官渡の戦いで曹操の勝利に終わったのは、
鳥巣の襲撃であるというのは有名なお話ですよね。
この時に袁紹を裏切り、鳥巣の情報をもたらしたのが
いわずもがな今回紹介する許攸なわけです。
そんな許攸の生涯についてみていきます。
許攸(きょゆう)の霊帝廃止計画
許攸は若かりし頃、王芬(おうふん)と手を組んで、
「後漢の霊帝を廃そう」と企んでいました。
有名な所として董卓があげられるでしょう。
実際に董卓が少帝(劉弁/霊帝の子)を廃して、
献帝(劉協)を即位させている事実がありますから・・・
ただ許攸・王芬の計画は、
それより以前に計画していたものだという事ですね。
まぁ霊帝は劉弁の父親なので、時代的に当たり前な事なんですけども・・・
しかしこの計画は未遂に終わり、
普通に失敗しています。
許攸は曹操や袁紹とも面識があり、霊帝廃止計画が失敗した後、
名門出身である袁紹の元に身を寄せることとなります。
ちなみに余談ではありますけど、
許攸・王芬は、曹操を霊帝廃止計画に誘っています。
曹操は呉楚七国の乱の例えを持ち出し、普通に聞く耳持たず!!
この辺りはさすが曹操といったところでしょう。
ちなみに許攸は袁紹の元に身を寄せていますが、
もう片方の王芬はというと、計画失敗後に自害しています。
袁紹の元での許攸の立ち位置
袁紹に仕えてからの許攸はというと、
袁紹軍参謀である田豊・沮授・荀諶らと同等の評価をされています。
袁紹から相当高い評価をされていたということになりますね。
まぁ個人的に言うと、他の参謀があまりに優れていた為、
この評価は怪しい感じがめちゃくちゃにしますが、
ただ実際に正史ではそのように記載されているのが事実ですね。
しかしそれだけ高い評価をした袁紹自身も、
霊帝廃止計画を立てたり、金に目がなかった許攸を心の底から信頼したかというと、
信用できなかったというのが正直な所ではあるんですが・・・
官渡の戦いでの献策
蒼天航路(16巻90P)より画像引用
許攸は官渡の戦いの際に、
「曹操の本拠である許都を襲えば、
曹操を倒すことができる!」
と袁紹に進言していますが、袁紹がその言葉に従う事はありませんでした。
この事がきっかけとなり、
許攸は袁紹裏切る事を決意したといいます。
ただその最中の曹操はというと、袁紹軍によって大きく苦しめられていただけでなく、
残りの食糧も残り一ヵ月分しかありませんでした。
そんな状況であったからこそ、許攸が降伏してきた時には、
裸足のまま飛び出すほどに許攸の降伏を喜んだと伝えられています。
そして許攸は
「袁紹軍の食糧が貯めこまれているのが、
鳥巣であるからこそ、
曹操様は直ちに鳥巣襲撃すべきである!!」
と進言しています。
この許攸の進言に対して、
曹操参謀であった荀攸・賈詡も賛成してますね。
そして曹操は精鋭五千人を率いて、
鳥巣を強襲!!!
これにより鳥巣の食糧は焼き払われ、
鳥巣の守将であった淳于瓊を捕らえる事に成功しています。。
曹操が淳于瓊に対して、
「なぜお前が敗北したのか分かるか!?」
と尋ねると、
「勝敗とは天が決めるものである!
これ以上に私に何を問うことがあるか!!」
と淳于瓊は答えたといいます。
この言葉を聞いた曹操は、
前からの知人でもあった淳于瓊を降伏させようとしますが、
淳于瓊を捕らえた時に。淳于瓊の鼻を削いでいたことから、
許攸が淳于瓊の降伏に大きく反対したのでした。
反対した理由は簡単なもので、
「淳于瓊が後で自分の顔を鏡で見たら、
曹操様に対して大きな恨みを抱くことでしょう!」といったものでした。
曹操は許攸の言葉に対して
「確かに・・・」と納得し、淳于瓊を処刑してしまいます。
ただこれは「曹瞞伝」に記載が残る内容であり、
「楽進伝」には楽進が戦いの中で、
淳于瓊を斬ったという風に単純に書かれています。
どちらが実際に正しいのかは推測するしかありませんが・・・
ただ捕らえた際にすぐに鼻を削ぐというのも違和感があるので、
個人的には戦いの中で楽進が単純に斬り伏せたというのがしっくりきます。
曹瞞伝は、三国志の魏書を書く上で参考にされたものですけど、
そもそも敵国である呉で作られた著書であり、
曹操という人物を単純に貶める内容も多々含んでいるために、
記載内容の信憑性が疑わしい所も多々あるのも理由の一つではありますね。
調子に乗ってしまった許攸
官渡の戦いは許攸の情報が決め手となり、
曹操の勝利で幕を下ろしました。
ただ許攸は曹操と旧知の知り合いではあったことを理由に、
主君である曹操に対して鼻につく発言をしたりします。
「私が君の味方をしたお陰で、
念願の冀州を手に入れる事ができたよね!」
といった風に・・・
そして曹操は許攸の発言に対して、
「それは間違いないな!」と笑って聞き流す大人の対応・・・
しかし許攸はこれだけに止まらず、
周囲の者に対しても同じような発言をして自慢するわけです。
そんな許攸の発言が自分自身の命運を決めるのに、
それほど時間はかかりませんでした。
それは204年に袁紹の息子達をうち滅ぼすべく冀州に侵攻し、
袁尚が本拠地としていた鄴を攻め落とすことに成功した時のことです。
鄴城攻略ということで少し余談を入れますが、
曹操はこの鄴の城を落とす殊に非常に苦戦したんですけど、
この時に鄴城を守っていたのが審配という人物ですね。
ちなみに審配という人物が、
どれぐらい曹操の攻撃を防いで頑張ったのかというと以下の感じですかね。
①蘇由の裏切り
→蘇由の計画を事前に察知して、蘇由を討伐。 蘇由は逃亡して曹操に降伏!
②地下道を掘って城へ侵入を試みる →普通に見破られて失敗!
③馮礼が曹操軍に寝返り、曹操兵を場内に引き入れる →馮礼の裏切りを利用して、 侵入した曹操軍に石を城壁より落としまくって撃退!
④糧道の切断&鄴城を水攻め →多くの者が飢え死にしていますが、 それでも二カ月以上にわかって鄴城を死守! |
審配の話で許攸から話がそれましたけど、
審配のこの奮闘ぶりはやっぱり紹介したくなりますね(笑)
まぁそのあたりは審配の記事に書いてるものですけど・・・
話を許攸に戻すと、
それは許攸が鄴の東門を通った際のことでした。
「曹操は私を手に入れることができたから、
本日この門を出入りできたのだ!」
とまたしても周りに自慢を始めたわけです。
これにはさすがに曹操も堪忍袋の緒が切れて、
「いつまで昔の事を言い続けているのだ!!」
と激しく怒り、許攸は処刑!!
とりま許攸の生涯を一言で言い表すと、
完全に自己自滅型の人間の一言に尽きるかなと思います。
本質として大した人物でもないからこそ、
自分の能力以上の事をやろうとしたのでしょうし、
「自分は物凄く偉大な人物なんだぞ!」
と自分を認めてもらう事にこだわったのでしょう。