<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?><rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
	>

<channel>
	<title>袁術討伐 &#8211; なんでも三国志</title>
	<atom:link href="https://daisuki-sangokushi.com/tag/%e8%a2%81%e8%a1%93%e8%a8%8e%e4%bc%90/feed/" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>https://daisuki-sangokushi.com</link>
	<description></description>
	<lastBuildDate>Thu, 13 Aug 2026 14:53:25 +0000</lastBuildDate>
	<language>ja</language>
	<sy:updatePeriod>
	hourly	</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>
	1	</sy:updateFrequency>
	<generator>https://wordpress.org/?v=6.8.8</generator>

<image>
	<url>https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2024/08/cropped--32x32.png</url>
	<title>袁術討伐 &#8211; なんでも三国志</title>
	<link>https://daisuki-sangokushi.com</link>
	<width>32</width>
	<height>32</height>
</image> 
<atom:link rel="hub" href="https://pubsubhubbub.appspot.com"/>
<atom:link rel="hub" href="https://pubsubhubbub.superfeedr.com"/>
<atom:link rel="hub" href="https://websubhub.com/hub"/>
<atom:link rel="self" href="https://daisuki-sangokushi.com/tag/%e8%a2%81%e8%a1%93%e8%a8%8e%e4%bc%90/feed/"/>
	<item>
		<title>朱霊 -曹操に愛憎されながら、三代に仕えた歴戦の名将-</title>
		<link>https://daisuki-sangokushi.com/2026/08/13/%e6%9c%b1%e9%9c%8a-%e6%9b%b9%e6%93%8d%e3%81%ab%e6%84%9b%e6%86%8e%e3%81%95%e3%82%8c%e3%81%aa%e3%81%8c%e3%82%89%e3%80%81%e4%b8%89%e4%bb%a3%e3%81%ab%e4%bb%95%e3%81%88%e3%81%9f%e6%ad%b4%e6%88%a6%e3%81%ae/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[nekozyarashi]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 13 Aug 2026 14:53:25 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[朱霊]]></category>
		<category><![CDATA[官渡]]></category>
		<category><![CDATA[劉備]]></category>
		<category><![CDATA[周勃]]></category>
		<category><![CDATA[張魯]]></category>
		<category><![CDATA[荊州]]></category>
		<category><![CDATA[灌嬰]]></category>
		<category><![CDATA[漢中]]></category>
		<category><![CDATA[曹操]]></category>
		<category><![CDATA[高唐]]></category>
		<category><![CDATA[青州]]></category>
		<category><![CDATA[威侯]]></category>
		<category><![CDATA[曹丕]]></category>
		<category><![CDATA[高唐亭侯]]></category>
		<category><![CDATA[関中]]></category>
		<category><![CDATA[文博]]></category>
		<category><![CDATA[公孫淵]]></category>
		<category><![CDATA[「魏志」徐晃伝]]></category>
		<category><![CDATA[忠義]]></category>
		<category><![CDATA[季雍]]></category>
		<category><![CDATA[徐晃]]></category>
		<category><![CDATA[徐晃伝]]></category>
		<category><![CDATA[潼関]]></category>
		<category><![CDATA[家族]]></category>
		<category><![CDATA[袁紹]]></category>
		<category><![CDATA[清河国]]></category>
		<category><![CDATA[冀州]]></category>
		<category><![CDATA[五千]]></category>
		<category><![CDATA[馬超]]></category>
		<category><![CDATA[廟庭]]></category>
		<category><![CDATA[程昂]]></category>
		<category><![CDATA[張郃]]></category>
		<category><![CDATA[袁術討伐]]></category>
		<category><![CDATA[黄河西岸]]></category>
		<category><![CDATA[于禁]]></category>
		<category><![CDATA[平原国]]></category>
		<category><![CDATA[氐族]]></category>
		<category><![CDATA[韓遂]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://daisuki-sangokushi.com/?p=16194</guid>

					<description><![CDATA[朱霊（しゅれい、字：文博） 朱霊の生年は伝わっていませんが、冀州清河国の出身とされる人物です。 &#160; 後漢末の群雄割拠から三国時代にかけて戦場を駆け抜け、 袁紹・曹操・曹丕・曹叡の時代に仕えた歴戦の将軍でしたが、 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h3><span style="font-size: 18pt;">朱霊（しゅれい、字：文博）</span></h3>
<p><img fetchpriority="high" decoding="async" class=" wp-image-16195 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/朱霊.png" alt="" width="800" height="450" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/朱霊.png 1672w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/朱霊-300x169.png 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/朱霊-1024x576.png 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/朱霊-768x432.png 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/朱霊-1536x864.png 1536w" sizes="(max-width: 800px) 100vw, 800px" /></p>
<p>朱霊の生年は伝わっていませんが、冀州清河国の出身とされる人物です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>後漢末の群雄割拠から三国時代にかけて戦場を駆け抜け、</p>
