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	<title>蒋済 &#8211; なんでも三国志</title>
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	<title>蒋済 &#8211; なんでも三国志</title>
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		<title>蒋済 -曹魏三代を支えた「諫言の名臣」-</title>
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		<dc:creator><![CDATA[nekozyarashi]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 26 Jul 2026 01:19:38 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[蒋済]]></category>
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					<description><![CDATA[蔣済（しょうさい、字：子通）  三国時代の魏には、司馬懿や賈詡や劉曄といった知略に優れた人物が数多く活躍しました。 その中でも、派手な武功よりも卓越した政治判断と先見性によって国家を支え続けたのが蒋済になります。 &#038;nb [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h3><span style="font-size: 18pt;">蔣済（しょうさい、字：子通） </span></h3>
<p><img fetchpriority="high" decoding="async" class=" wp-image-16087 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/07/蒋済②-6a655ee277fbd.jpg" alt="" width="764" height="510" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/07/蒋済②-6a655ee277fbd.jpg 1800w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/07/蒋済②-6a655ee277fbd-300x200.jpg 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/07/蒋済②-6a655ee277fbd-1024x683.jpg 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/07/蒋済②-6a655ee277fbd-768x512.jpg 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/07/蒋済②-6a655ee277fbd-1536x1024.jpg 1536w" sizes="(max-width: 764px) 100vw, 764px" /></p>
<p>三国時代の魏には、司馬懿や賈詡や劉曄といった知略に優れた人物が数多く活躍しました。</p>
<p>その中でも、派手な武功よりも卓越した政治判断と先見性によって国家を支え続けたのが蒋済になります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>蔣済は徐州広陵郡の出身で、若い頃から行政官として才能を発揮しました。</p>
<p>九江郡の計吏を務めた後、丹楊太守や揚州別駕などを歴任し、地方行政に精通した官僚として頭角を現します。</p>
<p>後に曹操・曹丕・曹叡・曹芳の四代に仕え、政治・軍事の両面で重きをなす存在となりました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その功績は決して華々しい戦場での武勇ではありません。</p>
<p>しかし、危機を未然に防ぐ洞察力、君主に対しても臆することなく諫言する忠誠心、</p>
<p>そして国家全体を見渡す戦略眼は、魏を代表する名臣の一人に数えられるほどでした。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">合肥を救った「一通の偽書」</span></h4>
<p>建安１３年（２０８年）、</p>
<p>孫権は十万を超える兵を率いて合肥を包囲しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>当時の曹操は荊州方面で劉備討伐を進めており、</p>
<p>しかも軍中では疫病が流行していたため、大軍を救援へ向かわせる余裕がありませんでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そこで曹操は張喜（張憙）に千騎を率いさせて援軍に向かわせますが（唯遣将軍張喜単将千騎）、</p>
<p>その兵も病に苦しみ、到底孫権軍と戦える戦力ではありませんでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この絶望的な状況の中で活躍したのが蔣済です。</p>
<p>蔣済は「四万の援軍が到着した」と記した偽の書状を作成し、あえて敵軍の目に触れるよう計画しました。</p>
<p>三組の使者を送り、一組だけを城内へ到着させ、残る二組は孫権軍に捕らえられるよう仕向けます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>孫権は奪った書状を読み、大軍の援軍が目前まで迫っていると誤認しました。</p>
<p>その結果、包囲陣を自ら焼き払い、急ぎ撤退します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>一振りの剣ではなく、一通の書状によって十万の敵軍を退却させたこの策は、</p>
<p>蔣済の知略を象徴する逸話として「魏志」蒋済伝にも記されています。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">民衆を思う政治家</span></h4>
<p>建安１４年（２０９年）、曹操は淮南地方の住民を内地へ移住させようと計画し、蔣済へ意見を求めました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>蔣済は静かに反対します。</p>
<p>「人は誰しも故郷を愛しております。</p>
<p>無理に移住させれば、人心は離れてしまうでしょう。」</p>
<p>しかし曹操は計画を実行しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>結果は蔣済の予想どおりでした。</p>
<p>十万を超える住民が故郷を捨てることを嫌い、そのまま孫権のもとへ逃亡してしまったのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>後日、曹操は苦笑しながら、</p>
<p>「敵から守るつもりが、かえって敵へ送り届けてしまった。」</p>
<p>と、自らの失策を認めたと伝えられています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>蔣済は軍略家であると同時に、人々の心を理解した政治家でもありました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">関羽討伐を成功へ導いた献策</span></h4>
<p>建安２４年（２１９年）、</p>
<p>関羽は樊城・襄陽を包囲し、曹操軍は存亡の危機に立たされます。</p>
<p>一時は献帝を擁する許都の遷都まで議論されるほどでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この時、蔣済は司馬懿とともに重要な次のような進言を行います。</p>
<table style="border-collapse: collapse; width: 100%;">
