらも注釈（解詁）を著しました。</span></p>
<p><span style="font-size: 10pt;">しかし家が貧しく、その書物を清書して朝廷へ献上するだけの資力がございません。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">願得將書生二人、共詣東觀、就官財糧、專心研精、合尚書章句、考禮記失得、庶裁定聖典、刊正碑文</span><span style="font-size: 12pt;">。</span></p>
<p><span style="font-size: 10pt;">どうか書生二名をお与えくださり、私とともに東観へ赴いて、</span></p>
<p><span style="font-size: 10pt;">官より筆墨や食糧などの支給を受けながら、一心に研究を重ねさせていただきたく存じます。</span></p>
<p><span style="font-size: 10pt;">そして『尚書章句』を完成させ、『礼記』の得失を詳しく校訂し、聖人の経典を正しく定め、石経に刻まれる本文を誤りなきものとしたいのでございます。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">古文科斗、近於為實、而厭抑流俗、降在小學。</span></p>
<p><span style="font-size: 10pt;">また、古文学（古文系）は本来、真実の姿をよく伝える学問であるにもかかわらず、</span></p>
<p><span style="font-size: 10pt;">近年は世俗の風潮によって軽んじられ、小学の一分野として低く扱われています。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">中興以來、通儒達士班固、賈逵、鄭興父子、並敦悅之。</span></p>
<p><span style="font-size: 10pt;">しかし後漢が興って以来、</span><span style="font-size: 10pt;">班固・賈逵・鄭興父子といった通儒・達識の士はいずれも古文学を尊び、</span></p>
<p><span style="font-size: 10pt;">その価値を高く評価してまいりました。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">今毛詩、左氏、周禮各有傳記、其興春秋共相表裏、宜置博士、為立學官、以助後來、以廣聖意。」</span></p>
<p><span style="font-size: 10pt;">今日では、『毛詩』『左氏春秋』『周礼』には、</span><span style="font-size: 10pt;">それぞれ伝や注釈が備わっており、</span></p>
<p><span style="font-size: 10pt;">これらは『春秋』の学と相互に補い合う関係にあります。</span></p>
<p><span style="font-size: 10pt;">ゆえに、ぜひとも博士を設けて学官とし、後進の学ぶ道を開き、もって聖人の教えをさらに広く世に伝えて頂きますように、お願い申し上げます。」</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h4><span style="font-size: 18pt;">黄巾の乱と北中郎将</span></h4>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-14069 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2023/03/黄金龍.png" alt="" width="634" height="367" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2023/03/黄金龍.png 1573w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2023/03/黄金龍-300x173.png 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2023/03/黄金龍-768x444.png 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2023/03/黄金龍-1024x592.png 1024w" sizes="auto, (max-width: 634px) 100vw, 634px" /></p>
<p>光和７年（１８４年）、黄巾の乱が勃発すると、</p>
<p>盧植はその文武両道の才能を見込まれ、北中郎将に任命されます。</p>
<p>そして節を授けられ、宗員を副将として北方方面の討伐軍を率いました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>盧植は張角率いる黄巾軍と広宗で対峙し、幾度も勝利を重ね、一万人以上を討ち取る大戦果を挙げます。</p>
<p>張角を広宗へ追い詰めると、雲梯を用いて本格的な攻城戦を開始しました。</p>
<p>当時、戦局はすでに盧植優勢となっており、黄巾軍は滅亡寸前にまで追い込まれていました。</p>
<h5><span style="font-size: 18pt;">左豊の讒言</span></h5>
<p>勝利目前で、盧植にとって思わぬ悲劇が起こります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>霊帝は宦官の左豊を監軍として派遣しました。</p>
<p>左豊は軍中で盧植に賄賂を要求しましたが、盧植はこれを毅然として拒絶します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>逆恨みした左豊は朝廷へ戻り、</p>
<p>「盧植は戦わず、いたずらに日数を費やしております」</p>
<p>と虚偽の報告を行いました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これを信じた霊帝は激怒し、盧植を召還してしまったのです。</p>
<p>死罪こそ免れたものの、官職を剥奪され投獄されてしまいます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その後、皇甫嵩が広宗を攻略し黄巾軍を壊滅させると、</p>
<p>「盧植が敵軍を十分に弱体化させていたからこその勝利です」</p>
<p>と朝廷へ報告しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その功績が認められ、盧植は名誉を回復し、再び尚書へ復帰しています。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">董卓の専横に異を唱える</span></h4>
<p>中平６年（１８９年）、霊帝が崩御すると、朝廷は急速に混乱していきます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>何進が董卓を洛陽へ招こうとした際、盧植はその危険性を見抜き、</p>
<p>「董卓は国家を乱す人物です」と強く反対しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし何進は耳を貸さず、やがて董卓は都へ入り実権を掌握します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>さらに董卓が少帝を廃し、献帝を擁立しようとすると、</p>
<p>百官の多くが沈黙する中、盧植だけは公然と反対しました。</p>
<p>董卓は激怒し、盧植を処刑しようとします。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし盧植は天下に知られた大儒であり、</p>
<p>蔡邕や彭伯らが必死に取り成したことで、免職だけに留められました。</p>
<p>学徳が命を救った稀有な例といえるでしょう。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">晩年と最期</span></h4>
<p>董卓政権を離れた盧植は、病を理由に都を去り、轘轅道を経て北方へ帰郷しました。</p>
<p>董卓は追手を差し向けましたが、盧植を捕えることはできませんでした。</p>
<p>その後は上谷郡で静かに暮らし、乱世から距離を置きます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>やがて冀州牧となった袁紹から軍師として迎えられ、政治・軍事の両面で助言を与えました。</p>
<table style="border-collapse: collapse; width: 100%;">
<tbody>
<tr>
<td style="width: 100%;">冀州牧袁紹請為軍師（『後漢書』盧植伝/呉延史盧趙列伝）</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし初平三年（１９２年）、病のためその生涯を閉じます。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">曹操による顕彰</span></h4>
<p>建安年間、曹操が河北を平定して柳城へ遠征する途中、盧植の故郷・涿郡を訪れました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹操は生前の盧植の忠義と学徳を高く評価し、</p>
<p>その功績を顕彰するとともに、子の<ruby>盧毓<rt>ろいく</rt></ruby>らを登用して家門を厚遇しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>盧植の名声は、後漢の滅亡後もなお失われることはありませんでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>盧植は、学者・政治家・武将という三つの才能を兼ね備えた後漢屈指の人物でした。</p>
<p>黄巾の乱では国家を救うため最前線で戦い、朝廷では学問によって政治を正そうと努めました。</p>
<p>また、董卓の暴政に対しても信念を曲げることなく諫言し、権勢に屈しない節義を貫いています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>さらに、劉備や公孫瓚を育てた教育者としての功績も大きく、その教えは後の三国時代にも受け継がれました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>乱世において権力や名利を追うことなく、</p>
<p>学問・忠義・人格を生涯守り抜いた盧植は、「後漢最後の大儒」と称されるにふさわしい存在であり、</p>
<p>その名は後世に至るまで深い敬意をもって語り継がれています。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>朱儁 -黄巾を討ち、乱世に漢の命脈を守った忠臣-</title>