<p>袁紹・曹操・曹丕・曹叡の時代に仕えた歴戦の将軍でしたが、</p>
<p>その名は張遼や徐晃ほど広く知られているわけではない人物でもあります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、冀州・徐州から荊州、関中、漢中に至るまで、</p>
<p>魏が勢力を広げていく重要な戦いにたびたび参加しており、曹操軍の中核を担った武将の一人だったといえます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして朱霊の生涯を語るうえで興味深いのが、</p>
<p>勇猛な将軍でありながら、曹操から一時的に軍権を取り上げられたという、少し複雑な関係です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>それでも最終的には後将軍にまで昇進し、</p>
<p>死後には「威侯」の諡号を贈られ、魏の功臣として曹操の廟庭に祭られることになります。</p>
<p>そんな朱霊の生涯を見ていきましょう。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">袁紹のもとで頭角を現す</span></h4>
<p>朱霊が歴史に登場するのは、まだ袁紹が冀州を支配していた頃のことです。</p>
<p>当時、清河の季雍という人物が鄃県を挙げて袁紹に背き、公孫瓚に味方しました。</p>
<p>これを受けて袁紹は、朱霊に季雍を攻撃させます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ところが、朱霊にとってこの戦いには、あまりにも残酷な事情がありました。</p>
<p>朱霊の母と弟を含む家族が、季雍の籠もる城内にいたのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>公孫瓚側はそれを利用し、朱霊を降伏させようとしました。</p>
<p>母や弟を城壁の上に連れ出し、朱霊に見せつけたのです。</p>
<p>普通なら、家族の命を守るために戦いをためらっても不思議ではありません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし朱霊は涙を流しながら、</p>
<p>「男が一度、人に身を委ねた以上、どうして家族を顧みることができようか」</p>
<p>という趣旨の言葉を述べ、戦いを続けました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして激しく攻撃して季雍を捕らえることに成功します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、その代償はあまりにも大きなものでした。</p>
<p>朱霊の母と弟を含む家族は、城中で殺されてしまったのです。</p>
<p>家族を失ってでも主君への義を貫いたこの逸話は、朱霊という人物の強い意志を物語っています。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">曹操との出会い</span></h4>
<p>その後、朱霊の運命を大きく変える出来事が起こります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹操が徐州の陶謙を攻撃していた頃、</p>
<p>袁紹は朱霊に三つの営を率いさせ、曹操を援護するために派遣しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>朱霊は曹操の軍に加わって戦功を立てます。</p>
<p>そして戦いが終わると、他の袁紹配下の将軍たちは袁紹のもとへ戻っていきました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ところが朱霊は違いました。</p>
<p>曹操の人物を高く評価し、そのまま曹操に仕えることを決意したのです。</p>
<p>しかも朱霊だけでなく、彼が率いていた兵士たちも朱霊に従って曹操のもとに残りました。</p>
<p>これは朱霊が兵士たちから強く信頼されていたことをうかがわせます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>こうして朱霊は、袁紹軍の武将から曹操軍の将軍へと転身することになりました。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">劉備とともに袁術討伐へ</span></h4>
<p>曹操の配下となった朱霊は、各地の戦場で活動を続けます。</p>
<p>建安４年（１９９年）には、路招とともに劉備の指揮下へ入り、袁術討伐に派遣されました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、戦いが始まる前に袁術が病死したため、討伐戦そのものは実現しませんでした。</p>
<p>朱霊らは劉備を徐州に残したまま曹操のもとへ帰還します。</p>
<p>この時の劉備は、まだ曹操と決定的に対立する前の段階でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、まもなく劉備は曹操に背き、徐州で独自の勢力を築くことになります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>朱霊が劉備と行動をともにした期間は短いものでしたが、</p>
<p>後に曹操と劉備が天下を争うことを考えると、非常に興味深い一場面です。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">冀州平定後、五千の兵を任される</span></h4>
<p><img decoding="async" class=" wp-image-16176 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/戦い.png" alt="" width="800" height="450" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/戦い.png 1672w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/戦い-300x169.png 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/戦い-1024x576.png 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/戦い-768x432.png 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/戦い-1536x864.png 1536w" sizes="(max-width: 800px) 100vw, 800px" /></p>
<p>袁紹が官渡の戦いで敗れ、その後に袁氏勢力が崩壊していくと、曹操は冀州を支配下に収めていきました。</p>
<p>その頃、朱霊は曹操から冀州兵五千と騎兵一千を与えられ、許都の南方を守る任務を任されます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、この時に曹操は朱霊に対して、冀州兵の扱いについて注意を与えていました。</p>
<p>そして曹操の懸念は、まもなく現実となります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>陽翟に到着したところ、中郎将の程昂が反乱を起こしたのです。</p>
<p>朱霊はただちにこれを鎮圧し、程昂を斬りました。</p>
<p>そして曹操に対して自らの監督責任を謝罪します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし曹操は、古代の鄧禹の故事を引き合いに出して朱霊を責めませんでした。</p>
<p>むしろ、部下の反乱を速やかに鎮圧した朱霊の働きを認めたのでしょう。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">荊州征伐にも参加</span></h4>
<p>建安１３年（２０８年）、</p>
<p>曹操が荊州へ進軍すると、朱霊もその軍勢に加わります。</p>
<p>この時、朱霊のほか、于禁・張遼・張郃・李典・路招・馮楷らが、趙儼の統括を受けることになりました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹操軍には数多くの将軍がいましたが、</p>
<p>朱霊はこうした名将たちと並んで軍を任される存在だったのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その後、曹操は荊州を制圧して南下し、赤壁へと向かいます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし赤壁では曹操軍が大敗し、曹操は北へ撤退することになります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>朱霊自身について赤壁での具体的な活躍は詳しく記録されていませんが、</p>
