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	<title>下邳国 &#8211; なんでも三国志</title>
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	<title>下邳国 &#8211; なんでも三国志</title>
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	<item>
		<title>陳珪 -徐州を支えた名門の知将-</title>
		<link>https://daisuki-sangokushi.com/2026/07/16/%e9%99%b3%e7%8f%aa-%e5%be%90%e5%b7%9e%e3%82%92%e6%94%af%e3%81%88%e3%81%9f%e5%90%8d%e9%96%80%e3%81%ae%e7%9f%a5%e5%b0%86/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[nekozyarashi]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 15 Jul 2026 22:03:11 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[陳珪]]></category>
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					<description><![CDATA[陳珪（ちんけい、字は漢瑜） 陳珪は徐州下邳国淮浦県の出身で、代々高官を輩出した名門・陳氏の一族です。 また陳珪の事績は主に「魏志」陳登伝に残されています。 &#160; 陳珪の一族は、後漢を代表する名家として知られ、「二 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h3><span style="font-size: 18pt;">陳珪（ちんけい、字は漢瑜）</span></h3>
<p><img fetchpriority="high" decoding="async" class=" wp-image-16027 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/07/陳珪①-6a5801a855c73.jpg" alt="" width="800" height="450" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/07/陳珪①-6a5801a855c73.jpg 1672w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/07/陳珪①-6a5801a855c73-300x169.jpg 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/07/陳珪①-6a5801a855c73-1024x576.jpg 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/07/陳珪①-6a5801a855c73-768x432.jpg 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/07/陳珪①-6a5801a855c73-1536x864.jpg 1536w" sizes="(max-width: 800px) 100vw, 800px" /></p>
<p>陳珪は徐州下邳国淮浦県の出身で、代々高官を輩出した名門・陳氏の一族です。</p>
<p>また陳珪の事績は主に「魏志」陳登伝に残されています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>陳珪の一族は、後漢を代表する名家として知られ、「二千石」の高官を歴任しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>祖父の<ruby>陳亹<rt>ちんび</rt></ruby>（広漢太守）、伯父の陳球（太尉）をはじめ、</p>
<p>一族には中央・地方で重職を務めた人物が数多くおり、徐州でも屈指の名門として高い名声を誇っていました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>陳珪自身も若くして孝廉に推挙されて劇県令となり、</p>
<p>その後はいったん官職を辞しますが、改めて茂才に推挙され、済北太守を務めたと伝えられています。</p>
<p>その後は沛国の相（国相）となり、地方行政に優れた手腕を発揮しました。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">徐州政局の中心人物</span></h4>
<p>興平元年（１９４年）、徐州牧・陶謙が死去すると、徐州では後継者問題が持ち上がります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このとき陳珪の子・陳登は、孔融らとともに劉備を徐州の新たな指導者として迎えるよう働きかけ、</p>
<p>劉備が徐州を引き継ぐ大きなきっかけを作りました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>陳珪自身が前面に立って推挙したという記録はありませんが、</p>
<p>陳氏一族は劉備の徐州入りを支持した有力勢力の一つであったと考えられています。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">袁術の誘いを拒絶</span></h4>
<p>やがて揚州で勢力を拡大した袁術は、</p>
<p>旧知の仲であった陳珪に書状を送り、自らの陣営へ加わるよう誘いました。</p>
<p>陳珪と袁術はともに名門の出身で、若い頃から交流があったとされます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし陳珪はこれを断り、</p>
<p>「今や天下は天子を奉戴する者のもとへ収まりつつある。私は漢王朝に仕え続ける。」</p>
<p>という趣旨を伝えたと『三国志』は記しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この頃すでに曹操は献帝を許へ迎えており、</p>
<p>陳珪は朝廷を奉じる曹操こそが正統性を持つ勢力であると判断していました。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">呂布と袁術の同盟を阻止</span></h4>
<p>その後、袁術は呂布との同盟を結ぶため、自らの息子と呂布の娘との婚姻を申し込みます。</p>
<p>もし両者が結べば、中原情勢はさらに混乱すると考えた陳珪は、呂布に対して巧みに説得を行いました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>陳珪は、</p>
<ul>
<li>袁術は皇帝を僭称しようとしており信用できないこと</li>
<li>朝廷に背く者と結べば呂布自身の立場も危うくなること</li>
</ul>
<p>を説き、最終的に呂布は婚姻を取りやめています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この結果、袁術は激怒し、張勲らに命じて徐州へ侵攻しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>袁術軍の侵攻を受けると、呂布は</p>
