麋竺(子仲)
麋竺(びじく)は,もともと陶謙に仕えていました。
陶謙がこの世を去ると、その跡を継いだ劉備に仕えます。
彼の家は、資産家だったため、
劉備を金銭面などで多く支えていました。
また妹の麋夫人(びふじん)を劉備に嫁がせてます。
劉備が呂布に敗北し、曹操の元で世話になっていた時には、
曹操から気に入られ、「嬴郡(えいぐん)太守」に任命されています。
麋竺を嬴郡太守に任命したのは、
「嬴郡地域は治めるのに難しい地域で、麋竺のような才能を持った人格者が必要」
というのが理由だったようです。
それだけ曹操が麋竺を評価していたということです。
またこの時、弟の糜芳(びほう)も「彭城の相」に任命されます。
しかし劉備が曹操から離反すると、
麋竺・糜芳兄弟は、曹操から貰った地位を捨てて劉備に従っていきます。
劉備が入蜀した際には、
麋竺の長年の功績を考えて、安漢将軍の地位を与えられています。
糜芳の裏切り
劉備が蜀の地を入手後、
荊州での曹操・孫権・劉備の争いが激化していきます。
荊州を守っていたのは、劉備と義兄弟の関羽でした。
関羽は糜芳・傅士仁(ふしじん)に荊州城を任せ、
曹操を倒すべく、連戦連勝で北上。
しかしここで、孫権軍に背後をつかれてしまいます。
それだけでなく、荊州を守っていた糜芳・傅士仁が呉に寝返ってしまい、
孫権軍に荊州を占領される始末。
これによって関羽も討ち取られてしまいます。
これを知った麋竺は、大きく責任を感じて、
自らを縛って劉備の前に出て処罰を願い出ますが、
「裏切ったのは弟の糜芳であって、
麋竺には全く関係のない事だから気にするな!」
と劉備に言われ、許されます。
しかし麋竺は、劉備が許してくれようと、
恥ずかしさのあまりに病気になってしまいます。
そしてそれから1年足らずで、この世を去ってしまいました。
捜神記でも取り上げられた麋竺
捜神記(そうじんき)とは、
三国時代よりも後の東晋(4世紀)に書かれた小説で、
伝説的な話が記載されています。
この話では、麋竺が用事を済ませた後、
ふとしたことから知らない女性を馬車に乗せたそうです。
麋竺の優しさに触れた女性は、
「自分が天の使いで、これから貴方の家を焼きにいっている」
ということを、麋竺に伝えます。
そして「貴方の家を焼く事は決まっている事で避けられませんが、
私が到着する前に帰宅し、必要なものを全て持ち出してください」
と麋竺に助言をします。
これを聞いた麋竺は、家にあった財物を全て持ち出すことができたそうです。
そしてその後、家を焼かれています。
もちろん作り話でしょうけど、麋竺の誠実な人柄と周囲からも好かれた事を、
後世にこういう形で残したのでしょうね。