		<link>https://daisuki-sangokushi.com/2026/08/08/%e6%9c%b1%e5%84%81-%e9%bb%84%e5%b7%be%e3%82%92%e8%a8%8e%e3%81%a1%e3%80%81%e4%b9%b1%e4%b8%96%e3%81%ab%e6%bc%a2%e3%81%ae%e5%91%bd%e8%84%88%e3%82%92%e5%ae%88%e3%81%a3%e3%81%9f%e5%bf%a0%e8%87%a3/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[nekozyarashi]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 08 Aug 2026 13:34:16 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[朱儁]]></category>
		<category><![CDATA[驃騎将軍]]></category>
		<category><![CDATA[蘭陵県令]]></category>
		<category><![CDATA[董卓]]></category>
		<category><![CDATA[南陽郡]]></category>
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		<category><![CDATA[後漢書]]></category>
		<category><![CDATA[公偉]]></category>
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		<category><![CDATA[韓忠]]></category>
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		<category><![CDATA[臧旻]]></category>
		<category><![CDATA[霊帝]]></category>
		<category><![CDATA[右車騎将軍]]></category>
		<category><![CDATA[許昭]]></category>
		<category><![CDATA[銭塘侯]]></category>
		<category><![CDATA[大尉]]></category>
		<category><![CDATA[趙弘]]></category>
		<category><![CDATA[忠臣]]></category>
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					<description><![CDATA[朱儁（しゅしゅん、字：公偉） 朱儁は黄巾討伐の英雄でありながら、 董卓・李傕・郭汜らが跋扈する後漢末の激動期において、 最後まで「漢王朝の臣」として生きようとした人物です。 &#160; 以下では、単なる年表ではなく、「 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h3><span style="font-size: 18pt;">朱儁（しゅしゅん、字：公偉）</span></h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-16127 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/朱儁②.png" alt="" width="675" height="450" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/朱儁②.png 1800w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/朱儁②-300x200.png 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/朱儁②-1024x683.png 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/朱儁②-768x512.png 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/朱儁②-1536x1024.png 1536w" sizes="auto, (max-width: 675px) 100vw, 675px" /></p>
<p>朱儁は黄巾討伐の英雄でありながら、</p>
<p>董卓・李傕・郭汜らが跋扈する後漢末の激動期において、</p>
<p>最後まで「漢王朝の臣」として生きようとした人物です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>以下では、単なる年表ではなく、「後漢末の忠臣・朱儁の生涯」という流れで、</p>
<p>正史（主に『後漢書』朱儁伝・『三国志』）を基準に記載しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>朱儁は、揚州会稽郡上虞県の出身で、字を公偉といいますが、</p>
<p>幼い頃に父を亡くし、家庭は貧しい暮らしを余儀なくされました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>母が内職をして家計を支える中、朱儁は孝行心が深く、</p>
<p>また義理を重んじる人物として周囲から評価されていました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>彼は財産への執着が薄く、困っている者を助けることを好みました。</p>
<p>ある時、同郡の人物である周規が、中央から招きを受けて都へ向かうことになりました。</p>
<p>しかし、旅費や準備金が不足していたため、朱儁は母の財産を密かに持ち出し、それを周規へ渡しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>母からは叱責されましたが、朱儁は、</p>
<p>「小さな財を失っても、大きな義を成すことができます」</p>
<p>と答えたといいます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この逸話は、朱儁が若い頃から目先の利益よりも、人との信義を重視していたことを示しています。</p>
<p>その後、県の役人として仕え、能力を認められて徐々に昇進していきました。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">主君の危機を救った若き官僚</span></h4>
<p>朱儁は地方官として勤務する中で、判断力と行動力を示します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>揚州刺史の臧旻が、許昭という反乱勢力の討伐に失敗した太守・尹端を処罰しようとした際、</p>
<p>朱儁は尹端の功績や事情を考え、密かに都へ赴きました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして役人へ働きかけ、上奏内容を修正させることで、</p>
<p>尹端の刑罰を死刑から労役刑へ減刑することに成功します。</p>
<p>尹端は命を救われましたが、最後まで誰が助けたのか知ることはありませんでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この出来事からも、朱儁は表立って名声を求めるのではなく、陰ながら人を救う人物であったことが分かります。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">南方の反乱を鎮めた名将</span></h4>
<p>やがて朱儁は孝廉に推挙され、蘭陵県令となります。</p>
<p>その行政能力が評価され、交州で発生した大規模な反乱への対応を任されました。</p>
<p>当時、交趾では梁龍らが反乱を起こし、南海太守まで反旗を翻す状況となっていました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>朱儁はまず敵情を詳細に調査し、無謀な突撃を避けました。</p>
<p>そして故郷で兵を集め、十分な準備を整えた上で進軍を試みます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>さらに交州各地の兵力を結集し、反乱勢力を分断して撃破しました。</p>
<p>最後には反乱指導者の梁龍を討ち取り、交州の秩序を回復します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この功績によって朱儁は都亭侯に封じられ、中央政界へ迎えられました。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">黄巾の乱 -皇甫嵩と並ぶ後漢最大級の討伐将軍-</span></h4>
<p>光和７年（１８４年）、中華全土を揺るがす黄巾の乱が発生します。</p>
<p>張角を中心とする太平道の信徒たちは、腐敗した後漢政府に対して大規模な反乱を起こしました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>朝廷では対応策が議論され、その中で朱儁は皇甫嵩とともに討伐軍の指揮官に抜擢されます。</p>
<p>朱儁は右中郎将、皇甫嵩は左中郎将となり、二人は各地の黄巾軍討伐へ向かいました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この時、朱儁は後に江東で大勢力を築くことになる孫堅を配下として迎えています。</p>
<p>孫堅はこの戦いで武名を高め、後の「江東の猛虎」と呼ばれる基礎を築くことになります。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">南陽黄巾を撃破</span></h4>
<p>朱儁は皇甫嵩とは別方面で戦い、特に南陽方面の黄巾軍討伐で大きな功績を挙げました。</p>
<p>南陽郡では趙弘・韓忠・孫夏らが勢力を維持していました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>朱儁は長期間にわたる包囲戦を展開し、慎重に敵の戦力を削りました。</p>
<p>激しい戦闘の末、趙弘を討ち、韓忠を降伏させ、最後には孫夏の撃破にも成功しています。</p>
<p>黄巾軍最大級の勢力の一つであった南陽方面を平定しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この功績により、</p>
<ul>
<li>右車騎将軍</li>
<li>光禄大夫</li>
<li>銭塘侯</li>
</ul>
<p>などの地位を与えられ、後漢を代表する名将として知られるようになります。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">董卓の専横に抗った漢の忠臣</span></h4>
<p>黄巾討伐後も朱儁は官界で重きをなし、河南尹など重要職を歴任しました。</p>
<p>しかし時代は大きく変化します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>１８９年（中平６年）、霊帝が崩御すると、董卓が洛陽へ入り、朝廷の実権を掌握しました。</p>
