闞沢(かんたく)

闞沢は貧しい農家の出身でしたが、

懸命に努力し、勉学に励んでいました。

 

また紙や墨を準備できる余裕もなかった為、

写本のバイトをした傍ら、余った紙や墨を使わせてもらっていたそうです。

 

また人から借り受けた書籍は、

返却する時には全て暗唱していたといいます。

 

 

勉学の甲斐もあって、闞沢は県長に任命され、

その後孫権に招かれる事になります。

 

孫権が皇帝に即位すると、順調に出世していき、

尚書・中書令・侍中を歴任しています。

 

孫権に知識を見込まれた闞沢は、

孫権の子である孫和(そんか)・孫覇(そんは)の家庭教師を任されています。

 

闞沢はこの期待にも応え、

解釈が難しかった経書等を簡略化して、

孫和・孫覇に分かりやすくしてから教えたそうです。

 

また孫和・孫覇が外出する際や賓客と接する際の礼儀作法も

きちんと文書にまとめて教えています。

 

 

孫権から非常に信用され、ことあるごとに闞沢の意見を求め、

ある時「世の中でもっとも優れた文書はなにか?」と闞沢に聞くと、

 

「過秦論」を推薦して、

国家というものの在り方を知ってもらおうとしています。

 

この「過秦論」は、前漢時代の賈誼(かぎ)が書いたもので、

秦が中国全土を統一したにも関わらず、たったの二代で滅亡に至った原因を分析したもので、

呉が長らく反映する為に薦めたのでした。

 

 

また世の中の不正を防ぐ為に必要な事を問われた際には、

法律や刑罰を厳しくするのではなくて、

礼律を重んじて、礼律を根本とすべきだと孫権に説いています。

 

 

闞沢は謙虚で慎み深い性格で、人の短所を口にせず、

どんなに身分が低い者にも平等に礼儀を尽くしたことから、

周りからの信頼も大きかったようです。

 

234年、天寿を全うしてこの世を去っています。

孫権は闞沢の死を悲しみ、数日間食事も喉を通らなかったそうです。

暦(こよみ)の修正

 

当時の呉では、

「乾象暦(けんしょうれき)」という暦を使っていました。

 

これは後漢末に劉洪(りゅうこう)が作ったものですが、

呉が滅びるまで、223年~280年の間で使われていたものです。

 

ちなみにこれは一年を365.2462日とし、

一ヵ月を29.53054時間としたもので、現在の暦に非常に近い物でした。

 

 

しかしどうしても誤差が出てくるという欠点があり、

闞沢は、「乾象暦注」の著して、暦の誤差を修正しています。

三国志演義での活躍

 

三国志演義では、

赤壁の戦い時に、黄蓋が苦肉の策を使うと、

偽の降伏状を曹操に届ける役目を任されたのが闞沢でした。

 

ちなみにですが、

周瑜と黄蓋の間で仕組まれた苦肉の策は、闞沢に見破られています。

それを見込まれての使者でした。

 

曹操の元に行った闞沢でしたが、

曹操にも優れた者達が多かったため見破られそうになります。

 

しかし闞沢は臨機応変に対応し、

曹操を信じさせ、赤壁の勝利へ繋がっていきます。

 

 

また夷陵の戦いでは、

陸遜を大都督に任命し、劉備にあたらせることを進言し、

 

それを聞き入れた孫権は、

陸遜を大都督に任命し、劉備軍に勝利しています。

闞沢の評価

同じく孫権に仕えていた虞翻は、

「抜きんでた才能を持ち、儒学にも徳行にも優れ、彼こそ現代の董仲舒なのだ」

と褒め称えています。

 

ちなみに董仲舒(とうじゅうじょ)は、

前漢時代の人で、清廉潔白な上に徳も高く、学問の発展に人生を費やし、

儒家の思想を国家教学とすることを献策した人物です。