淳于瓊(じゅんうけい)

淳于瓊と聞くと、官渡の戦いで、

鳥巣の食糧庫を守っていたにも関わらず、

 

曹操に強襲されて、食料を奪われてしまい、

その際に酒飲んでて油断していたなどとも言われています。

 

官渡のイメージが悪すぎて、悪印象を残してる淳于瓊ですが、

実際は結構凄い経歴の持ち主なので、

今回はそんな淳于瓊の生涯を振り返ってみようと思います。

後漢時代

淳于瓊はもともと後漢に仕官し、

霊帝に仕えていました。

 

霊帝の時代、宦官の専横もあり、

後漢に不満を持つ者達が、各地で反乱を起こしていました。

黄巾の乱を起こした張角もその一人です。

 

その対応策として、

188年に霊帝の直属部隊を作ります。

 

この部隊を、

西園八校尉(さいえんはつこういといいます。

 

この西園八校尉には、

袁紹や曹操も選ばれています。

 

その袁紹や曹操と並んで任命された一人が、

淳于瓊になります。

 

西園八校尉に任命されている事からも、

淳于瓊が無能ではなかった一つの証拠かと思われます。

袁紹から都督に任命される

霊帝がこの世を去り、

董卓が洛陽に入城した事で、世の中が乱れます。

 

霊帝の跡を継いだ少帝が董卓によって廃位され、

献帝が新たに擁立させられます。

 

淳于瓊は、董卓の専横を見て、

危険を感じ、洛陽を脱出しています。

そして元同僚であった袁紹の元に身を寄せます。

 

そして袁紹軍内でも順調に出世していきます。

 

もともと沮授(そじゅ)が、

監軍という役職を担い、軍事権を持っていました。

 

 

しかし袁紹は、郭図(かくと)から、

沮授一人に権限を集中させておくのは危険だと進言されます。

それによって監軍は三分割にされ、三都督が置かれます。

 

これに任命されたのが、

沮授・郭図・淳于瓊の3人になっています。

官渡の戦い

 

袁紹と曹操が激突したのが、

白馬の戦い・官渡の戦いですが、

淳于瓊の名前が出てくるのは官渡の戦いの方になります。

 

ここで袁紹軍の許攸が曹操に裏切り、

袁紹軍の命綱ともいえる食糧貯蔵庫が鳥巣にある事がばれてしまいます。

 

この時、袁紹軍の食糧を鳥巣で守っていたのが淳于瓊ですが、

曹操の強襲に会い、食糧庫を焼き払われてしまいます。

 

 

もちろん袁紹も鳥巣の食糧庫が大事だという事が分かっていたので、

三都督の一人である淳于瓊を守らせていたのです。

 

決して能力がなかったからではなく、

袁紹に信用されていたからこそ起用されていたのです。

 

 

実際曹操に強襲された淳于瓊ですが、

都督の名に恥じない戦いぶりを見せ、曹操軍を苦しめています。

 

苦しめられながらも淳于瓊の軍団を壊滅させた曹操ですが、

曹操軍によって淳于瓊は捕らえられてしまい、

最終的に処刑されてしまいます。

官渡の戦いで勝利の立役者になった許攸

 

ただ淳于瓊の最後には別説もあって、

楽進が淳于瓊を討ち取ったともいわれています。

三国志演義(官渡の戦い)での淳于瓊

官渡の戦いについて、

三国志演義では次のように記載されています。

 

淳于瓊は非常に酒が好きで、

その日も酒を飲んで、完全に油断していました。

 

そこに曹操軍が攻めてきて、

淳于瓊の軍団は壊滅させられてしまいます。

 

曹操に捕らえられた淳于瓊は、

鼻と耳と指を全て切り落とされて、袁紹の元へ送られます。

 

袁紹の元に届けられた淳于瓊は、

酒に溺れて鳥巣を奪われてしまった淳于瓊を許さず、

その場で切り殺しています。

淳于瓊の評価

官渡の戦いでのイメージが先行してしまい、

それまでの彼の経歴についてはスルーされてることが多いですが、

 

実際の彼は、霊帝直属部隊に選ばれるほどの実力者で、

官渡の戦いで主役を演じた曹操と袁紹と同じ立場でした。

 

そして袁紹の元でも、都督を任されていることからも

決して無能な人物ではありません。

 

現在多くの人が持ってる淳于瓊のイメージは、

三国志演義によって作られたものに過ぎず、評価を見直して欲しい人物の一人です。