<p>董卓は朱儁を表面上は厚遇しましたが、内心では警戒していました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>朱儁もまた、董卓の専横を認めませんでした。</p>
<p>特に董卓が計画した長安遷都には強く反対します。</p>
<p>董卓は朱儁を自身の側に置こうとしましたが、朱儁はそれを拒否しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>やがて董卓と袂を分かち、反董卓勢力との連携を模索します。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">乱世の中で「漢」を守ろうとした最後の戦い</span></h4>
<p>董卓が長安へ去った後、朱儁は洛陽に残り、</p>
<p>各地の諸侯と連絡を取りながら董卓打倒の機会を探りました。</p>
<p>一時は荊州の劉表を頼るなどして勢力を整え、再び洛陽方面へ戻ります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その後、陶謙・孔融ら多くの人物から支持を受け、献帝を迎える計画にも関わりました。</p>
<p>しかし、李傕・郭汜が長安で実権を握ると、朝廷から召還命令が届きます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>朱儁は、</p>
<p>「天子から召された以上、臣として応じるべきである」</p>
<p>と考え、危険を承知で長安へ向かいました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これは、彼が最後まで漢王朝への忠誠を捨てなかったことを示しています。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">乱世に疲れ果てた忠臣</span></h4>
<p>初平４年（１９３年）、朱儁は太尉・録尚書事に任じられ、後漢政府の最高位級の官職に就きます。</p>
<p>しかし、李傕・郭汜による長安政権は、もはや正常な政治とは呼べない状態でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>興平元年（１９４年）、朱儁は驃騎将軍となります。</p>
<p>その後、李傕と郭汜の対立を調停しようとしますが、郭汜によって人質にされてしまいます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>朱儁はもともと剛直な性格であり、</p>
<p>この屈辱と混乱に耐えられず、興平二年（１９５年）に病を発して亡くなりました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この時代、自ら権力を握ろうとする者が多く現れました。</p>
<p>その中で朱儁は、最後まで「漢の臣」であることを選び続けた人物でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>後漢末の英雄たちが天下を奪い合う時代にあって、</p>
<p>朱儁の生涯は、滅びゆく王朝を支えようとした一人の忠義の将軍の物語だったと言えるでしょう。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>皇甫嵩 -黄巾の乱を鎮めた漢末屈指の名将-</title>
		<link>https://daisuki-sangokushi.com/2026/08/04/%e7%9a%87%e7%94%ab%e5%b5%a9-%e9%bb%84%e5%b7%be%e3%81%ae%e4%b9%b1%e3%82%92%e9%8e%ae%e3%82%81%e3%81%9f%e6%bc%a2%e6%9c%ab%e5%b1%88%e6%8c%87%e3%81%ae%e5%90%8d%e5%b0%86/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[nekozyarashi]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 04 Aug 2026 12:55:09 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[皇甫嵩]]></category>
		<category><![CDATA[驃騎将軍]]></category>
		<category><![CDATA[皇甫節]]></category>
		<category><![CDATA[名将]]></category>
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		<category><![CDATA[皇甫旗]]></category>
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					<description><![CDATA[皇甫嵩 （こうほすう、字：義真） 皇甫嵩は、後漢末期を代表する名将の一人であり、涼州安定郡朝那県の出身です。 &#160; 皇甫氏は代々軍事・行政に関わる家柄であり、 曾祖父の皇甫棱は度遼将軍、祖父の皇甫旗は扶風都尉、父 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h3><span style="font-size: 18pt;">皇甫嵩 （こうほすう、字：義真）</span></h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-16118 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/皇甫嵩-6a71df225dfd3.jpg" alt="" width="800" height="450" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/皇甫嵩-6a71df225dfd3.jpg 1672w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/皇甫嵩-6a71df225dfd3-300x169.jpg 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/皇甫嵩-6a71df225dfd3-1024x576.jpg 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/皇甫嵩-6a71df225dfd3-768x432.jpg 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/皇甫嵩-6a71df225dfd3-1536x864.jpg 1536w" sizes="auto, (max-width: 800px) 100vw, 800px" /></p>
<p>皇甫嵩は、後漢末期を代表する名将の一人であり、涼州安定郡朝那県の出身です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>皇甫氏は代々軍事・行政に関わる家柄であり、</p>
<p>曾祖父の皇甫棱は度遼将軍、祖父の皇甫旗は扶風都尉、父の皇甫節は雁門太守を務めています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>また、叔父の皇甫規は異民族討伐で名を馳せ、張奐・段熲と並んで「涼州三明」と称された人物でした。</p>
<p>つまり皇甫嵩は、軍事能力と政治的教養を兼ね備えた名門の出身だったのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>若い頃から文武両道に優れ、</p>
<p>『詩経』『書経』を学ぶ一方で、弓術や騎馬にも励みました。</p>
<p>孝廉に推挙され郎中となる機会を得ましたが、父の死去によって辞退します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その後、再び茂才に推挙されましたが、すぐには官職に就かず、時勢を見極めていました。</p>
<p>彼が本格的に歴史の舞台へ登場するのは、後漢最大の危機とも言える黄巾の乱の時でした。</p>
<p>黄巾の乱勃発＆漢王朝を救った決断</p>
<p>中平元年（１８４年）、張角を中心とする黄巾軍が全国規模で蜂起します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この時、朝廷では討伐軍編成について議論が行われました。</p>
<p>皇甫嵩は単純な軍事討伐だけではなく、反乱の根本原因にも目を向けます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>皇甫嵩は、</p>
<ul>
<li>党錮の禁によって排除された知識人を赦免すること</li>
<li>霊帝の私財を軍費として開放すること</li>
</ul>
<p>を提案しました。</p>
<p>これは、民心を取り戻し、国家全体の力を結集するための政策でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>皇甫嵩の意見は採用され、彼は左中郎将に任命されます。</p>
<p>そして朱儁とともに精兵四万を率い、黄巾討伐へ向かいました。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">長社の戦い</span></h4>
<p>最初の大きな戦場となったのは潁川の戦いでした。</p>
<p>黄巾軍の指揮官は波才であり、</p>
<p>当初、朱儁軍は苦戦し、黄巾軍は勢いを増して皇甫嵩が籠る長社城を包囲します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>兵力的にも圧倒的に不利な立場であった皇甫嵩でしたが、焦る事はなく冷静に、</p>
<p>敵の油断を見抜き、夜間に火を放つ奇策を実行します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>混乱した黄巾軍へ、援軍として駆けつけた曹操・朱儁らが一斉攻撃を仕掛け、大勝利を収めました。</p>
<p>この戦いによって皇甫嵩の名声は一気に高まります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その後も皇甫嵩は各地を転戦し、黄巾軍を次々と撃破していきました。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">張角を討つ</span></h4>
<p>黄巾軍最大勢力である張角本隊への対応は、当初盧植と董卓が担当していました。</p>
<p>しかし両者は決定的な戦果を挙げることができず、朝廷は皇甫嵩へ討伐を命じます。</p>
<p>皇甫嵩は冀州へ向かい、広宗で張角の弟・張梁と激突しました。</p>
<p>激戦の末、皇甫嵩は張梁軍を撃破に成功します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>すでに病死していた張角の遺体を確認し、その首を洛陽へ送りました。</p>