<tbody>
<tr>
<td style="width: 100%;">「孫権へ使者を送り、関羽の背後を突かせるべきです。</p>
<p>その見返りとして長江以南の領有を認めれば、必ず動くでしょう。」</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹操はこの策を採用しました。</p>
<p>孫権は呂蒙を総司令官として荊州へ侵攻し、関羽は孤立して敗北・捕縛されます。</p>
<p>荊州が呉の手に渡った背景には、蔣済と司馬懿による外交戦略が存在していたのです。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">皇帝にも臆さぬ諫臣</span></h4>
<p><img decoding="async" class=" wp-image-14070 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2023/03/法鳳.png" alt="" width="392" height="437" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2023/03/法鳳.png 700w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2023/03/法鳳-269x300.png 269w" sizes="(max-width: 392px) 100vw, 392px" /></p>
<p>曹丕が皇帝となると、蔣済は中央へ召され、政治論である『万機論』を献上しました。</p>
<p>その見識は高く評価され、散騎常侍に抜擢されます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ある時、曹丕は夏侯尚へ部下の賞罰を自由に決定する特権を与えました。</p>
<p>多くの臣下が沈黙する中、蔣済だけは異を唱えます。</p>
<p>「賞罰は天子だけが行うものです。臣下へ委ねれば国家の秩序が乱れます。」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>『尚書』を引用しながら理路整然と諫めると、曹丕も怒りを収め、その詔を取り消しました。</p>
<p>君主の機嫌より国家の制度を優先する姿勢は、蔣済が生涯貫いた信念でもありました。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">戦場でも発揮された先見性</span></h4>
<p>黄初３年（２２２年）、魏は大軍を率いて呉へ侵攻します。</p>
<p>翌年、曹仁は濡須口で中洲へ兵を進めようとしましたが、蔣済は危険性を説いて反対しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし曹仁は耳を貸さず、敗北を喫します。</p>
<p>その後、蔣済が後任として軍をまとめることになりました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>さらに広陵遠征では、水路事情を理由に遠征そのものへ反対しましたが、再び採用されません。</p>
<p>案の定、数千隻もの軍船は浅瀬で立ち往生し、大混乱に陥ります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ところが撤退時には蔣済が堤を築き、</p>
<p>水流を利用して軍船を一斉に淮水へ流す工法を考案しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この見事な処置に曹丕は深く感服し、次のような最大の賛辞を送っています。</p>
<table style="border-collapse: collapse; width: 100%;">
<tbody>
<tr>
<td style="width: 100%;">「卿の進言は、いつも朕の心に深く響く。」</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h4><span style="font-size: 18pt;">曹叡を支えた忠臣</span></h4>
<p>曹叡が即位すると、蔣済は中護軍・護軍将軍へ昇進しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>当時は中書監・劉放、中書令・孫資が権勢を振るっていましたが、</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>蔣済は権力を恐れず、</p>
<p>「朝廷では二人の名ばかりが語られております。</p>
<p>公正な政治が行われているか、陛下自らお確かめください」</p>
<p>と上奏します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これに対し曹叡は、</p>
<p>「蔣済こそ国家が頼みとする硬骨の臣である。」</p>
<p>と高く評価しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>景初年間には、宮殿造営や遠征によって民衆が疲弊していることを憂い、</p>
<p>「いま最も大切なのは民を休ませることです」と諫言します。</p>
<p>さらに後宮の拡大を戒め、君主自らが節度を守るよう説きました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹叡は、</p>
<p>「蒋済殿がいなければ、このような忠言を聞くことはできなかった。」</p>
<p>と、その忠誠を称えています。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">正始の政変と晩年</span></h4>
<p>曹芳の代になると、蔣済は太尉にまで昇進し、魏最高位の重臣となりました。</p>
<p>正始１０年（２４９年）１月、司馬懿は曹爽一派を討つ「正始の政変」を決行します。</p>
<p>蔣済も司馬懿に協力し、洛水の浮橋を守備して作戦成功に貢献しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その功績により七百戸の加増と、爵位は都郷侯へ進められましたが、</p>
<p>蔣済は「自分にはそれほどの功績はありません」と恩賞を辞退しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>もっとも、この政変には後味の悪い逸話も残されています。</p>
<p>「魏志」蒋済伝に裴松之注が引用する『魏晋世語（世語）』によれば、</p>
<p>蔣済は曹爽へ「命までは奪われない」と伝え、降伏を勧めたとされます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし実際には曹爽一族は誅殺されました。</p>
<p>蔣済は、自らの言葉が結果として信義を裏切る形になってしまったことを深く悔やみ、</p>
<p>その苦悩のまま病を得て亡くなったとも伝えられています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ただし、この逸話は正史本文ではなく、</p>
<p>『魏晋世語』に記されている逸話であり、史実として断定することはできません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>蔣済は、戦場で派手に活躍するといったような人物ではありませんでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、合肥を救った機転、関羽討伐へつながる外交策、</p>
<p>皇帝に対する率直な諫言、そして民を第一に考えた政治姿勢など、その功績は枚挙にいとまがありません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹操・曹丕・曹叡・曹芳という四代の君主に仕えながら、</p>
<p>一貫して国家全体の利益を考え続けたその姿は、まさに正史『三国志』が伝える理想的な重臣そのものです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>派手さこそありませんが、</p>