<p>その後も曹操軍の重要な戦線で活動を続けています。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">馬超との戦いで見せた働き</span></h4>
<p>建安１６年（２１１年）、関中の馬超・韓遂らが曹操に対して反乱を起こします。</p>
<p>いわゆる潼関の戦いです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹操は関中の軍閥を討つため、自ら大軍を率いて西へ向かいました。</p>
<p>この戦いで朱霊は、徐晃とともに曹操から重要な任務を与えられます。</p>
<p>それは、夜間に蒲阪津から黄河を渡り、黄河西岸に先回りして陣地を築くことでした。</p>
<p>朱霊と徐晃はこの任務を成功させます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この動きによって馬超は黄河西岸へ自由に進出することができなくなり、</p>
<p>曹操軍は戦略上の重要な地点を確保することに成功しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>朱霊の働きは派手な戦いを演じたりしたわけではありません。</p>
<p>しかし、こうした重要地点を迅速に確保する能力こそ、歴戦の将軍に求められるものでした。</p>
<p>朱霊はこのような実戦的な働きを積み重ねていきます。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">関中・漢中でも戦う</span></h4>
<p>曹操が鄴へ戻った後も、朱霊は西方に残りました。</p>
<p>夏侯淵の指揮下に入り、隃麋・汧周辺の氐族討伐に参加します。</p>
<p>さらに長安周辺にも駐屯し、南山の劉雄を攻撃して、その兵を降伏させています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして建安２０年（２１５年）、</p>
<p>曹操が漢中の張魯を討つために出陣すると、朱霊もこの遠征に参加しました。</p>
<p>曹操軍が武都方面へ進もうとした際、氐族によって進路を阻まれます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そこで曹操は張郃と朱霊を派遣しています。</p>
<p>二人は氐族を撃破し、曹操軍の進軍路を確保しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>朱霊は、冀州・荊州・関中・漢中と、曹操が勢力を広げる主要な戦線に次々と姿を現しています。</p>
<p>まさに曹操軍の「戦場を選ばない将軍」だったといえるでしょう。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">曹操から軍権を奪われる</span></h4>
<p>ところが、朱霊の人生には意外な出来事が起こります。</p>
<p>朱霊は曹操から、以前から何らかの理由で恨まれていたと正史『三国志』は記しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そのため、時期は明確ではありませんが、曹操は于禁に命じて朱霊の軍営を接収させました。</p>
<p>于禁自ら朱霊の陣営へ赴き、曹操の命令を伝えます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>普通なら、長年軍を率いてきた将軍が突然その兵権を奪われれば、抵抗する可能性もあります。</p>
<p>しかし朱霊は抵抗しませんでした。</p>
<p>朱霊も配下の兵士たちも、于禁の威勢を恐れて、そのまま命令に従ったのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>以後、朱霊は于禁の配下として活動することになります。</p>
<p>長年戦場で功績を重ねてきた朱霊にとっては、決して名誉な出来事ではありません。</p>
<p>しかし、ここでも朱霊は反抗することなく、曹操の命令を受け入れました。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">曹丕から高く評価される</span></h4>
<p>曹操が死去し、曹丕が魏の皇帝となると、朱霊の評価は大きく変わります。</p>
<p>黄初元年（２２０年）、曹丕は朱霊のこれまでの功績を評価し、鄃侯に封じて領邑を加増しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>さらに曹丕は朱霊を非常に高く評価し、</p>
<p>周の宣王を支えた方叔や邵虎よりも優れ、漢の功臣である周勃や灌嬰以上の功績がある、</p>
<p>という趣旨の言葉まで贈っています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これはかなりの高評価です。</p>
<p>そして曹丕は朱霊に、「望む土地を与えよう」と尋ねました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>朱霊が望んだのは高唐県（青州<ruby>平原国</ruby>）でした。</p>
<p>すると曹丕はその希望を認め、朱霊を高唐亭侯に封じました。</p>
<p>かつて曹操から軍権を取り上げられた朱霊でしたが、曹丕の時代になると、魏を支えた功臣として改めて評価されることになったのです。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">呉との戦い、最後の戦場</span></h4>
<p>曹丕の死後、曹叡の時代になっても朱霊は現役の将軍として活動しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>太和３年（２２９年）には、曹休・賈逵らによる呉への遠征に参加しました。</p>
<p>この戦いでは曹休が呉軍に敗れ、危機的な状況に陥ります。</p>
<p>その際、朱霊は曹休を救援しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これが史書に残る朱霊の最後の軍事活動となります。</p>
<p>その後、朱霊がいつ亡くなったのかについては明確な記録がありません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、最終的には後将軍にまで昇進していたことが伝えられています。</p>
<p>死後には「威侯」の諡号を贈られました。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">曹操の廟庭に祀られた朱霊</span></h4>
<p><img decoding="async" class=" wp-image-7922 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/06/—Pngtree—guochao-chinese-style-architecture_7216534-1.png" alt="" width="393" height="393" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/06/—Pngtree—guochao-chinese-style-architecture_7216534-1.png 3000w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/06/—Pngtree—guochao-chinese-style-architecture_7216534-1-150x150.png 150w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/06/—Pngtree—guochao-chinese-style-architecture_7216534-1-300x300.png 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/06/—Pngtree—guochao-chinese-style-architecture_7216534-1-768x768.png 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/06/—Pngtree—guochao-chinese-style-architecture_7216534-1-1024x1024.png 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/06/—Pngtree—guochao-chinese-style-architecture_7216534-1-320x320.png 320w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/06/—Pngtree—guochao-chinese-style-architecture_7216534-1-200x200.png 200w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/06/—Pngtree—guochao-chinese-style-architecture_7216534-1-100x100.png 100w" sizes="(max-width: 393px) 100vw, 393px" /></p>