<p>さらに曲陽では張角の弟・張宝も討ち取り、黄巾軍の主力を完全に崩壊させます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この功績によって、</p>
<ul>
<li>左車騎将軍</li>
<li>冀州牧</li>
<li>槐里侯</li>
</ul>
<p>に任命され、さらに八千戸の食邑を与えられました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>まさしく皇甫嵩は、黄巾の乱を鎮圧した最大の功労者だったのです。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">権力を望まず</span></h4>
<p>皇甫嵩は冀州牧となった後、単なる軍事支配者にはなりませんでした。</p>
<p>戦乱で苦しむ民の負担を減らし、部下にも厚く接しました。</p>
<p>汚職を行った官吏に対しても、事情を考慮して処罰を軽くすることがあり、多くの人々から慕われました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その人格を見た元信都県令の閻忠は、皇甫嵩へ驚くべき提案をします。</p>
<table style="border-collapse: collapse; width: 100%;">
<tbody>
<tr>
<td style="width: 100%;">あなたは韓信にも匹敵する功績を挙げました。</p>
<p>しかし凡庸な皇帝に仕え続ければ、いずれ災いとなります。今こそ兵を集め、天下を取るべきです。</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>&nbsp;</p>
<p>つまり皇甫嵩に独立して皇帝を目指せという進言でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし皇甫嵩は拒否します。</p>
<p>彼は天下を奪う野心よりも、漢王朝の臣下として生きる道を選びました。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">董卓との因縁</span></h4>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-16122 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/鳳凰＆龍.png" alt="" width="499" height="374" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/鳳凰＆龍.png 1600w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/鳳凰＆龍-300x225.png 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/鳳凰＆龍-1024x768.png 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/鳳凰＆龍-768x576.png 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/鳳凰＆龍-1536x1152.png 1536w" sizes="auto, (max-width: 499px) 100vw, 499px" /></p>
<p>中平５年（１８８年）、</p>
<p>涼州で反乱が起きると、皇甫嵩は討伐軍の指揮官となります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この時、配下には後に天下を混乱させることになる董卓がいました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし二人の軍事思想は大きく異なりました。</p>
<p>董卓は積極的な攻勢を主張しましたが、皇甫嵩は慎重な戦略を採用します。</p>
<p>結果として皇甫嵩の判断によって勝利を収めましたが、このことで董卓は皇甫嵩を強く憎むようになります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>後に董卓が権力を握った際、皇甫嵩は危険な存在として扱われることになるのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>董卓が朝廷を掌握すると、皇甫嵩は一時的に危機へ陥ります。</p>
<p>董卓は皇甫嵩を召還し、殺害するつもりでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし皇甫嵩の子・皇甫堅寿が董卓へ必死に嘆願し、父の命を救います。</p>
<p>その後、董卓と皇甫嵩は長安遷都の際に再び顔を合わせます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>董卓が、</p>
<p>「義真よ、まだ私に従わないのか？」</p>
<p>と問いかけると、</p>
<p>皇甫嵩は笑って礼をしました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その態度に董卓の怒りも少し和らいだと伝えられています。</p>
<p>皇甫嵩は、敵であっても感情に流されず、礼節を失わない人物でした。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">最後まで漢臣として生きる</span></h4>
<p>初平３年（１９２年）、</p>
<p>王允・呂布らによって董卓が殺害されると、皇甫嵩は再び中央で重用されます。</p>
<p>征西将軍、車騎将軍、太尉へと昇進しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、李傕・郭汜らが長安で乱を起こす頃、皇甫嵩は病に倒れます。</p>
<p>興平２年（１９５年）、皇甫嵩はこの世を去りました。</p>
<p>死後、驃騎将軍の印綬が追贈されています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>皇甫嵩は、</p>
<ul>
<li>黄巾の乱を鎮圧した軍事的才能</li>
<li>民を思いやる政治姿勢</li>
<li>権力を求めない節度</li>
<li>最後まで漢王朝へ尽くした忠誠心</li>
</ul>
<p>を兼ね備えた人物でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>魏の高官であった華歆は皇甫嵩を評価し、</p>
<p>「数々の功績を挙げながら、自分の手柄として語ることはなかった」と称賛しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>一方、『後漢書』の范曄は、</p>
<p>「大きな可能性を持ちながら、小さな忠義にこだわった」</p>
<p>という趣旨の批評も残しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>もし皇甫嵩が閻忠の進言を受け入れ、独自勢力として立ち上がっていたなら、</p>
<p>後漢末の歴史は大きく変わっていたかもしれません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし皇甫嵩は天下を奪う英雄ではなく、滅びゆく王朝を最後まで支えた忠臣の道を選びました。</p>
<p>その生涯は、「勝者になること」ではなく、「己の信念を守ること」を貫いた名将だったと言えるでしょう。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>楊奉 -献帝救出の功臣から乱世の敗者となった人物-</title>
		<link>https://daisuki-sangokushi.com/2026/08/03/%e6%a5%8a%e5%a5%89-%e7%8c%ae%e5%b8%9d%e6%95%91%e5%87%ba%e3%81%ae%e5%8a%9f%e8%87%a3%e3%81%8b%e3%82%89%e4%b9%b1%e4%b8%96%e3%81%ae%e6%95%97%e8%80%85%e3%81%a8%e3%81%aa%e3%81%a3%e3%81%9f%e4%ba%ba%e7%89%a9/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[nekozyarashi]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 03 Aug 2026 12:23:46 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[楊奉]]></category>
		<category><![CDATA[劉協]]></category>
		<category><![CDATA[献帝]]></category>
		<category><![CDATA[白波]]></category>
		<category><![CDATA[李傕]]></category>
		<category><![CDATA[海西]]></category>
		<category><![CDATA[郭汜]]></category>
		<category><![CDATA[徐州]]></category>
		<category><![CDATA[白波賊]]></category>
		<category><![CDATA[陳珪]]></category>
		<category><![CDATA[涼州]]></category>
		<category><![CDATA[劉備]]></category>
		<category><![CDATA[車騎将軍]]></category>
		<category><![CDATA[曹操]]></category>
		<category><![CDATA[韓暹]]></category>
		<category><![CDATA[呂布]]></category>
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					<description><![CDATA[楊奉（ようほう） 楊奉は、もともと黄巾の乱後に勢力を拡大した白波賊の頭目の一人でした。 &#160; しかし時代の流れとともに朝廷へ帰順し、 董卓政権崩壊後は李傕・郭汜ら涼州軍の配下として活動します。 乱世を生き抜く中で [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h3><span style="font-size: 18pt;">楊奉（ようほう）</span></h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-16111 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/楊奉①-6a7086aaeb127.jpg" alt="" width="607" height="364" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/楊奉①-6a7086aaeb127.jpg 1100w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/楊奉①-6a7086aaeb127-300x180.jpg 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/楊奉①-6a7086aaeb127-1024x613.jpg 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/楊奉①-6a7086aaeb127-768x460.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 607px) 100vw, 607px" /></p>