<p>蔣済は「先を読み、正しいことを恐れずに語る」という稀有な資質によって、</p>
<p>魏王朝を陰から支え続けた名臣として、今日なお高い評価を受けています。</p>
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			</item>
		<item>
		<title>最後の判断を大きく誤ってしまった桓範</title>
		<link>https://daisuki-sangokushi.com/2024/02/15/%e6%9c%80%e5%be%8c%e3%81%ae%e5%88%a4%e6%96%ad%e3%82%92%e5%a4%a7%e3%81%8d%e3%81%8f%e8%aa%a4%e3%81%a3%e3%81%a6%e3%81%97%e3%81%be%e3%81%a3%e3%81%9f%e6%a1%93%e7%af%84/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[nekozyarashi]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 14 Feb 2024 19:41:01 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[桓範]]></category>
		<category><![CDATA[「魏志」諸夏侯曹伝]]></category>
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		<category><![CDATA[九卿]]></category>
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					<description><![CDATA[桓範（元則）-名家出身- 桓範は豫州沛国の名家の出身であり、 妻は仲長氏という女性で、息子がいたことは分かっているのですが、 何故か息子の名は現在に伝わっていません。 &#160; おそらく何の功績もなく、父親ともどもに [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h3><span style="font-size: 18pt;">桓範（元則）-名家出身-</span></h3>
<p><img decoding="async" class=" wp-image-11969 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2024/02/桓範-高-1.png" alt="" width="716" height="545" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2024/02/桓範-高-1.png 1076w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2024/02/桓範-高-1-300x228.png 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2024/02/桓範-高-1-768x585.png 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2024/02/桓範-高-1-1024x779.png 1024w" sizes="(max-width: 716px) 100vw, 716px" /></p>
<p><span style="font-size: 18pt;">桓範</span>は<span style="font-size: 18pt;">豫州沛国の名家の出身</span>であり、</p>
<p><span style="font-size: 18pt;">妻は仲長氏</span>という女性で、息子がいたことは分かっているのですが、</p>
<p>何故か息子の名は現在に伝わっていません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>おそらく何の功績もなく、父親ともどもに最終的に処刑されてしまう事から、</p>
<p>名前が現在に伝わらなかった可能性が高いと思われます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そんな桓範ですが、陳寿の三国志に個人伝はなく、</p>
<p><span style="font-size: 18pt;">「魏志」諸夏侯曹伝</span>の中に記載として残されている感じですね。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>もう少し正確に言うと、</p>
<p><span style="font-size: 18pt;">「魏志」諸夏侯曹伝（曹真伝）の中の「曹爽伝」</span>に記載が残されている感じになります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>桓範の息子の名前（諱）については不明だといいましたが、</p>
<p>名家出身でありながら、桓範の両親の名前も現在に伝わっていません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そんな桓範ですが<span style="font-size: 18pt;"><span style="font-size: 12pt;">、</span>建安年間（１９６～２２０年）の末頃</span>に、</p>
<p><span style="font-size: 18pt;">「曹操の丞相府に招かれた」</span>とあります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>正確な時期こそ不明ではありますが、曹操に仕官したという事ですね。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ちなみに建安十七年（２１２年）に曹操は魏公になっている事を考えると、</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>あくまで推測ではありますが、</p>
<p>曹操が魏公に任じられる前あたりに仕官したのではないかなと想像しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>何故なら曹操が魏公になってからは、基本的に漢王朝（献帝）の都であった許昌とは別に、</p>
<p>曹操の中心的滞在都市となったのは鄴に移ったからですね。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>丞相府は許昌にありましたから、あくまでそういう点からの推測になります。</p>
<h3><span style="font-size: 18pt;">曹操の死＆曹丕の「魏」建国</span></h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-10580 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/03/曹操＆曹丕.png" alt="" width="717" height="478" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/03/曹操＆曹丕.png 1800w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/03/曹操＆曹丕-300x200.png 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/03/曹操＆曹丕-768x512.png 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/03/曹操＆曹丕-1024x683.png 1024w" sizes="auto, (max-width: 717px) 100vw, 717px" /></p>