<p>朱霊の死後、その功績はさらに高く評価されることになります。</p>
<p>正始４年（２４３年）、魏の皇帝曹芳は曹操の廟庭に功臣を祭ることを命じました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そこには張遼、徐晃、張郃、楽進、于禁、夏侯惇、夏侯淵ら、</p>
<p>曹操を支えた数々の名将・功臣が選ばれています。</p>
<p>その中に朱霊も加えられました。</p>
<table style="width: 100%;">
<tbody>
<tr class="odd">
<td><span style="font-size: 14pt;">〈曹操廟に祀られた二十六人の功臣〉</span></p>
<p>-青龍元年（２３３年） 曹叡の治世《合計三名》-<br />
夏侯惇・曹仁・程昱</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>-正始四年（２４３年） 曹芳の治世《合計二十名》-<br />
曹真・曹休・夏侯尚・桓階・陳羣・鍾繇・張郃・徐晃・張遼・楽進・華歆<br />
・王朗・曹洪・夏侯淵・朱霊・文聘・臧覇・李典・龐徳・典韋</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>-正始五年（２４４年） 曹芳の治世《合計一名》-<br />
荀攸</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>-嘉平三年（２５１年） 曹芳の治世《合計一名》-<br />
司馬懿</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>-景元三年（２６２年） 曹奐の治世《合計一名》-<br />
郭嘉</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>&nbsp;</p>
<p>これは朱霊が魏にとって、単なる一武将ではなく、</p>
<p>曹操の覇業を支えた功臣の一人として認められていたことを示しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>朱霊は正史『三国志』に独立した本伝を立てられてはいません。</p>
<p>主として「魏志」徐晃伝などに付随する形で記録されているため、後世ではどうしても目立たない存在になっています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、その足跡を追ってみると、</p>
<p>袁紹との戦い、徐州、荊州、関中、漢中、そして対呉戦線と、</p>
<p>曹操が天下の覇権を握っていく過程で、朱霊は実に多くの戦場を経験しています。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">朱霊という人物像</span></h4>
<p>朱霊の生涯には、華々しい一騎打ちや劇的な武勇伝があまり残されていません。</p>
<p>しかし、それこそが朱霊という将軍の特徴だったのかもしれません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<ul>
<li>家族を犠牲にしてでも任務を果たした袁紹時代</li>
<li>曹操の器量を見抜き、袁紹のもとへ戻らず曹操に仕えた決断</li>
<li>徐晃とともに黄河を渡り、馬超の進路を封じた潼関戦</li>
<li>夏侯淵のもとで関中を守り、張郃とともに氐族を撃破した漢中戦</li>
<li>そして、曹操から一時的に軍権を奪われても反抗せず、于禁の指揮下に入った姿</li>
</ul>
<p>&nbsp;</p>
<p>朱霊は、華やかさよりも「軍人としての実績」で評価されるタイプの武将だったのでしょう。</p>
<p>曹操との関係には、信頼だけでは説明できない複雑さがありました。</p>
<p>それでも曹操の死後、曹丕は朱霊を高く評価し、後将軍にまで昇進させています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして最終的には、曹操の廟庭に祭られた２６人の功臣の一人となりました。</p>
<p>三国志の世界には、張遼や関羽のように誰もが知る英雄がいます。</p>
<p>その一方で、朱霊のように大きな戦場の陰で着実に任務を遂行し、魏の基礎を支え続けた将軍もいました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その生涯を振り返ると、朱霊はまさに</p>
<p>「表舞台で天下を揺るがす英雄ではなく、数多くの戦場で魏の屋台骨を支え続けた、実戦派の名将」</p>
<p>と呼ぶにふさわしい人物だったといえるでしょう。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>曹操を最前線で支え続けた曹仁（曹仁なくして曹操なし）</title>
		<link>https://daisuki-sangokushi.com/2019/10/28/%e6%9b%b9%e6%93%8d%e3%82%92%e6%94%af%e3%81%88%e7%b6%9a%e3%81%91%e3%81%9f%e6%9b%b9%e4%bb%81%ef%bc%88%e6%9b%b9%e4%bb%81%e3%81%aa%e3%81%8f%e3%81%97%e3%81%a6%e6%9b%b9%e6%93%8d%e3%81%aa%e3%81%97%ef%bc%89/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[nekozyarashi]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 27 Oct 2019 18:28:50 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[曹仁]]></category>
		<category><![CDATA[曹操]]></category>
		<category><![CDATA[劉何]]></category>
		<category><![CDATA[牛金]]></category>
		<category><![CDATA[張繍討伐]]></category>
		<category><![CDATA[袁術討伐]]></category>
		<category><![CDATA[潼関]]></category>
		<category><![CDATA[別部司馬]]></category>
		<category><![CDATA[樊城]]></category>
		<category><![CDATA[陶謙討伐]]></category>
		<category><![CDATA[守護神]]></category>
		<category><![CDATA[江陵]]></category>
		<category><![CDATA[騎兵]]></category>
		<category><![CDATA[大将軍]]></category>
		<category><![CDATA[先鋒隊]]></category>
		<category><![CDATA[徐州]]></category>
		<category><![CDATA[呂由]]></category>
		<category><![CDATA[征南将軍]]></category>
		<category><![CDATA[濡須口]]></category>
		<category><![CDATA[濡須口の戦い]]></category>
		<category><![CDATA[韓猛]]></category>
		<category><![CDATA[大司馬]]></category>
		<category><![CDATA[曹泰]]></category>
		<category><![CDATA[曹純]]></category>
		<category><![CDATA[袁紹討伐]]></category>
		<category><![CDATA[車騎将軍]]></category>
		<category><![CDATA[荊州争奪戦]]></category>
		<category><![CDATA[壷関]]></category>
		<category><![CDATA[都督]]></category>
		<category><![CDATA[高幹討伐]]></category>
