「陥陣営」高順

呂布に付き従った人物として

後に大活躍する事になる張遼が一番有名なのかもしれませんが、

 

もしも長く生きていたならば、

張遼同様に大活躍をした可能性のある人物がいました。

 

 

その人物は「陥陣営」の名でも知られる高順になります。

 

 

 

ちなみに高順の素性は不明な点が多く、出身地なども伝わっていません。

またそれだけでなくいつから呂布に仕えたのかも分かっていません。

 

 

ただそんな高順ですが、

「忠義に厚く、威厳があった人物で、

 

一切酒を飲むこともなく、

誰からも贈り物を貰う事もなかった」といいます。

 

 

そんな高順の部下の兵士は七百人だったといいますが、

日頃から兵士の鎧兜や武器の整備を怠る事はありませんでした。

 

いついかなる時でも戦えるるように、万全の準備をしていたという事ですね。

 

 

また高順が「陥陣営」と呼ばれるようになった所以は、

「高順は敵陣を必ず陥落させた」と書かれており、

 

そのことから「陥陣営」の異名をとるようになったようです。

郝萌の反乱

そんな高順の名前が戦いの中で登場するのは、

196年に呂布が劉備から下邳城を奪った後の同年6月の話になりますが、

 

高順同様に呂布配下であった郝萌かくぼうが反乱を起こします。

 

 

ちなみに郝萌のことは、陳寿の正史に注釈を加えられている、

「英雄記(漢末英雄記)」に記載されている話ですが、

 

「郝萌は呂布に反旗を翻して呂布を襲った」とあります。

 

 

この際に呂布は高順の元へと急ぎ逃げ込んでいます。

 

呂布は誰が犯人か分からなかったようですが、

高順に対して「襲撃者の中に河内の言葉を使う者達がいた」と話すと、

 

高順は「犯人が郝萌」だと分かったといいます。

 

 

そして高順は急ぎ葭萌の元へと兵を率いていき、

弓矢の一斉射撃をしかけて葭萌らを蹴散らす事に成功しています。

 

 

逃亡を試みた郝萌でしたが、

部下の曹性の裏切りにあって負傷しますが、

 

最終的に追撃してきた高順によって討ち取られてしまったのでした。

 

 

そして曹性から事情を聴くと、

「郝萌の反乱の黒幕は袁術と陳宮であった」

ということが判明します。

 

 

陳宮と言えば呂布の参謀的な立ち位置の人物ですが、

呂布と供に同席していた陳宮は何も弁明せず、

 

ただ真っ赤な顔をして下に顔を向けていただけだと・・・

 

しかし大将であったという理由で、

「呂布が陳宮を罰することはなかった」といいます。

 

 

「高順と陳宮の関係はよくなかった」と言われていますが、

おそらくこの時から陳宮に対して、不信感が大きく芽生えたのは間違いないでしょう。

陳宮 -曹操に厚遇されながらも、呂布の中に天下を見た智将-

臧覇討伐&劉備討伐

「英雄記」には次のような記載も残っています。

 

197年に臧覇が蕭建を撃ち破って莒県を占領すると、

蕭建と協力関係にあった呂布は怒って、臧覇を攻めようとしたことがありました。

 

 

その際に高順は呂布に対して、

「董卓誅殺の威光を利用して、

臧覇を従わせるべきです。

 

軽はずみな行動は失敗した時に、

ただただ名声を失う行為になってしまいます」

と臧覇攻撃を中止するように注意を促しました。

 

 

しかし高順の言葉は呂布に届くことはなく、

 

呂布は臧覇に攻撃を仕掛けますが、

臧覇によって撃退されることになったのでした。

 

 

 

また劉備が小沛の城に滞在していた頃、

劉備を攻め込むように命じられたのが中郎将であった高順でした。

 

 

これは198年9月の話になりますが、

 

高順は張遼と共に小沛城を陥落させ、

劉備の妻子を捕らえることに成功しています。

 

ただ肝心の劉備はというと、曹操の元へと逃亡した後でしたが・・・

 

 

またこの時に高順は劉備への援軍として、

曹操から送られてきた夏侯惇の撃退にも成功しています。

高順を冷遇した呂布

呂布の為に多くの戦果を残してきた高順ですが、

その結果とは裏腹に高順は次第に冷遇されていく事となります。

 

その傾向が見えるのは郝萌の乱がおきたあたりからであり、

呂布は陳宮の件からも少なからず味方を信じることができなくなっていったように思えます。

 

おそらく高順だけではなく、

他の配下についても同様の事が言えたのではないでしょうか!?

 

 

そして高順と苦楽を共にしてきた精鋭七百人の兵士は没収され、

呂布の一族であった魏続に渡されてしまいます。

 

また戦いの際にだけ信頼関係も何もない魏続の兵士を押し付けて戦わせたりと・・・

 

 

しかし高順がこれに対して、恨みを言った事もなかったといいます。

 

高順はただただ主君であった呂布の為に、

与えられた環境・条件下で精一杯に仕え続けたのです。

 

 

ただ高順の気持ちとは裏腹に、

呂布が高順に厚く用いられることは最後までありませんでした。

 

そして最後は魏続・侯成・宋憲らの裏切りを招いてしまい、

下邳城は陥落してしまう事となります。

 

 

これにより高順も捕らえられてしまう事になるのですが、

曹操に仕えることもなく絞首の刑によって絶命したといいます。

 

 

 

高順同様に捕らえられた張遼は、曹操に降った後に大活躍をしていくわけですが、

これは後に捕らえられることとなる臧覇も同様ですね。

 

おそらくですが優れた人物を好む曹操は、

高順に対しても強く降伏するように説得をしたのではないかと思っています。

 

陳宮も曹操の説得に応じず処刑される道を選択していますが、

高順もまた最後の最後まで呂布に忠義を尽くす道を選択したのでしょう。

「忠臣は二君に事えず」と・・・

 

 

ただもしもがこの世の中にあったならば、

後世まで生き抜いて活躍している高順の姿を見たかったものです。

 

そう不思議と思わせてくれるのが高順の魅力ですね。