<p>建安二十五年（２２０）に<span style="font-size: 18pt;">曹操</span>が亡くなると、<span style="font-size: 14pt;">曹丕</span>が跡を継ぐわけですが、</p>
<p>そこから間もなく漢王朝から禅譲される形で<span style="font-size: 18pt;">「魏」を建国</span>しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして桓範は<span style="font-size: 18pt;">羽林左監</span>に任じられ、</p>
<p><span style="font-size: 18pt;">王象と共に「皇覧」の編集を任された</span>といいます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹丕時代の逸話はこれぐらいしか残っていませんが、</p>
<p>桓範が大きく活躍していくのは曹丕亡き後の曹叡の時代からになります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>黄初七年（２２６年）五月に曹丕が亡くなって曹叡が跡を継ぐと、</p>
<p>中領軍・尚書となり、孫桓の才能を高く評価されたというふうに言われています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その後の桓範はというと<span style="font-size: 18pt;">征虜将軍・東中郎将、</span></p>
<p>そして<span style="font-size: 18pt;">使持節・都督青徐諸軍事</span>といったふうに順調に出世していきます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ただこの時に<span style="font-size: 18pt;">徐州刺史であった</span><ruby><span style="font-size: 18pt;">鄭岐</span><rt>ていき</rt></ruby>と家を奪い合い、</p>
<p>斬りあいまでに発展しようとしたのですが、</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>鄭岐が上奏したことによって、桓範に非があると判断されて<span style="font-size: 18pt;">免職</span>させられてしまったのでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし桓範の才能を惜しまれたこともあり、後に<span style="font-size: 18pt;">兗州刺史として復職</span>していますね。</p>
<h3><span style="font-size: 18pt;">妻へのDV（流産＆死去）</span></h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-8966 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/10/ふくろう赤.png" alt="" width="484" height="630" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/10/ふくろう赤.png 564w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/10/ふくろう赤-231x300.png 231w" sizes="auto, (max-width: 484px) 100vw, 484px" /></p>
<p>兗州刺史として召し抱えられた桓範ですが、気持ちの整理がついていないままの状態でした。</p>
<p>その際に<span style="font-size: 18pt;">「桓範を冀州牧として転任する」</span>といったような噂が桓範の耳に入ります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この噂を聞いた桓範は昇進であることは間違いないはずですが、</p>
<p>冀州牧として転任する事は強く嫌がったのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その理由は、かつて自分より立場の低かった呂昭が鎮北将軍に任じられており、</p>
<p>冀州牧として赴任した際には、呂昭の管轄下にあたるからであり、</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>妻である仲長氏に対してもこの怒りをぶつけ、</p>
<p><span style="font-size: 18pt;">「呂子展（呂昭）なんぞに頭を下げられるか！！」</span>と愚痴をこぼしています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これに対して仲長氏は、鄭岐と揉めて免職させられたことをいじると、</p>
<p>桓範は大変に腹を立て、<span style="font-size: 18pt;">仲長氏の腹を刀環（刀の柄）</span>でついてしまいます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>仲長氏は桓範の子を身ごもっていましたが、これがきっかけとなり<span style="font-size: 18pt;">流産</span>してしまい、</p>
<p>そればかりか仲長氏もこれがきっかけとなって亡くなってしまったのでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>また桓範はというと、噂通りに冀州牧の話がきたわけですが、</p>
<p>病気と称して冀州へ赴くことはなかったようです。</p>
<h3><span style="font-size: 18pt;">高平陵の変＆桓範の最期</span></h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-11907 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2024/01/古城.jpg" alt="" width="727" height="436" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2024/01/古城.jpg 1108w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2024/01/古城-300x180.jpg 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2024/01/古城-768x460.jpg 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2024/01/古城-1024x614.jpg 1024w" sizes="auto, (max-width: 727px) 100vw, 727px" /></p>
<p>曹叡が崩御したわけですが、曹叡の息子達は全て先に亡くなっていた事から、</p>
<p>一族の者であった曹芳を養子として育てており、そんな曹芳が跡を継ぐこととなります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ただ皇帝になった人物であるにも関わらず、</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">父親が誰なのかが</span>分からない謎多き出生の人物でもあるんですよね。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして桓範は<span style="font-size: 18pt;">大司農（九卿）</span>に任じられたわけですが、</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹真の息子であった曹爽は、</p>