		<category><![CDATA[侯音]]></category>
		<category><![CDATA[周瑜]]></category>
		<category><![CDATA[陳侯]]></category>
		<category><![CDATA[従兄]]></category>
		<category><![CDATA[合祀]]></category>
		<category><![CDATA[三千人]]></category>
		<category><![CDATA[関羽]]></category>
		<category><![CDATA[数十騎]]></category>
		<category><![CDATA[高幹]]></category>
		<category><![CDATA[曹褒]]></category>
		<category><![CDATA[曹操の廟庭]]></category>
		<category><![CDATA[荊州]]></category>
		<category><![CDATA[天上人]]></category>
		<category><![CDATA[朱桓]]></category>
		<category><![CDATA[曹熾]]></category>
		<category><![CDATA[呂布討伐]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://daisuki-sangokushi.com/?p=1831</guid>

					<description><![CDATA[曹操と共に歩む道を選んだ曹仁 曹仁そうじんは建寧元年（１６８年）に、 曹操の祖父にあたる曹褒（曹騰の兄）の孫として誕生しています。 &#160; ここでは深くは触れませんが、宦官である事で知られる曹騰ですが、 四人兄弟の [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h3><span style="font-size: 18pt;">曹操と共に歩む道を選んだ曹仁</span></h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-15380 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/曹仁①.png" alt="" width="746" height="498" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/曹仁①.png 1536w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/曹仁①-300x200.png 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/曹仁①-1024x683.png 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/曹仁①-768x512.png 768w" sizes="auto, (max-width: 746px) 100vw, 746px" /></p>
<p><span style="font-size: 12pt;"><ruby>曹仁<rt>そうじん</rt></ruby></span>は建寧元年（１６８年）に、</p>
<p>曹操の祖父にあたる<span style="font-size: 12pt;">曹褒（曹騰の兄）の孫</span>として誕生しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ここでは深くは触れませんが、宦官である事で知られる曹騰ですが、</p>
<p>四人兄弟の末子であり、三人の兄がいたとされています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p class="yjSlinkDirectlink ClapLv1TextBlock_Chie-TextBlock__Text__1jsQC ClapLv1TextBlock_Chie-TextBlock__Text--mediumRelative__3HSR8 ClapLv1TextBlock_Chie-TextBlock__Text--SpaceOut__3kF8R ClapLv1TextBlock_Chie-TextBlock__Text--preLine__2SRma">しかしその三人の名前は分かっておらず、</p>
<p><ruby>字<rt>あざな</rt></ruby>である<span style="font-size: 12pt;">「伯興」「仲興」「叔興」</span>のみがかろうじて分かる程度になっています。</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">ただその中で曹褒は、次兄である「仲興」ではないかとされています。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>素性がはっきりしていない人物が多いこの時代の中にあって、</p>
<p>曹仁については色々と分かっている情報も多いです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ちなみに<span style="font-size: 12pt;">父親が<ruby>曹熾<rt>そうし</rt></ruby></span>であり、<span style="font-size: 12pt;">弟が曹純</span>でもあります。</p>
<p>ただ父親を早くに亡くしており、曹純とも別居して過ごしていたようです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹仁は曹操にとって従弟にあたり、</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">「魏志」曹仁伝</span>には、<span style="font-size: 12pt;">弓術・馬術・狩猟を好んでいた</span>と記録が残されています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そんな曹仁ですが、多くの群雄が割拠していくと、</p>
<p>曹仁もまた千人余りの若者を集めて徐州の淮水あたりの地域で暴れ回っていたようです。</p>
<p>その後に曹操に従うようになると、曹操から<span style="font-size: 12pt;">別部司馬</span>に任じられています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹操は曹仁を非常に信頼しており、曹仁も大事な戦いには常に参加しており、</p>
<p>その中にあって確実に結果を出し続けていくことになります。</p>
<h3><span style="font-size: 18pt;">各地での大活躍</span></h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-11193 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2023/12/苦難.jpg" alt="" width="749" height="499" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2023/12/苦難.jpg 4247w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2023/12/苦難-300x200.jpg 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2023/12/苦難-768x512.jpg 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2023/12/苦難-1024x683.jpg 1024w" sizes="auto, (max-width: 749px) 100vw, 749px" /></p>
<p>初平四年（１９３年）に曹操が<span style="font-size: 12pt;">袁術討伐</span>を行った際には、</p>
<p>曹仁多くの兵士を討ち取り、多くを捕らえる活躍を見せています。</p>
<p>その数はかなりのものだったといいます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>また曹操の父である曹嵩が徐州で殺害されると、</p>
<p>曹操は<span style="font-size: 12pt;">陶謙討伐</span>に乗り出すわけですが、この時の先鋒を務めたのが曹仁でもありました。</p>
<p>他にも陶謙軍の大将を任されていた呂由を打ち破ってもいます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そもそもこの時の曹仁は騎兵を率いていたということですので、</p>