<p>楊奉は、もともと黄巾の乱後に勢力を拡大した白波賊の頭目の一人でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし時代の流れとともに朝廷へ帰順し、</p>
<p>董卓政権崩壊後は李傕・郭汜ら涼州軍の配下として活動します。</p>
<p>乱世を生き抜く中で幾度も立場を変えながらも、後漢王朝の存続に大きく関わった人物の一人でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>興平２年（１９５年）、李傕が樊稠を殺害すると、</p>
<p>涼州軍内部は急速に分裂し、李傕と郭汜は互いに長安で兵を交えるようになります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>当初、楊奉は李傕に味方して郭汜軍を破りましたが、</p>
<p>やがて李傕の専横と残虐な振る舞いに失望し、軍吏の宋果とともに李傕暗殺を計画しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし計画は露見し、楊奉はただちに離反して独自の勢力を率いることになります。</p>
<p>この離反によって李傕の勢力は大きく弱体化し、長安政局はさらに混迷を深めました。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">献帝救出の功臣</span></h4>
<p>興平２年（１９５年）７月、献帝（劉協）が長安を脱出して洛陽への帰還を目指すと、</p>
<p>楊奉は楊定・董承らとともに護衛軍の中心となります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして郭汜軍による夜襲や度重なる追撃を受けながらも、楊奉は奮戦を続けました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>楊奉は旧知の仲にあった白波賊の胡才・李楽・韓暹らを、</p>
<p>去卑（南匈奴の右賢王）らを招集し、彼らと協力して李傕・郭汜軍をなんとか撃退しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>幾度もの激戦を経て献帝はようやく河東へ逃れ、</p>
<p>翌、建安元年（１９６年）には洛陽へ帰還することができました。</p>
<p>この功績によって楊奉は車騎将軍に任じられ、後漢朝廷を支える有力武将の一人となります。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">曹操を招いた男の誤算</span></h4>
<p>戦乱で疲弊した朝廷には十分な兵糧も軍事力もなく、</p>
<p>楊奉・韓暹ら地方軍閥の影響力は日に日に強まっていきました。</p>
<p>とくに韓暹は功績を誇って政治へ介入するようになり、董承ら朝臣は状況を憂慮します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その頃、董昭は楊奉が強兵を有しながら政治的な基盤に乏しいことを見抜き、</p>
<p>「朝廷を支えるには曹操殿の力を借りるべきです」と説きました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>楊奉はこれを受け入れ、自ら曹操を推薦して鎮東将軍・費亭侯への任命を朝廷へ上奏します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>結果として曹操は正式な朝廷の後ろ盾を得て洛陽へ進出し、</p>
<p>「天子を奉じて諸侯に号令する」という後の魏政権成立につながる大きな第一歩を踏み出しました。</p>
<p>皮肉にも、楊奉自身の推薦が曹操躍進の契機となったのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、曹操が献帝を許へ遷都しようとすると、楊奉と韓暹はこれに反発します。</p>
<p>曹操は董昭の献策によって表面上は楊奉を厚遇しながら時間を稼ぎ、遷都を実行しました。</p>
<p>楊奉らは追撃して阻止を試みましたが、陽城山で曹操軍の伏兵に遭って大敗します。</p>
<p>本拠地である梁も失ったことで軍勢は瓦解し、楊奉は韓暹とともに袁術のもとへ身を寄せることとなりました。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">乱世の敗者へ</span></h4>
<p>袁術は呂布討伐のため楊奉・韓暹らを主力として出兵させます。</p>
<p>しかし徐州の陳珪は「楊奉と韓暹は袁術と利害で結び付いただけで、真に心服しているわけではない」と見抜いていました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>実際、呂布は二人へ書状を送り、</p>
<p>「あなた方は天子を救い、私は董卓を討った。</p>
<p>同じく漢室に功ある者同士ではないか。なぜ逆賊である袁術に味方するのか」と説得します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これに心を動かされた楊奉・韓暹は戦場で袁術軍を裏切り、呂布軍に加わりました。</p>
<p>下邳近郊の戦いでは袁術軍を大破し、多くの将を討ち取る戦果を挙げています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、その後の楊奉は各地で兵を率いて略奪を繰り返すようになり、徐州一帯の人々を苦しめました。</p>
<p>当時、呂布に敗れて海西へ退いていた劉備も、楊奉の横暴を看過することはありませんでした。</p>
<p>劉備は楊奉を招いて油断させると、そのまま討ち取りました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>乱世を駆け抜け、献帝救出という大功を立てた楊奉でしたが、</p>
<p>その最期は戦場ではなく、かつての功績も色褪せるような形で幕を閉じたのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>楊奉は決して忠義一筋の人物ではありませんでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、献帝を長安から救い出し、後漢王朝を存続させるために果たした役割は極めて大きく、</p>
<p>正史『後漢書』や正史『三国志』でもその功績は明確に記されています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>一方で、情勢に応じて主君や同盟相手を替え続けた生涯は、</p>
<p>秩序よりも生存が優先された後漢末という時代そのものを象徴していると言えるでしょう。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>陳珪 -徐州を支えた名門の知将-</title>
		<link>https://daisuki-sangokushi.com/2026/07/16/%e9%99%b3%e7%8f%aa-%e5%be%90%e5%b7%9e%e3%82%92%e6%94%af%e3%81%88%e3%81%9f%e5%90%8d%e9%96%80%e3%81%ae%e7%9f%a5%e5%b0%86/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[nekozyarashi]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 15 Jul 2026 22:03:11 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[陳珪]]></category>
		<category><![CDATA[橋蕤]]></category>
		<category><![CDATA[呂布]]></category>
		<category><![CDATA[下邳国]]></category>
		<category><![CDATA[徐州]]></category>
		<category><![CDATA[漢瑜]]></category>
		<category><![CDATA[袁術]]></category>
		<category><![CDATA[陳氏]]></category>
		<category><![CDATA[陶謙]]></category>
		<category><![CDATA[陳亹]]></category>
		<category><![CDATA[陳球]]></category>
		<category><![CDATA[陳登]]></category>
		<category><![CDATA[謀略]]></category>
		<category><![CDATA[離間]]></category>
		<category><![CDATA[名門]]></category>
		<category><![CDATA[韓暹]]></category>
		<category><![CDATA[劉備]]></category>
		<category><![CDATA[楊奉]]></category>
		<category><![CDATA[曹操]]></category>
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					<description><![CDATA[陳珪（ちんけい、字は漢瑜） 陳珪は徐州下邳国淮浦県の出身で、代々高官を輩出した名門・陳氏の一族です。 また陳珪の事績は主に「魏志」陳登伝に残されています。 &#160; 陳珪の一族は、後漢を代表する名家として知られ、「二 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h3><span style="font-size: 18pt;">陳珪（ちんけい、字は漢瑜）</span></h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-16027 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/07/陳珪①-6a5801a855c73.jpg" alt="" width="800" height="450" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/07/陳珪①-6a5801a855c73.jpg 1672w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/07/陳珪①-6a5801a855c73-300x169.jpg 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/07/陳珪①-6a5801a855c73-1024x576.jpg 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/07/陳珪①-6a5801a855c73-768x432.jpg 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/07/陳珪①-6a5801a855c73-1536x864.jpg 1536w" sizes="auto, (max-width: 800px) 100vw, 800px" /></p>