<p>「あなたが袁術を怒らせたせいで攻め込まれてきたではないか。」</p>
<p>と陳珪を責めました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし陳珪は冷静に対応し、</p>
<p>袁術軍内部の事情を巧みに利用して敵軍の士気や連携を乱す策を献じます。</p>
<p>呂布軍はこれを活かして袁術軍を撃退し、徐州は危機を脱しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>派手な武功ではなく、政治力と外交力によって局面を動かしたことは、陳珪の大きな特徴と言えるでしょう。</p>
<table style="border-collapse: collapse; width: 100%;">
<tbody>
<tr>
<td style="width: 100%;"><span style="font-size: 18pt;">-袁術軍を崩壊させた陳珪の離間策-</span></p>
<p>呂布が陳珪の進言を受けて袁術との婚姻を破棄すると、激怒した袁術は報復として大軍を差し向けました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>総大将の張勲をはじめ、橋蕤・韓暹・楊奉らに命じ、</p>
<p>歩騎数万の兵を七方面から進軍させ、徐州の呂布を包囲しようとしたのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これに対し、呂布の兵力はわずか三千、戦馬も四百頭ほどしかなく、兵力差は圧倒的でした。</p>
<p>窮地に立たされた呂布は陳珪へ策を求めます。すると陳珪は、敵軍は決して一枚岩ではないと見抜いていました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>陳珪は、</p>
<p>「韓暹と楊奉は、もともと袁術の家臣ではありません。</p>
<p>利害によって結び付いただけの寄り合い所帯であり、強い忠誠心があるわけではないのです。</p>
<p>彼らを味方に引き入れれば、敵軍は自ら崩れるでしょう。」</p>
<p>と進言しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>呂布はこの献策を採用し、韓暹・楊奉の両名へ書状を送りました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その内容は、</p>
<p>「あなた方はかつて献帝を救い、漢王朝に大功を立てた人物である。</p>
<p>それにもかかわらず、なぜ皇帝を僭称した逆臣・袁術に味方するのか。</p>
<p>私と力を合わせて袁術を討ち、再び漢王朝のために功績を立てようではないか。」</p>
<p>というもので、さらに軍資まで与えて厚遇を約束しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>もともと韓暹と楊奉は献帝を奉じた功臣という自負があり、</p>
<p>皇帝を僭称した袁術に対して心から忠誠を誓っていたわけではありませんでした。</p>
<p>そのため呂布の誘いに応じ、袁術軍を離反します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>こうして連合軍は内部から瓦解し、韓暹・楊奉は呂布軍とともに張勲・橋蕤らへ襲い掛かりました。</p>
<p>不意を突かれた袁術軍は大混乱に陥り、下邳で大敗を喫します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>多くの兵が潰走し、水路へ逃れた兵の中には溺死する者も続出しました。</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h4><span style="font-size: 18pt;">曹操との連携</span></h4>
<p>一方で陳珪は、子の陳登を許へ派遣し、曹操との関係強化を進めました。</p>
<p>曹操は呂布を懐柔するため、左将軍の官位を授けますが、これはあくまで形式的な厚遇でした。</p>
<p>その裏では陳登が曹操と連携し、呂布討伐の機会を探ることになります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>やがて建安３年（１９８年）、曹操は劉備と協力して下邳を包囲し、呂布を滅ぼしました。</p>
<p>陳氏父子は、この一連の外交工作において重要な役割を果たしたとされています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そんな陳珪ですが、いつ亡くなったのかは記録に残されていません。</p>
<p>陳珪は乱世にあっても、終始「漢王朝への忠誠」を政治判断の基準とし、</p>
<p>情勢を冷静に見極める洞察力と優れた外交手腕によって、徐州政局を陰から支えた人物でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>特に袁術・呂布・曹操という三大勢力の思惑が交錯する中で、</p>
<p>それぞれとの関係を巧みに操りながら徐州の安定を図った政治家として、その存在感は決して小さくありません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>また、優れた政治家・軍略家として名高い子の陳登を育てたことでも知られ、</p>
<p>父子はともに徐州を代表する名門・陳氏の名声を後世へ伝える存在となりました。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>魯粛 -孫権に進むべき道を示した大戦略家-</title>
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		<dc:creator><![CDATA[nekozyarashi]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 06 Oct 2019 06:34:06 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[魯粛]]></category>
		<category><![CDATA[袁術]]></category>
		<category><![CDATA[漢王朝再興]]></category>
		<category><![CDATA[厳畯]]></category>
		<category><![CDATA[下邳国]]></category>
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		<category><![CDATA[孫権]]></category>
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		<category><![CDATA[単刀赴会]]></category>
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		<category><![CDATA[徐州]]></category>
		<category><![CDATA[天下三分]]></category>