<p>曹操軍にとっては間違いなく主力部隊であったでしょう。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>勿論曹仁の騎兵部隊と同様に、曹操軍に加入したばかりの青州兵も暴れに暴れたようですが・・・</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p class="entry-title">興平元年（１９４年）になると、<span style="font-size: 12pt;">呂布討伐</span>に乗り出し、</p>
<p>今度は呂布の大将であった劉何を生け捕りにすることにも成功しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>劉表と繋がりがある<span style="font-size: 12pt;">張繍討伐</span>に乗り出した際には、</p>
<p>別動隊を率いて近隣の県を攻撃して<span style="font-size: 12pt;">三千人を捕虜</span>としたわけですが、</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この戦いの中で曹操が張繍・賈詡の罠にかかってしまったことで敗れると、</p>
<p>曹昂・曹安民・典韋などを失うものの、<span style="font-size: 12pt;">曹仁は追撃してきた張繍軍の撃退に成功</span>していたりします。</p>
<h3><span style="font-size: 18pt;">袁紹＆高幹との戦い</span></h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-11423 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/08/佇ずむ城.png" alt="" width="747" height="498" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/08/佇ずむ城.png 3000w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/08/佇ずむ城-300x200.png 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/08/佇ずむ城-768x512.png 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/08/佇ずむ城-1024x683.png 1024w" sizes="auto, (max-width: 747px) 100vw, 747px" /></p>
<p>建安五年（２００年）に曹操と袁紹が官渡の闘いで激突した際には、</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>袁紹に命じられた劉備が攻撃をしてくると、</p>
<p>多くの諸県を袁紹側に引き込む事に劉備は成功していますが、</p>
<p>これに対応したのが実は曹仁でもありました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹仁は曹操に対して次のように語りました。</p>
<table style="border-collapse: collapse; width: 100%;">
<tbody>
<tr>
<td style="width: 100%;"><span style="font-size: 12pt;">劉備が率いている軍勢は、</span><span style="font-size: 12pt;">もともと袁紹の兵士らですので、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">劉備がうまく使いこなす事は難しいでしょう。</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして曹仁は劉備を攻撃して見事に勝利を収め、</p>
<p>袁紹側に寝返った諸県の全ての奪還にも成功したといいます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>また袁紹が西方のをの遮断するように韓猛に命じた際には、</p>
<p>曹仁が韓猛の動きに対応し、<span style="font-size: 12pt;">鶏洛山にて韓猛の撃破にも成功</span>しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして最終的に鳥巣の食糧庫の焼き討ちに曹操が成功すると、</p>
<p>官渡の戦いは曹操軍の勝利で幕を下ろしたのでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>２０５年には、袁紹軍残党の高幹の籠城する<ruby>壷関<rt>こかん</rt></ruby>を包囲した際に、</p>
<p>曹操は<span style="font-size: 12pt;">「敵は一人残らず穴埋めにせよ。</span><span style="font-size: 12pt;">」</span>と布令した事に対して、</p>
<p>高幹軍は徹底的に交戦する姿勢を見せた事で、<ruby>壷関を</ruby>陥落させることができませんでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そんな時に、曹仁が曹操に次のようにいいます。</p>
<table style="border-collapse: collapse; width: 100%;">
<tbody>
<tr>
<td style="width: 100%;"><span style="font-size: 12pt;">城（砦）を囲む際は、</span><span style="font-size: 12pt;">必ず生き残れる道を残しておくべきものです。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">ただでさえ堅固な城であり、</span><span style="font-size: 12pt;">確実に殺されると分かっていれば、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">相手は最後まで必死に抵抗するので、</span><span style="font-size: 12pt;">それはあまり良い事ではありません。</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして曹操は曹仁の進言を採用し、逃げ場を造った事で、</p>
<p>潼関の多くの者達が降伏や逃亡した事で攻略に成功したのでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>また反乱の首謀者であった高幹は、なんとか逃げることに成功するかと思われた矢先に、</p>
<p>荊州へともう一歩のところで、曹操配下の王琰に捕まって処刑されています。</p>
<h3><span style="font-size: 18pt;">江陵防衛戦での活躍（曹仁VS周瑜）</span></h3>
<p>赤壁の戦いで大敗を喫した翌年の２０９年、</p>
<p>周瑜らは曹操領（元劉表領）であった荊州討伐に乗り出しますが、</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この際に江陵の守りを任されていたのが曹仁でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この戦いの中で<span style="font-size: 12pt;">牛金が周瑜の軍勢に包囲</span>されてしまう事がありました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この時に曹仁は陳矯ら周囲の反対を押し切って、</p>
<p>選りすぐりの数十騎を選抜して突撃すると、<span style="font-size: 12pt;">見事に牛金を救い出す事に成功</span>しています。</p>
<p>この際に失った曹仁の兵士は数人だけだったといいます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>無事に牛金を救い出して帰還した曹仁の姿を見た陳矯らは、</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">「将軍は真に天上界の人物ですね。」</span>と驚いたと同時に、<span style="font-size: 12pt;">曹仁の勇ましさに心服</span>したのでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これらのこともあったこともあり、</p>
<p>曹仁らは結束して周瑜の軍勢に立ち向かったこともあり、</p>