<p>陳珪は徐州下邳国淮浦県の出身で、代々高官を輩出した名門・陳氏の一族です。</p>
<p>また陳珪の事績は主に「魏志」陳登伝に残されています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>陳珪の一族は、後漢を代表する名家として知られ、「二千石」の高官を歴任しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>祖父の<ruby>陳亹<rt>ちんび</rt></ruby>（広漢太守）、伯父の陳球（太尉）をはじめ、</p>
<p>一族には中央・地方で重職を務めた人物が数多くおり、徐州でも屈指の名門として高い名声を誇っていました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>陳珪自身も若くして孝廉に推挙されて劇県令となり、</p>
<p>その後はいったん官職を辞しますが、改めて茂才に推挙され、済北太守を務めたと伝えられています。</p>
<p>その後は沛国の相（国相）となり、地方行政に優れた手腕を発揮しました。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">徐州政局の中心人物</span></h4>
<p>興平元年（１９４年）、徐州牧・陶謙が死去すると、徐州では後継者問題が持ち上がります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このとき陳珪の子・陳登は、孔融らとともに劉備を徐州の新たな指導者として迎えるよう働きかけ、</p>
<p>劉備が徐州を引き継ぐ大きなきっかけを作りました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>陳珪自身が前面に立って推挙したという記録はありませんが、</p>
<p>陳氏一族は劉備の徐州入りを支持した有力勢力の一つであったと考えられています。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">袁術の誘いを拒絶</span></h4>
<p>やがて揚州で勢力を拡大した袁術は、</p>
<p>旧知の仲であった陳珪に書状を送り、自らの陣営へ加わるよう誘いました。</p>
<p>陳珪と袁術はともに名門の出身で、若い頃から交流があったとされます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし陳珪はこれを断り、</p>
<p>「今や天下は天子を奉戴する者のもとへ収まりつつある。私は漢王朝に仕え続ける。」</p>
<p>という趣旨を伝えたと『三国志』は記しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この頃すでに曹操は献帝を許へ迎えており、</p>
<p>陳珪は朝廷を奉じる曹操こそが正統性を持つ勢力であると判断していました。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">呂布と袁術の同盟を阻止</span></h4>
<p>その後、袁術は呂布との同盟を結ぶため、自らの息子と呂布の娘との婚姻を申し込みます。</p>
<p>もし両者が結べば、中原情勢はさらに混乱すると考えた陳珪は、呂布に対して巧みに説得を行いました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>陳珪は、</p>
<ul>
<li>袁術は皇帝を僭称しようとしており信用できないこと</li>
<li>朝廷に背く者と結べば呂布自身の立場も危うくなること</li>
</ul>
<p>を説き、最終的に呂布は婚姻を取りやめています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この結果、袁術は激怒し、張勲らに命じて徐州へ侵攻しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>袁術軍の侵攻を受けると、呂布は</p>
<p>「あなたが袁術を怒らせたせいで攻め込まれてきたではないか。」</p>
<p>と陳珪を責めました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし陳珪は冷静に対応し、</p>
<p>袁術軍内部の事情を巧みに利用して敵軍の士気や連携を乱す策を献じます。</p>
<p>呂布軍はこれを活かして袁術軍を撃退し、徐州は危機を脱しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>派手な武功ではなく、政治力と外交力によって局面を動かしたことは、陳珪の大きな特徴と言えるでしょう。</p>
<table style="border-collapse: collapse; width: 100%;">
<tbody>
<tr>
<td style="width: 100%;"><span style="font-size: 18pt;">-袁術軍を崩壊させた陳珪の離間策-</span></p>
<p>呂布が陳珪の進言を受けて袁術との婚姻を破棄すると、激怒した袁術は報復として大軍を差し向けました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>総大将の張勲をはじめ、橋蕤・韓暹・楊奉らに命じ、</p>
<p>歩騎数万の兵を七方面から進軍させ、徐州の呂布を包囲しようとしたのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これに対し、呂布の兵力はわずか三千、戦馬も四百頭ほどしかなく、兵力差は圧倒的でした。</p>
<p>窮地に立たされた呂布は陳珪へ策を求めます。すると陳珪は、敵軍は決して一枚岩ではないと見抜いていました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>陳珪は、</p>
<p>「韓暹と楊奉は、もともと袁術の家臣ではありません。</p>
<p>利害によって結び付いただけの寄り合い所帯であり、強い忠誠心があるわけではないのです。</p>
<p>彼らを味方に引き入れれば、敵軍は自ら崩れるでしょう。」</p>
<p>と進言しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>呂布はこの献策を採用し、韓暹・楊奉の両名へ書状を送りました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その内容は、</p>
<p>「あなた方はかつて献帝を救い、漢王朝に大功を立てた人物である。</p>
<p>それにもかかわらず、なぜ皇帝を僭称した逆臣・袁術に味方するのか。</p>
<p>私と力を合わせて袁術を討ち、再び漢王朝のために功績を立てようではないか。」</p>
<p>というもので、さらに軍資まで与えて厚遇を約束しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>もともと韓暹と楊奉は献帝を奉じた功臣という自負があり、</p>
<p>皇帝を僭称した袁術に対して心から忠誠を誓っていたわけではありませんでした。</p>
<p>そのため呂布の誘いに応じ、袁術軍を離反します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>こうして連合軍は内部から瓦解し、韓暹・楊奉は呂布軍とともに張勲・橋蕤らへ襲い掛かりました。</p>
<p>不意を突かれた袁術軍は大混乱に陥り、下邳で大敗を喫します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>多くの兵が潰走し、水路へ逃れた兵の中には溺死する者も続出しました。</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h4><span style="font-size: 18pt;">曹操との連携</span></h4>
<p>一方で陳珪は、子の陳登を許へ派遣し、曹操との関係強化を進めました。</p>
<p>曹操は呂布を懐柔するため、左将軍の官位を授けますが、これはあくまで形式的な厚遇でした。</p>
<p>その裏では陳登が曹操と連携し、呂布討伐の機会を探ることになります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>やがて建安３年（１９８年）、曹操は劉備と協力して下邳を包囲し、呂布を滅ぼしました。</p>
<p>陳氏父子は、この一連の外交工作において重要な役割を果たしたとされています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そんな陳珪ですが、いつ亡くなったのかは記録に残されていません。</p>
<p>陳珪は乱世にあっても、終始「漢王朝への忠誠」を政治判断の基準とし、</p>
<p>情勢を冷静に見極める洞察力と優れた外交手腕によって、徐州政局を陰から支えた人物でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>特に袁術・呂布・曹操という三大勢力の思惑が交錯する中で、</p>
<p>それぞれとの関係を巧みに操りながら徐州の安定を図った政治家として、その存在感は決して小さくありません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>また、優れた政治家・軍略家として名高い子の陳登を育てたことでも知られ、</p>
<p>父子はともに徐州を代表する名門・陳氏の名声を後世へ伝える存在となりました。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>公孫瓚 -北方を震わせた「白馬義従」の英傑-</title>
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		<dc:creator><![CDATA[nekozyarashi]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 30 Jun 2026 16:42:14 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[公孫瓚]]></category>
