曹仁(そうじん)

曹仁は、曹操の従兄にあたり、

若い時から武勇に優れ、弓術・馬術を得意とし、

狩猟を好んでやっていました。

 

反董卓連合が結成されると、

曹仁は1000人余りの若者を集めて挙兵し、

徐州で暴れまわっていましたが、その後曹操の傘下に加わっています。

 

曹操は曹仁を非常に重用し、

大事な戦いには常に曹仁を参加させていました。

 

その為、曹仁が手柄を立てても、

各地の太守には任命せず、側に置いていたそうです。

各地での大活躍

 

193年、袁術討伐を行った際は、

袁術軍の多くの兵士を討ち取り、捕縛する活躍を見せています。

 

そして曹操の父である曹嵩(そうすう)が、

徐州で殺害されると、徐州の陶謙討伐に出兵します。

 

ここでも曹仁は、

曹操軍の先鋒隊として奮闘しています。

 

また張繍討伐をした際に、

曹操が鄒氏に夢中になった事で、

張繍・賈詡の罠にかかってしまい、曹昂(そうこう)・典韋等を失ってしまいます。

 

その時も曹仁は奮闘し、

張繍の追撃を防ぎ切り、曹操を守っています。

 

また呂布討伐に乗り出した時も、

敵将を捕らえるなどの活躍をしています。

袁紹&袁紹軍残党での活躍

呂布を討伐し、袁紹と激突した際には、

袁紹軍として出陣していた劉備を撃破する働きを見せています。

 

 

205年には、袁紹軍残党の高幹の籠城する壷関(こかん)を包囲した際、

曹操は「敵は一人残らず穴埋めにせよ!」と布令しますが、

これを聞いた高幹軍は徹底的に交戦し、陥落させることができませんでした。

 

そんな時に、曹仁が曹操に次の進言をします。

「城(砦)を囲む際は、

必ず生き残れる道を残しておくべきものです。

 

ただでさえ堅固な城(砦)で、

100%殺されると分かっていれば、相手は最後まで必死に抵抗するので、

それはあまり良い事ではありません」

 

それを聞いた曹操は、曹仁の意見に従います。

そうすると壷関を守っていた多くの兵士達は曹操に降伏し、

壷関を攻略する事に成功します。

荊州防衛戦での活躍

赤壁の戦いで大敗を喫した翌年の209年、

荊州平定に出陣してきた数万の周瑜軍を江陵で迎え撃っています。

 

この時曹仁の命令を受けて出陣した牛金(ぎゅうきん)が

周瑜軍に包囲されていました。

 

この時曹仁は、周りの反対を押し切って、

数十騎で包囲網に突撃し、牛金を救い出しています。

 

数十騎で牛金を救い出してきたのを見て、

「将軍は天上世界のお人だ!」と周りは驚いたと言います。

 

少ない兵力にも関わらず善戦し、

1年程度江陵を守り抜きますが、最終的には奪われてしまいます。

 

ちなみにこの戦いで、曹仁は周瑜に重傷を負わせ、

その傷が元で周瑜は亡くなっています。

 

また荊州南部の各郡も、

劉備軍の侵攻もあって制圧されてしまいます。

潼関の守護神

また涼州・雍州で韓遂・馬超が暴れだすと、

潼関(どうかん)の守りを任され、無事に守り切っています。

 

その後は曹操自身も援軍として出向き、

韓遂・馬超軍を打ち破っています。

樊城の守護神

 

曹操は、荊州の動向が不穏になってくると、

曹仁に荊州の守りとして樊城(はんじょう)を曹仁に守らせています。

 

関羽が荊州北部に攻め込んでくると、

曹仁は迎え撃つ体制を整え、待ち構えていました。

 

 

関羽が進撃してきたことを聞いた曹操は、

急ぎ于禁に曹仁の救援に向かわせます。

 

そんな折に、漢水が大洪水を起こして、

于禁はほとんどの兵を失い、捕らえられてしまいます。

 

また曹仁軍として、樊城の外で陣を敷いていた龐徳の陣も

大洪水に巻き込まれてしまい、関羽によって斬首されてしまいます。

 

 

この大洪水によって樊城も半分以上が水没し、

関羽によって船で包囲されている状態で、

残り樊城に籠る兵も数千で、食糧もつきかけていました。

 

しかしそれでも曹仁は諦めず、

満寵と共に軍規を徹底し、兵を鼓舞して粘ります。

 

そして徐晃(じょこう)の援軍が到着し、

絶望的な状況の中にあって樊城を守り通しています。

 

その後、背後にあった江陵が呂蒙によって落されたため、

関羽軍は樊城の包囲を解いて、撤退しています。

襄陽争奪戦

曹操がこの世を去り、曹丕が跡を継ぐと、

呉が襄陽へ攻め込んできます。

 

この時、襄陽と樊城に食糧がなかったことから、

周りの意見に押され、荊州北部を捨てて宛まで撤退しています。

 

その後襄陽を奪われてしまいますが、

食糧を確保した曹仁は、襄陽へ攻め込んで取り返すことに成功しています。

第三次濡須口の戦い

曹仁は大将軍に任命され、

孫権対策として、合肥の城を守ることになります。

 

222年夷陵の戦いで勝利した呉の背後を狙って、

曹丕は三方面から呉へ攻め込みます。

  • 曹仁・・・濡須口
  • 曹休・張遼・臧覇・・・洞口
  • 曹真・夏侯尚・張郃・徐晃・・・江陵

 

濡須口攻略を任された曹仁ですが、

圧倒的に兵力が勝っていたにも関わらず、

濡須口を守っていた朱桓に撃退されてしまいます。

 

生涯戦いに明け暮れた曹仁ですが、

それから間もなくして、この世を去っています。

まとめ

 

もし曹仁がいなければ、

曹操はとっくに討ち取られていた可能性もありますし、

何より曹操は、ここまで領地拡大できていなかった可能性もあります。

 

それほど曹仁が曹操軍の中で欠かせない存在で、

生涯を通じて大きな失敗はなく、何度も成果を上げています。

 

 

三国志演義では、

諸葛亮や周瑜に翻弄されたような書き方もされた曹仁で、

引き立て役になったりすることも多かったですが、

 

実際はそんなことはなく、

何度も国を救った英雄の一人であったのは間違いないと思います。