<p>不利な状況で約一年にわたって江陵城を守り通していますが、</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>最終的には江陵城を捨てて撤退していますね。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ちなみにこの戦いの中で周瑜は右腹に流れ矢を食らっており、</p>
<p>最終的にその傷が悪化したことで周瑜は亡くなったとも言われています。</p>
<h3><span style="font-size: 18pt;">潼関の守護神（曹仁VS馬超・韓遂ら関中十部）</span></h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-15383 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/賊①.png" alt="" width="748" height="499" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/賊①.png 1536w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/賊①-300x200.png 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/賊①-1024x683.png 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/賊①-768x512.png 768w" sizes="auto, (max-width: 748px) 100vw, 748px" /></p>
<p>江陵の戦いから約四年の月日が過ぎた２１１年、</p>
<p>涼州南部で<span style="font-size: 12pt;">馬超・韓遂ら関中十部</span>の豪族らが反乱を起こした際には、</p>
<p>曹操から曹仁は<ruby>潼関<rt>どうかん</rt></ruby>の守りを任されますが、期待に応えて潼関を守り通しています。</p>
<p>※関中十部＝馬超・韓遂・楊秋・侯選・程銀・成宜・梁興・李堪・張横・馬玩</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その後に曹操が馬超・韓遂らの討伐に乗り出すと、</p>
<p>潼関の戦いで見事に打ち破り、反乱の駆逐に成功しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>反乱を起こした多くの者達の半数近くが討ち取られたりしていきますが、</p>
<p>楊秋は曹操に降伏後に大きく出世を果たしているのは余談です。</p>
<table style="border-collapse: collapse; width: 100%;">
<tbody>
<tr>
<td style="width: 100%;">
<ul>
<li>馬超→最終的に妻子（閻圃妻になり、息子は処刑）・部下を捨て劉備の元へ。</li>
<li>韓遂→四年後に部下に殺害される。</li>
<li>楊秋→降伏後は、討寇将軍・位特進（三公に継ぐ程の名誉職）を経て臨涇侯に&#8230;</li>
<li>成宜・李堪→潼関討死。</li>
<li>梁興→翌年討死。</li>
<li>侯選・程銀→後に降伏。</li>
<li>張横・馬玩→不明。</li>
</ul>
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>&nbsp;</p>
<p>そればかりか曹丕が曹操の跡を継いだ２２０年に、</p>
<p>漢王朝（献帝）から禅譲を受けるように勧めた<span style="font-size: 12pt;">「魏公卿<span class="highlight">上尊号奏（公卿上尊号奏）」</span></span><span class="highlight">があるわけですが、</span></p>
<p><span class="highlight"><span style="font-size: 12pt;">この中に名前が残る４６人</span>の臣下の中で、</span><span class="highlight">楊秋は上から<span style="font-size: 12pt;">八番目</span>に名が残っていたりします。</span></p>
<blockquote class="wp-embedded-content" data-secret="QfuM4FKwrW"><p><a href="https://daisuki-sangokushi.com/2023/11/06/%e3%80%8c%e9%ad%8f%e5%85%ac%e5%8d%bf%e4%b8%8a%e5%b0%8a%e5%8f%b7%e5%a5%8f%ef%bc%88%e5%9b%9b%e5%8d%81%e5%85%ad%e5%90%8d%ef%bc%89%e3%80%8d%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/">「魏公卿上尊号奏（四十六名）」について</a></p></blockquote>
<p><iframe loading="lazy" class="wp-embedded-content" sandbox="allow-scripts" security="restricted"  title="&#8220;「魏公卿上尊号奏（四十六名）」について&#8221; &#8212; なんでも三国志" src="https://daisuki-sangokushi.com/2023/11/06/%e3%80%8c%e9%ad%8f%e5%85%ac%e5%8d%bf%e4%b8%8a%e5%b0%8a%e5%8f%b7%e5%a5%8f%ef%bc%88%e5%9b%9b%e5%8d%81%e5%85%ad%e5%90%8d%ef%bc%89%e3%80%8d%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/embed/#?secret=cVjgSfzhKo#?secret=QfuM4FKwrW" data-secret="QfuM4FKwrW" width="500" height="282" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no"></iframe></p>
<h3><span style="font-size: 18pt;">樊城の守護神（曹仁VS関羽）</span></h3>
<p>曹操は荊州の動向が不穏になってくると、</p>
<p>曹仁に荊州方面の守りとして樊城に曹仁を置いています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>侯音が宛城で反乱を起こした際には、これを討伐したのも曹仁でした。</p>
<p>この時に曹仁は<span style="font-size: 12pt;">征南将軍</span>に任じられているのは余談です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その後に関羽が襄陽城・樊城に攻め込んでくると、</p>
<p>曹仁は樊城にて迎え撃つものの、守備兵も少なく不利な状況だったといいます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹操は于禁に七軍を率いさせて援軍へと向かわせますが、</p>
<p>天候が関羽に味方した事もあり、于禁の軍勢は<span style="font-size: 12pt;">長雨による洪水</span>によって大被害を被り、</p>
<p>関羽へとあっさりと降伏してしまう事態に・・・</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>また樊城の外で陣を敷いていた龐徳もまた洪水に巻き込まれた一人で、孤軍奮闘するも捕らえられて処刑され・・・</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして曹仁が守る樊城も例外ではなく、<span style="font-size: 12pt;">樊城も半ば水没</span>してしまう事態となってしまいます。</p>
<p>樊城の兵士も数千程度であり、備蓄食料も少なく、危機的な状況でもありました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかしその中になって曹仁は諦めず、</p>
<p>兵を鼓舞して士気を上げ、満寵と共に樊城を守り通す事に成功しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>最終的に関羽の軍勢が樊城から撤退せざるをえなくなったのは、</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>徐晃によって関羽が敗北してしまった事、</p>