		<category><![CDATA[鮮卑]]></category>
		<category><![CDATA[食糧]]></category>
		<category><![CDATA[張純]]></category>
		<category><![CDATA[籠城]]></category>
		<category><![CDATA[烏桓]]></category>
		<category><![CDATA[劉虞]]></category>
		<category><![CDATA[騎馬]]></category>
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		<category><![CDATA[北方最強]]></category>
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		<category><![CDATA[高楼]]></category>
		<category><![CDATA[名門]]></category>
		<category><![CDATA[建安４年]]></category>
		<category><![CDATA[劉備]]></category>
		<category><![CDATA[１９９年]]></category>
		<category><![CDATA[魯粛]]></category>
		<category><![CDATA[自害]]></category>
		<category><![CDATA[袁紹]]></category>
		<category><![CDATA[疑心暗鬼]]></category>
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					<description><![CDATA[公孫瓚（こうそんさん、字：伯珪） 公孫瓚は、後漢末期の北方を代表する人物の一人です。 異民族との戦いで名声を築き、精鋭騎兵「白馬義従」を率いて天下にその武名を轟かせました。 &#160; しかし、その一方で苛烈な性格や独 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h3><span style="font-size: 18pt;">公孫瓚（こうそんさん、字：伯珪）</span></h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-15971 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/07/公孫瓚①-6a43f3225aa96.jpg" alt="" width="800" height="450" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/07/公孫瓚①-6a43f3225aa96.jpg 1672w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/07/公孫瓚①-6a43f3225aa96-300x169.jpg 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/07/公孫瓚①-6a43f3225aa96-1024x576.jpg 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/07/公孫瓚①-6a43f3225aa96-768x432.jpg 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/07/公孫瓚①-6a43f3225aa96-1536x864.jpg 1536w" sizes="auto, (max-width: 800px) 100vw, 800px" /></p>
<p>公孫瓚は、後漢末期の北方を代表する人物の一人です。</p>
<p>異民族との戦いで名声を築き、精鋭騎兵「白馬義従」を率いて天下にその武名を轟かせました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、その一方で苛烈な性格や独善的な政治によって多くの人心を失い、</p>
<p>最後は袁紹との長い戦いに敗れ、自ら命を絶つことになります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>武勇・戦術眼は一流でありながら、政治力と人心掌握に欠けた人物だと言えるでしょう。</p>
<table style="border-collapse: collapse; width: 100%;">
<tbody>
<tr>
<td style="width: 100%;"><span style="font-size: 14pt;">長所</span></p>
<ul>
<li>卓越した騎兵運用能力</li>
<li>異民族討伐の第一人者</li>
<li>勇猛果敢な指揮官</li>
<li>決断力に優れる</li>
<li>白馬義従を育て上げた軍事的才能</li>
</ul>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 14pt;">短所</span></p>
<ul>
<li>人を疑いやすい</li>
<li>豪族や名士を軽視した</li>
<li>政治手腕に乏しい</li>
<li>劉虞を殺害し人望を失った</li>
<li>晩年は猜疑心が強まり組織が崩壊した</li>
</ul>
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>&nbsp;</p>
<p>そんな公孫瓚ですが、公孫家は代々高官を輩出した名門でした。</p>
<p>しかし、公孫瓚は母の身分が低かったため、一族の中では決して恵まれた立場ではありませんでした。</p>
<p>それでも非常に聡明で弁舌に優れ、容姿も整っていたと伝えられています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>若くして太守侯氏に見込まれ、その娘婿となったことで、</p>
<p>当代随一の名儒である盧植の門下に入り、経学と兵法を学びました。</p>
<p>この時の学友には、後に蜀漢を建国する劉備もいたとされています。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">北方最強と恐れられた騎兵軍団「白馬義従」</span></h4>
<p>公孫瓚最大の象徴が、「白馬義従（はくばぎじゅう）」です。</p>
<p>異民族との戦いを重ねる中で、公孫瓚は騎射に優れた兵士だけを選抜し、すべて白馬に乗せて精鋭部隊を編成しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>白馬は草原でも非常によく目立つため、敵に対する威圧効果は絶大でした。</p>
<p>その勇猛さから異民族は公孫瓚を「白馬長史」と恐れたと伝えられています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>白馬義従は三国時代を代表する精鋭騎兵として高く評価される部隊の一つでしょう。</p>
<blockquote class="wp-embedded-content" data-secret="2YNBA6Xrxv"><p><a href="https://daisuki-sangokushi.com/2020/02/11/%e5%85%ac%e5%ad%ab%e7%93%9a%e3%81%8c%e7%8e%87%e3%81%84%e3%81%9f%e7%99%bd%e9%a6%ac%e9%9a%8a%e3%80%8c%e7%99%bd%e9%a6%ac%e7%be%a9%e5%be%93%e3%80%8d%e3%81%ae%e6%a0%84%e6%9e%af%e7%9b%9b%e8%a1%b0/">公孫瓚が率いた白馬隊「白馬義従」の栄枯盛衰</a></p></blockquote>
<p><iframe loading="lazy" class="wp-embedded-content" sandbox="allow-scripts" security="restricted"  title="&#8220;公孫瓚が率いた白馬隊「白馬義従」の栄枯盛衰&#8221; &#8212; なんでも三国志" src="https://daisuki-sangokushi.com/2020/02/11/%e5%85%ac%e5%ad%ab%e7%93%9a%e3%81%8c%e7%8e%87%e3%81%84%e3%81%9f%e7%99%bd%e9%a6%ac%e9%9a%8a%e3%80%8c%e7%99%bd%e9%a6%ac%e7%be%a9%e5%be%93%e3%80%8d%e3%81%ae%e6%a0%84%e6%9e%af%e7%9b%9b%e8%a1%b0/embed/#?secret=YzlCGPbqbz#?secret=2YNBA6Xrxv" data-secret="2YNBA6Xrxv" width="500" height="282" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no"></iframe></p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">異民族討伐で築いた武名</span></h4>
<p>公孫瓚は若い頃から、</p>
<ul>
<li>鮮卑</li>
<li>烏桓</li>
<li>張純の乱</li>
</ul>
<p>など北方の戦乱で常に先頭に立ち、多くの戦功を挙げました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>特に張純討伐では、捕らえられていた住民を救出し、</p>
<p>そのまま長城を越えて敵軍を追撃するという大胆な作戦を敢行しています。</p>
<p>この頃の公孫瓚は勇猛果敢な将軍として朝廷からも高く評価されました。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">劉虞との対立</span></h4>
<p>幽州牧劉虞は、</p>
<p>武力ではなく「徳」と「外交」によって異民族を服従させようと考えていました。</p>
<p>一方、公孫瓚は「異民族は武力で抑えるべきだ」という考えを持っていました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この統治理念の違いが、二人の決定的な対立を生みます。</p>
<p>やがて公孫瓚は軍事行動によって劉虞を破り、捕らえた後に処刑してしまいました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、仁徳で知られた劉虞を殺害したことで、多くの豪族・民衆・異民族の支持を失うことになります。</p>
<p>これが後の没落へと繋がる大きな転機となりました。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">河北の覇権を懸けた袁紹との戦い</span></h4>
<p>河北統一を目指す袁紹と、公孫瓚は激しく衝突します。</p>