<p>同じ地元の先輩にあたる桓範に対して強く敬意を払っていたといいます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ただそんな曹爽に対しても、桓範が心を許す事もなかったそうですが・・・</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし<span style="font-size: 18pt;">司馬懿がクーデター（高平陵の変）</span>を起こした際に、</p>
<p>以前から桓範の才能を高く評価していた司馬懿が桓範を中領軍を任せようとして声をかけ、</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>桓範もまた司馬懿の招きに応じようとします。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ただこの時に桓範の考えに強く反対したのが息子で、</p>
<p>最終的に桓範は息子の意見を採用し、曹芳のもとへとかけつけていったのでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして桓範は曹爽に出会って真っ先に助言したことは、</p>
<p><span style="font-size: 18pt;">「帝（曹芳）を連れて、旧都である許昌へ移動して、</span></p>
<p><span style="font-size: 18pt;">ここで四方から兵を収集して抵抗すべきです」</span>というものでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし曹爽が桓範の助言を取り上げることはなく、</p>
<p>司馬懿にひざまづくことを選択し、</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹爽らは結局許される事はなく、最終的に処刑されてしまったのでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>裴松之が注釈を加えた<span style="font-size: 18pt;">「魏氏春秋」</span>には、</p>
<p>次のような逸話が書かれてあります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹爽は例え実権を失ったとしても、</p>
<p>不自由なく暮らしていける事を口にして司馬懿に降った際に、</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 18pt;">「父親（曹真）は優れた人物であったが、</span></p>
<p><span style="font-size: 18pt;">お前ら兄弟（曹爽・曹羲）は子牛にでも生まれたのか！？</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 18pt;">お前らのせいで、</span></p>
<p><span style="font-size: 18pt;">一族が途絶えようとは思いもしなかった」</span></p>
<p>と桓範が語った逸話が残されています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 18pt;">最終的に桓範も罪に問われ、</span></p>
<p><span style="font-size: 18pt;">曹爽らと共に三族皆殺しにされることとなったのでした。</span></p>
<h3><span style="font-size: 18pt;">桓範や曹爽との因縁があった蒋済</span></h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-11972 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2024/02/曹爽と桓範.png" alt="" width="718" height="833" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2024/02/曹爽と桓範.png 653w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2024/02/曹爽と桓範-259x300.png 259w" sizes="auto, (max-width: 718px) 100vw, 718px" /></p>
<p><span style="font-size: 10pt;">三国志/完結編/２巻（寺島優・李志清）１２７Pより画像引用</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>桓範は若かりし頃から「漢書」を研究していた人物としても知られており、</p>
<p><span style="font-size: 18pt;">『「世要論」なる著書を完成させた』</span>という逸話が残っています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ある時に桓範が蒋済を含め数人と同席していた際に、</p>
<p>桓範は蒋済に対して「世要論」を見せて評価を求めた事がありましたが、</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>蒋済は評価するどころか、「世要論」を見る事すらなかったといいます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>何故に蒋済が「世要論」を見る事すら拒んだのかは不明ですが、</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ただ蒋済は時と場所を選び、</p>
<p>他の者達と同席中であったことも理由だったのかもしれません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ただこの行為に対して、激しい怒りを覚えたのが桓範でもあったわけです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そんな蒋済が助命を条件に、曹爽を降伏させることを成功させたのは因果だったりします。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ただ司馬懿に協力をしたのが蒋済なら、</p>
<p>司馬懿が曹爽を処刑しようとした際に反対したのも蒋済でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>反対した理由としては、</p>
<p>大きな功績のあった曹真を祀る者を絶やす事に反対したからになります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>結局その言葉は司馬懿に聞き入れられず、曹爽らは処刑されてしまいます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その事からも裴松之が注釈に加えた<span style="font-size: 18pt;">「世語」</span>には、</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>蒋済自ら助命を条件に曹爽を降伏させた身として、</p>
<p>結果的に曹爽に嘘をついた事に対して非常に申し訳ない気持ちになったといいます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そしてそれがきっかけに病気にかかり、</p>
<p><span style="font-size: 18pt;">「蒋済もまた曹爽らが処刑された年に亡くなった」</span></p>
<p><span style="font-size: 18pt;"><span style="font-size: 12pt;">と</span></span>書かれてありますね。</p>
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