袁紹に仕官する前の沮授

沮授そじゅ冀州広平郡の出身で、若い時から権謀術数に優れており、

また大きな志を抱いていた人物でもありました。

 

そんな沮授ですが個人伝が残されていない人物であり、

「魏志」武帝紀(曹操)や「魏志」袁紹伝などからその生涯を見ることができます。

 

他にも「後漢書」袁紹伝や「献帝伝」などにも記載が残されていますね。

 

 

沮授は冀州別駕となり、茂才に推挙されたといいます。

そして二県の県令を歴任する事になります。

 

 

そして沮授は冀州別駕の時に仕えた主君は誰かが分かっていませんが、

出来る範囲で推測してみようとも思います。

 

後に沮授が仕える韓馥が、初平元年(190年)春正月の頃には、

董卓により冀州牧に任じられていた事が分かっていますので、

 

霊帝が崩御し、その後の混乱の中で董卓が専横を開始した、

中平六年(189年)に任じられていたのでしょう。

 

 

ちなみに皇甫嵩が184年に冀州牧に任じられていますから、

普通に考えると、その間の冀州牧(冀州刺史)の誰かに仕えたという事だろうと思います。

 

 

では誰に仕えたのかというのは完全な推測になってしまいますが、

自分が知る限りでは次の誰かになるだろうと思います。

  • 皇甫嵩(184年/冀州牧)
  • 賈琮(おそらく187年か188年/冀州刺史)
  • 王芬(時期不明/おそらく賈琮後の可能性/冀州刺史)
  • 李邵(時期不明/おそらく賈琮の前/冀州刺史)
  • 劉焉(時期不明/冀州刺史)
  • 公孫度(時期不明/冀州刺史)

 

 

上でも軽く述べましたが、

その後に董卓により冀州牧に任じられた韓馥に仕えることになった沮授ですが、

 

袁紹によって韓馥が追われるように冀州牧を譲り渡してしまうと、沮授は袁紹に仕える事となります。

 

この時に韓馥から袁紹に仕えるようになった人物に、

沮授以外にも田豊・審配・張郃などがいたりしますね。

沮授の数々の献策

新たな主君となった袁紹に対して、

沮授は次のことを成し遂げるための献策をしています。

  • 青州黄巾賊の討伐
  • 黒山賊の討伐(張燕の討伐)
  • 匈奴の討伐
  • 公孫瓚の討伐
  • 冀州・青州・幽州・并州の統一
  • 人材の教化
  • 長安にいる帝(皇帝)の奉戴

 

沮授の献策を聞いた袁紹は大変に喜び、監軍・奮威将軍に任じています。

 

監軍は兵を指揮する権限を持った者に与えられた役職であり、

沮授がどれほどまでに袁紹から信頼されていたかの証だと言えるでしょう。

 

 

後に沮授に権限が集中する事をねたんだ審配・郭図によって、

権限が分散されてしまうわけですけど、それはもう少し先の話になります。

 

 

興平二年(195年)の七月になると、

献帝が李傕・郭汜の暴政に耐え切れずに長安から脱出したわけですが、

 

色々と苦労しながらもなんとか、

その年の十二月に黄河を渡って河東郡安邑県(司隸)に到着しています。

 

案外知られてはいませんが、献帝はこの時に安邑県を都としています。

 

 

ただこの時の献帝が置かれていた状況は悲惨なもので、

きりで文字を刻んまれただけの印綬を使ったり、あばら家に住んでいたほどだったといいます。

 

この時に献帝のもとへと訪れた者達は多かったといいますが、

袁紹のその中の一人で、郭図を使者として派遣していたようです。

 

そして献帝の状況を把握した郭図は、

袁紹のもとへと戻ると、献帝を鄴へ向えて都とするように進言しています。

 

 

ただ袁紹が郭図の意見を取り上げることはなかったようですが、

沮授は郭図の意見に同意して次のように述べています。

「世の中は乱れに乱れ、帝の命令に従う者達がいません。

 

そんな中で袁紹様が帝を奉戴して、鄴を都とした上で、

帝の命令に従えば、誰も袁紹様に勝てるものなどいましょうか!?

 

 

そして一刻も早く行動すべきです。

そうでなければ他の者達に先に帝を迎えられてしまいます。」

 

 

 

ただ意味不明なことに、帝を迎えて鄴を都とするように勧めた郭図が、

「帝の命令に従うのは都合が悪い」と反対していますし、

 

袁紹自身も沮授の言葉に従う事はありませんでした。

 

 

袁紹は以前に沮授の言葉に大変喜んでいたにもかかわらず、

実際に行動に移すべき時に動けない人間であったことの良い証明でしょうね。

 

 

そして最終的に献帝を迎え入れて、

許昌を都としたのが曹操だったのは言うまでもないでしょう。

 

もしもこの時に献帝を迎えていたのが袁紹であったならば、

その後の二人(袁紹・曹操)の未来が大きく変わっていた可能性は高いと思いますね。

長期戦(沮授・田豊)VS短期戦(審配・郭図)

建安四年(199年)に入ると、

沮授が言っていた事の一つとして公孫瓚を討ち滅ぼす事に成功し、

冀州・青州・幽州・并州の四州の支配に成功しています。

 