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					<description><![CDATA[魯粛（ろしゅく、字：子敬） 魯粛は後漢末から三国時代初期にかけて活躍した呉の政治家・軍略家です。 &#160; 『三国志演義』では、お人好しで諸葛亮に翻弄される人物として描かれることが多いですが、 正史『三国志』における [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h3><span style="font-size: 18pt;">魯粛（ろしゅく、字：子敬）</span></h3>
<p><img decoding="async" class=" wp-image-15822 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/魯粛-6a3a6ebd7d72a.jpg" alt="" width="800" height="450" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/魯粛-6a3a6ebd7d72a.jpg 1672w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/魯粛-6a3a6ebd7d72a-300x169.jpg 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/魯粛-6a3a6ebd7d72a-1024x576.jpg 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/魯粛-6a3a6ebd7d72a-768x432.jpg 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/魯粛-6a3a6ebd7d72a-1536x864.jpg 1536w" sizes="(max-width: 800px) 100vw, 800px" /></p>
<p>魯粛は後漢末から三国時代初期にかけて活躍した呉の政治家・軍略家です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>『三国志演義』では、お人好しで諸葛亮に翻弄される人物として描かれることが多いですが、</p>
<p>正史『三国志』における魯粛は全く異なります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>むしろ周瑜と並び、孫権政権の国家戦略を築いた最重要人物の一人であり、</p>
<p>「天下三分→天下二分→天下統一」の構想を最も早い段階で孫権に示した先見の明ある政治家でした。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">若き日の魯粛</span></h4>
<p>魯粛は徐州の名門ではなく、徐州下邳国東城県の豪族の家に生まれました。</p>
<p>若くして父を失いましたが、魯家は莫大な財産を持っており、生活に困ることはありませんでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし魯粛は財産を蓄えることに興味を示さず、</p>
<ul>
<li>飢えた人々を救済する</li>
<li>困窮した者へ金銭を与える</li>
<li>各地の名士と交友する</li>
</ul>
<p>ことに財を惜しみなく使いました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そのため地元では豪侠として知られるようになります。</p>
<p>また魯粛は単なる学者ではなく、剣術・弓術・騎射にも優れていました。</p>
<p>さらに兵法を好み、戦略や国家経営について研究していたと伝えられています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>周囲からは常識外れの大人物という意味で、「魯家の狂児」と呼ばれていました。</p>
<p>これは蔑称というより、凡人離れした人物への評価でした。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">周瑜との出会い</span></h4>
<p>魯粛の人生を大きく変えたのが周瑜との出会いです。</p>
<p>若き日の周瑜は袁術配下として活動していましたが、兵糧不足に悩まされることがありました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そこで周瑜は魯粛に援助を求めます。</p>
<p>当時魯粛の家には大きな穀物倉が二つありました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>周瑜の頼みを聞くと魯粛は、「一つ持って行ってください」と言って倉一つ分の穀物をそのまま与えました。</p>
<p>半分ではなく、倉一つ丸ごと譲ったという記録です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>周瑜はその器量に深く感服し、以後二人は生涯の友人となりました。</p>
<h3><span style="font-size: 18pt;">袁術を見限る</span></h3>
<p>当初の魯粛は袁術のもとに身を寄せていました。</p>
<p>しかし袁術は皇帝を僭称するなど次第に暴走していきます。</p>
<p>魯粛は袁術に将来性がないと見抜きました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その後、周瑜の勧めもあって江東へ向かうことを決意します。</p>
<p>この時、故郷の若者たち数百人が魯粛に従いました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>道中で役人に行く手を阻まれた際には、魯粛は弓を構え、</p>
<p>さらに盾を射抜いて実力を示したため、役人たちは恐れて退散したと伝えられています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この逸話からも魯粛が単なる文人ではなく、武勇も兼ね備えた人物だったことがわかります。</p>
<h3><span style="font-size: 18pt;">孫権との運命的な対話 （榻上策）</span></h3>
<p>建安５年（２００年）、孫策が急死すると弟の孫権が後を継ぎます。</p>
<p>周瑜は、「天下の大事を相談するなら魯粛以上の人物はいない」として孫権に推薦しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>孫権は魯粛と対面すると、他の者を退けて二人だけで語り合います。</p>
<p>この時に示された国家戦略が有名な「榻上策（とうじょうさく）」です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>魯粛は孫権に対し、</p>
<ol>
<li>漢王朝の再興は不可能</li>
<li>曹操を短期間で倒すことも不可能</li>
<li>江東を固めるべき</li>
<li>荊州を確保すべき（劉表討伐）</li>
<li>さらに益州を視野に入れるべき</li>
<li>いずれ北方と対抗する体制を築くべき</li>
</ol>
<p>と進言しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>魯粛は暗に、孫氏は漢王朝の臣下として終わるべきではないという考えを示していました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>後世、「天下三分の計」として有名になる構想を、</p>
