三国志演義での劉封の死

横山光輝三国志より画像引用

 

呉と魏によって麦城に追い込まれた関羽が、

劉封と孟達が治める近場の上庸に援軍を求めたが、援軍を送りませんでした。

 

送らなかった理由として、上庸を治めたばかりで、

民衆を安定させることが最優先であったという理由からです。

 

 

援軍が来なかった関羽は、

そのまま孫権に捕らえられ、処刑されます。

 

関羽と義兄弟であった劉備の怒りを恐れた孟達は魏へ裏切るも

劉封は最後まで忠誠を誓い、闘います。

 

その後劉封は、関羽へ援軍を送らず見殺しにしたことを理由に、

劉備から処刑をを言い渡されてしまいます。

 

劉備は処刑を言い渡しましたが、

孟達から劉封に裏切るように書かれた手紙を破り捨てていたことを聞かされると、

劉封を許そうとしますが、時既に遅く首を斬られた後だったのです。

 

これが三国志演義での劉封が処刑された経緯です。

正史での劉封の死

劉封が関羽へ援軍を送らず、

そのことを責められたのは本当の事だけれども、

それと劉封の死は関係が薄い。

 

 

劉備の養子になっていた劉封は、

優れた人物でした。

 

そして劉備がこの世を去った時、

劉備の実子である劉禅と後継者争いで国が乱れる可能性があり、

それを未然に防ぐ為に、劉封を処刑したということに正史ではなっています。

 

ちなみにこのことを劉備に進言したのは、

諸葛亮になります。

結論

劉封が処刑された理由は、関羽へ援軍を送らなかった事ではなく、

後継者争いで劉禅と揉める可能性があったからということになります。

 

それだけ劉封が優れた人物であったからだといえますが、

それを理由に処刑されてしまった劉封の悔しさは、半端ないものだったと思います。