このさいに袁紹は自らの一族に各地を任せています。

  • 冀州-袁紹自身
  • 青州-袁譚(長男)
  • 幽州-袁煕(次男)
  • 并州-高幹(袁紹の甥)

 

本来であれば可愛がっていた三男である袁尚にも、并州なりを任せようとも考えていたようですが、

袁尚がまだ幼かったことを理由に高幹に任せたとされていますね。

 

 

この際に沮授の考えとして、

袁譚が一州を統治する能力に欠けている点を危惧した話も残されていますが、

 

個人的な話としては、袁紹が生存していた際に、

袁紹の長男として一州を任せて経験を積ませる判断は間違ってなかったとも思ってはいます。

 

 

長男が跡継ぎにならなかった際に国が乱れることはよくあることでしたから・・・

 

身近な例としては劉表の跡継ぎ問題といえるでしょう。

 

 

袁紹と曹操との激突が迫る中で、

田豊は劉備が後方で徐州刺史であった車冑を殺害して独立を果たす事件が発生します。

 

曹操は劉備討伐に向かうわけですが、

この隙をついて許昌襲撃を強く勧めたのが田豊でした。

 

しかし袁紹は息子が病気であることを理由に動くことはなく・・・

 

 

その翌年である建安五年(200年)に劉備討伐に成功すると、

それまで息子の病気だと動く事もなかった袁紹が、曹操領への進出を本格化させます。

 

沮授は田豊と共に長期戦を主張しますが、袁紹は審配や郭図が主張した短期戦を選択し、

曹操へと戦いに向かっていくわけです。

 

 

またこの際に審配と郭図は、沮授の大きすぎる権限を嫉妬し、

「沮授殿は内外に大きな力を持っており、

あまりにも危険すぎます」と半ば讒言する形で進言しています。

 

 

その言葉を聞いた袁紹は納得し、

沮授が任されていた監軍の権限を郭図・淳于瓊と分ける形にしたのでした。

 

 

その上で袁紹は曹操との決戦に望んでいくわけですが、

その前に沮授は一族に財産を分け与え、弟に次のように語った逸話が残されています。

「曹操は優れた人物であり、天子を奉戴している。

 

一方で我々は公孫瓚に勝利したばかりで疲弊している上に、

袁紹様も将兵達も皆おごり高ぶっている。

 

 

そんな状態で曹操との戦いに勝つことは難しいだろう。」

最期まで聞き届けられなかった沮授の献策

袁紹は兗州東郡白馬県へ侵攻して攻撃を仕掛けます。

 

白馬県を守備するのは東郡太守であった劉延でしたが、

そこに袁紹は郭図・淳于瓊・顔良らに命じて攻めさせたわけです。

 

この時に沮授は袁紹に対して、

「顔良殿は勇猛ではありますが、

性格が度量が狭くて将の器ではありませぬ。」

と進言するも袁紹がそれを聞き入れる事はありませんでした。

 

その結果として沮授が危惧したように、顔良は関羽によって討ち取られてしまいます。

 

 

白馬で敗れた袁紹ですが、延津へと進軍しようとした際には、

病と称して軍を率いる事を辞退しています。

 

袁紹がら数多の意見を退けられた事で、沮授は袁紹に愛想を尽かしていったのでしょうね。

 

 

ただこの沮授の事態に大きな怒りを感じた袁紹は、沮授の軍勢を郭図に配属させています。

負け軍師の異名を持つ郭図に・・・

 

その後も全軍で進軍する事の危険性を袁紹に説いたりもした沮授ですが、

その言葉も袁紹に聞き届けられる事はなく、

「私は二度と黄河を渡って冀州に戻れることはないだろう」

と嘆いた逸話が残されていますね。

 

そして官渡の戦いで鳥巣の砦が曹操によって襲撃を受けると、袁紹は大敗してしまうのでした。

鳥巣守備隊:淳于瓊・眭元進・韓莒子・呂威璜・趙叡など

 

 

その中で沮授もこの際に捕らえられています。

 

ちなみに鳥巣襲撃を危惧した沮授は、

「蒋奇を別動隊として外側に送り、曹操に備えるべきです」

とここでも助言していたのは余談です。

 

ただ袁紹は最後の最後まで沮授の提案を採用する事はなかったのですが・・・

沮授を非常に高く評価した曹操

曹操は沮授とは昔馴染みであったこともあり、

「お互いに別々の人生を歩んで音信不通になってしまっており、

今日という日に貴方を捕虜にする時がこようとは予想すらしなかった。

 

袁紹が負けたのは貴方の考えを用いなかったからである。

共にこの乱世を平らげる為に力を貸してくれ!」

と沮授を説得するものの、

 

沮授は曹操の言葉にうなずくことはなく、

「一刻も早く処刑して頂けることが私の幸せであります。」

と袁紹への忠義を貫き通したのでした。

 

その言葉を聞いた曹操は、

「私が早くに貴方を味方にできていたら、

天下平定も思いのままであったのに・・・」と嘆いたといいます。

 

 

「魏氏春秋」を著した事でも知られる東晋時代の孫盛は、

 

袁紹に用いられなかった沮授と田豊に対して、

「田豊と沮授は張良・陳平に匹敵するほどの人物であった」

と高い評価を与えています。