<p>そして江陵城が呂蒙・陸遜らによって打ち破られていたからでもあります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>まさに曹仁の粘り勝ちといった所だったでしょうね。</p>
<h3><span style="font-size: 18pt;">大将軍、そして大司馬にまで上り詰めた曹仁</span></h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-11744 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/豪華絢爛.jpg" alt="" width="747" height="419" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/豪華絢爛.jpg 1456w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/豪華絢爛-300x168.jpg 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/豪華絢爛-768x430.jpg 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/豪華絢爛-1024x574.jpg 1024w" sizes="auto, (max-width: 747px) 100vw, 747px" /></p>
<p>建安２５年（２２０年）に曹操がこの世を去ってしまうと、</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">曹丕は曹仁を車騎将軍に任じ、</span><span style="font-size: 12pt;">都督荊揚益州諸軍事を任せ、陳侯に封じています。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">この時に曹仁の父親である曹熾に対しても、陳穆侯が追贈されていますね。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ちなみにまだ曹操が生存していた際に、</p>
<p>曹彰が鳥丸賊・鮮卑族の討伐に命じられたことがあったわけですが、</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>鄴にいた曹丕は討伐に出陣する曹彰に対して</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">「大将となって法を遵法する事、征南将軍（曹仁）のようであれ！！」</span></p>
<p>と述べた事があり、曹丕の曹仁を高く評価していた事がうかがえる逸話となっています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>話を戻しますが、曹操が亡くなった事につけ込んで、</p>
<p>呉の軍勢が襄陽へと攻め込んできたわけですが、</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この時に襄陽城や樊城に食糧が確保できてないかった事からも、襄陽城を捨てる形をとっていますね。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>結果として襄陽城は孫権によって奪われてしまうわけですが、</p>
<p>その後に曹仁は徐晃と共に襄陽城奪取を成功し、見事に奪い返しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして曹仁は夏侯惇の跡を引き継ぐ形で<span style="font-size: 12pt;">大将軍</span>に任じられます。</p>
<p>後に臨潁に移屯を命じられる事になるわけですが、その際に<span style="font-size: 12pt;">大将軍に代わり、大司馬</span>に任じられる事に・・・</p>
<h3><span style="font-size: 18pt;">曹仁の最期</span></h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-11745 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/祀.jpg" alt="" width="747" height="409" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/祀.jpg 2628w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/祀-300x164.jpg 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/祀-768x421.jpg 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/祀-1024x561.jpg 1024w" sizes="auto, (max-width: 747px) 100vw, 747px" /></p>
<p>曹丕は孫権が臣従を誓って近づいた際に、</p>
<p>皇太子であった孫登を人質として送るように命じますが、</p>
<p>孫権がその命令に従う事がなかった為に、夷陵の大戦後をつくような形で<span style="font-size: 12pt;">三方面から呉へと侵攻を開始</span>したのでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この際に<span style="font-size: 12pt;">曹仁は濡須口への侵攻</span>を任されています。</p>
<ul>
<li><span style="font-size: 12pt;">濡須口（曹仁など）</span></li>
<li><span style="font-size: 12pt;">洞口（曹休・張遼・臧覇など）</span></li>
<li><span style="font-size: 12pt;">江陵（曹真・夏侯尚・張郃・徐晃など）</span></li>
</ul>
<p>&nbsp;</p>
<p>ただ濡須口攻略を任された曹仁ですが、</p>
<p>圧倒的に兵力的にも勝っていたにも関わらず、朱桓に撃退されてしまいます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ただこの戦いの直後に急死している事を考えても、</p>
<p>おそらく曹仁は病気を患っていた可能性も高いと個人的には考えています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>実際にこの濡須口の戦い（第三次）で朱桓の守る濡須城へと攻め込んで敗れたのは、</p>
<p>曹仁というより、息子である<span style="font-size: 12pt;">曹泰</span>だからですね。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>兎にも角にも長らく曹操・曹丕を支え続けた曹仁でしたが、</p>
<p>先程も軽く述べたように、この濡須口の戦い直後に病死しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そんな曹仁ですが、<span style="font-size: 12pt;">「忠侯」</span>と諡名が与えられ、</p>
<p>後に曹叡によって、曹仁は夏侯惇・程昱と共に<span style="font-size: 12pt;">曹操の廟庭</span>に祀られています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その後も<span style="font-size: 12pt;">曹操の廟庭に</span>は、２３人の人物（合計２６人）が合祀されていますが、</p>
<p>その最初の三人のうちの一人だった事を考えても、</p>
<p>曹仁の功績がどれほどまでに大きかったのが窺い知れる逸話の一つでしょう。</p>
<table style="border-collapse: collapse; width: 100%;">
<tbody>
<tr>
<td style="width: 100%;"><span style="font-size: 14pt;">-参考までに合祀された人物一覧-</span></p>
<ul>
<li>２３３年（曹仁・夏侯惇・程昱）</li>
<li>２４３年 （夏侯淵・曹洪・曹休・曹真・夏侯尚・張遼・楽進・張郃・徐晃・李典・臧覇・文聘・典韋 ・朱霊・龐悳・鍾繇・陳羣・華歆・王朗・桓階）</li>
<li>２４４年（荀攸）</li>
<li>２５１年（司馬懿）</li>
<li>２６２年（郭嘉）</li>
</ul>
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
	</channel>
</rss>