<p>世にいう界橋の戦いです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この戦いでは、</p>
<p>公孫瓚は</p>
<ul>
<li>歩兵約三万人<br />
騎兵約一万人</li>
</ul>
<p>という大軍を率いました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし袁紹軍の名将・麴義が、強弩兵と重装歩兵を巧みに運用し、白馬義従を撃破に成功します。</p>
<p>公孫瓚は大敗を喫し、河北制覇への道は大きく閉ざされました。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">易京に築いた巨大要塞</span></h4>
<p>敗戦後、公孫瓚は易京に巨大な城塞を築きます。</p>
<p>そこには</p>
<ul>
<li>多重城壁</li>
<li>十年分ともいわれる兵糧</li>
<li>高楼による防衛施設</li>
</ul>
<p>などが整備されていました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>公孫瓚は「城を守り続ければ天下の形勢はいずれ変わる」と考え、徹底した籠城戦を選択します。</p>
<p>しかし長期籠城は部下との距離を広げる結果にもなりました。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">晩年 -疑心暗鬼が招いた崩壊-</span></h4>
<p>晩年の公孫瓚は、人を信じられなくなります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>側近との面会を避け、文書は縄で吊り上げ、</p>
<p>命令は高楼から女性に大声で伝えさせるという異例の体制を築きました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>さらに、「一人を救援すると他の将も救援を期待する」という理由から、</p>
<p>包囲された味方を見捨てることもありました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この判断は軍の士気を著しく低下させ、多くの部将が離反する原因となります。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">公孫瓚の最期</span></h4>
<p>建安４年（１９９年）、袁紹軍は地下道を掘り進め、ついに易京を攻略しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>公孫瓚は最後まで抵抗しましたが、勝利は望めないと悟ると、</p>
<p>妻子を自ら手にかけ、城に火を放って自害しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>こうして北方で大きな勢力を誇っていた公孫瓚は、その生涯を閉じたのでした。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>ラーメン屋バトウ</title>
		<link>https://daisuki-sangokushi.com/2025/11/23/%e3%83%a9%e3%83%bc%e3%83%a1%e3%83%b3%e5%b1%8b%e3%83%90%e3%83%88%e3%82%a6/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[nekozyarashi]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 23 Nov 2025 14:58:25 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[馬騰]]></category>
		<category><![CDATA[雑記]]></category>
		<category><![CDATA[漫画]]></category>
		<category><![CDATA[ラーメン屋バトウ]]></category>
		<category><![CDATA[ラーメン]]></category>
		<category><![CDATA[三国志大戦]]></category>
		<category><![CDATA[同人誌]]></category>
		<category><![CDATA[ビクトリアTAKA]]></category>
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					<description><![CDATA[ラーメン屋バトウ ラーメン屋バトウ（５P・６P）より画像引用 &#160; ビクトリアTAKAさんが書かれた三国志大戦関連本のようですが、おそらく同人誌だと思います。 &#160; 本の内容としては非常に少ないページ（表 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-14984 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2025/11/ラーメン屋バトウ.jpg" alt="" width="680" height="932" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2025/11/ラーメン屋バトウ.jpg 623w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2025/11/ラーメン屋バトウ-219x300.jpg 219w" sizes="auto, (max-width: 680px) 100vw, 680px" /></p>
<h3><span style="font-size: 18pt;">ラーメン屋バトウ</span></h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-14988 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2025/11/バトウ①①-69231ade446f4.jpg" alt="" width="679" height="964" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2025/11/バトウ①①-69231ade446f4.jpg 649w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2025/11/バトウ①①-69231ade446f4-211x300.jpg 211w" sizes="auto, (max-width: 679px) 100vw, 679px" /></p>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-14989 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2025/11/バトウ②②-69231aeaba7a0.jpg" alt="" width="678" height="956" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2025/11/バトウ②②-69231aeaba7a0.jpg 632w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2025/11/バトウ②②-69231aeaba7a0-213x300.jpg 213w" sizes="auto, (max-width: 678px) 100vw, 678px" /></p>
<p><span style="font-size: 10pt;">ラーメン屋バトウ（５P・６P）より画像引用</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ビクトリアTAKAさんが書かれた三国志大戦関連本のようですが、おそらく同人誌だと思います。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>本の内容としては非常に少ないページ（表裏表紙込みで２４P）ではありましたが、</p>
<p>著者が色々とノリで作られたような内容で、読んでて思わずクスっとするような面白さがありましたね。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ちなみに最初に登場する客である閻行は韓遂の配下であり、</p>
<p>正史（裴松之注）では、馬超に一騎打ちで勝利したという記録が残る人物であったりします。</p>
<table style="border-collapse: collapse; width: 100%;">
<tbody>
<tr>
<td style="width: 100%;">
<ul>
<li><span class="css-1jxf684 r-bcqeeo r-1ttztb7 r-qvutc0 r-1tl8opc">「魏志」張既伝（裴松之注「魏略」）→馬超VS閻行（閻行の勝利）</span></li>
<li><span class="css-1jxf684 r-bcqeeo r-1ttztb7 r-qvutc0 r-1tl8opc">「魏志」呂布伝（裴松之注「英雄論」）→呂布VS郭汜（呂布の勝利）</span></li>
<li><span class="css-1jxf684 r-bcqeeo r-1ttztb7 r-qvutc0 r-1tl8opc">「呉志」太史慈伝→孫策VS</span><span class="css-1jxf684 r-bcqeeo r-1ttztb7 r-qvutc0 r-1tl8opc r-b88u0q">太</span><span class="css-1jxf684 r-bcqeeo r-1ttztb7 r-qvutc0 r-1tl8opc r-b88u0q">史</span><span class="css-1jxf684 r-bcqeeo r-1ttztb7 r-qvutc0 r-1tl8opc r-b88u0q">慈</span><span class="css-1jxf684 r-bcqeeo r-1ttztb7 r-qvutc0 r-1tl8opc">（未決着→引き分け）</span></li>
</ul>
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>&nbsp;</p>
<p>読み足りない気持ちと同様に、短編だからこそよかったような気がする本です。</p>
<p>偶然にも入手する機会がありましたので、紹介してみました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ただ古い本（２００７年１１月発売）であり、制作数が少ない同人誌という事もあり、</p>
<p>今では入手が難しい本だとは思いますが、目にする機会があれば一読してみるのも一興かもしれません。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
	</channel>
</rss>