<p>諸葛亮よりも早い段階で持っていたのが魯粛だったわけです。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">赤壁の戦い最大の功労者の一人</span></h4>
<p>建安１３年（２０８年）、曹操が南下すると呉では降伏論が広がりました。</p>
<p>筆頭は張昭です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この時魯粛はただ一人、曹操と戦うべきだと主張しました。</p>
<p>さらに孫権に対して有名な言葉を述べています。</p>
<table style="border-collapse: collapse; width: 100%;">
<tbody>
<tr>
<td style="width: 100%;">私は降伏しても官職を失うだけですが、</p>
<p>孫権様は降伏すれば一介の臣下になります。</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>&nbsp;</p>
<p>この言葉は孫権の決断を後押ししました。</p>
<p>また魯粛は自ら荊州へ赴き、劉備との同盟を成立させています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>赤壁の勝利は、</p>
<ul>
<li>周瑜の軍事指揮</li>
<li>魯粛の外交交渉</li>
</ul>
<p>この両輪によって実現したものでした。</p>
<h3><span style="font-size: 18pt;">関羽との「単刀赴会」</span></h3>
<p><img decoding="async" class=" wp-image-15785 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2018/10/魯粛と関羽①-6a385cba39075.jpg" alt="" width="800" height="450" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2018/10/魯粛と関羽①-6a385cba39075.jpg 1672w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2018/10/魯粛と関羽①-6a385cba39075-300x169.jpg 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2018/10/魯粛と関羽①-6a385cba39075-1024x576.jpg 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2018/10/魯粛と関羽①-6a385cba39075-768x432.jpg 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2018/10/魯粛と関羽①-6a385cba39075-1536x864.jpg 1536w" sizes="(max-width: 800px) 100vw, 800px" /></p>
<p>演義で有名な「単刀赴会」は大きく脚色されています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>正史では主役は関羽ではなく魯粛です。</p>
<p>荊州問題で対立していた呉と蜀は会談を行いました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>関羽は武装した兵を率いて現れます。</p>
<p>しかし魯粛は全く怯まず、当初の約束では荊州は返還されるはずでしたと正面から追及しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>さらに関羽の部下が話を逸らそうとすると、魯粛はその場で論破しており、</p>
<p>魯粛の方が堂々としていたと正史には記録されています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>なお、この会談によって直ちに荊州返還が実現したわけではなく、</p>
<p>その後の交渉の結果、長沙・桂陽・零陵の三郡が孫権へ返還されました。</p>
<h3><span style="font-size: 18pt;">孫権からの絶大な信頼</span></h3>
<p>魯粛はしばしば周囲から批判されました。</p>
<p>張昭ら保守派は、魯粛は大言壮語が過ぎると考えていました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし孫権だけは違いました。</p>
<p>ある時、厳畯が魯粛を過大評価し過ぎではないかと問うと、孫権はこう答えています。</p>
<ul>
<li>魯粛は漢王朝の限界を見抜いていた。</li>
<li>彼の言葉は一貫している。</li>
</ul>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして光武帝を補佐した鄧禹になぞらえて、</p>
<p>「魯粛は私にとっての鄧禹である」と高く評価しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>赤壁戦後、魯粛が帰還すると孫権は自ら出迎えます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そこで孫権は、</p>
<p>「私が馬の手綱を取って迎えれば功績に報いたことになるか？」</p>
<p>と冗談交じりに尋ねました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>すると魯粛は、「それでは足りません」と答えます。</p>
<p>周囲が驚く中、魯粛はさらに、</p>
<p>「将来、天下を治める立場となり、</p>
<p>私を特別な車で迎えてくださるなら報われます」と述べました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これは自らの出世を望んだのではなく、</p>
<p>孫権が帝業を成し遂げることこそ自身の理想だという意味であり、</p>
<p>孫権はこれを聞いて大いに喜んだと伝えられています。</p>
<h3><span style="font-size: 18pt;">魯粛の最期と評価</span></h3>
<p>建安２２年（２１７年）、魯粛は４６歳で病死しました。</p>
<p>後任には呂蒙が任命されます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>魯粛の死を孫権は深く悲しみました。</p>
<p>後に２２９年、孫権が皇帝に即位した際、</p>
<p>「魯粛は早くから今日のことを見通していた」と語っています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>『三国志演義』では諸葛亮を引き立てるために温厚なお人好しとして描かれましたが、</p>
<p>正史の魯粛はむしろ孫権政権の進路を決定づけた大戦略家であり、周瑜と並ぶ呉建国の最大功臣の一人と評価されています。</p>
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