呂範(りょはん)
呂範は若かりし頃、役人として働いていましたが、
貧しい生活を送っていました。
そんな呂範ですが、容姿が整っていたこともあり、
郷里の豪族であった劉氏の娘を妻に娶ります。
しかし劉氏の妻は、呂範が貧しかったことで、
娘が苦労することを気にしましたが、
劉氏は呂範の顔を見て、
「呂範は只者でなく、貧乏なままで終わるような人物ではない」と妻を説得し、
娘を呂範に嫁がせました。
孫策との出会い
呂範は、戦乱を避けて春寿に避難するのですが、
そこで孫堅亡き後の孫策と運命の出会いを果たすことになります。
孫策と意気投合した呂範は、
食客100人を率いて、孫策に従うことを決意します。
ある時、孫策が陶謙が治める徐州の地にいる母親を、
自分の元へ呼ぼうと考えた際には、呂範がその使者として選ばれます。
しかし呂範が袁術の手先であると疑った陶謙は、
呂範を捕らえ、拷問にかけてしまいます。
それを知った呂範の食客達は、
呂範が捕らえられている役所を襲撃し、呂範を奪い返します。
孫策の元に戻ってきた呂範は、
孫策から絶大な信頼を受け、家族同様の扱いを受けています。
そして呂範は江東侵攻にも同行し、江東制圧に尽力します。
孫権に仕える
200年に孫策が死去すると、
孫策の弟である孫権に仕えます。
孫権が黄祖討伐の為に江夏へ攻め込むと、
信頼していた呂範・張昭に留守を預けています。
また208年になると、曹操が攻め込んできますが、
呂範は周瑜に従軍して戦い、赤壁の勝利に貢献しています。
その功績に報いて、平南将軍にも任命されます。
劉備対策
劉備が揚州の京城を訪れた際には、
周瑜と共に、劉備を留めおくことを進言していますが、
この進言は孫権に却下されています。
その後の劉備は荊州南部を制圧し、
益州の劉璋を降す快進撃をすることになります。
後に荊州問題で関羽との争いが起こると、
孫権は「呂範の言っていたことに従っておけば、
今頃こんな苦労する事はなかった」と言ったそうです。
洞口の戦い
222年になり、魏が三方より攻めてきた際には、
呂範は徐盛・全琮・孫韶らを指揮して、曹休・張遼・臧覇軍を洞口で迎え撃ちます。
しかし呂範軍は、暴風雨に襲われ、
船団を流されないようにつないでいた鎖がちぎれ、
呂範らの水軍船が曹休側の陣まで流されてしまいます。
そこを曹休らに襲われて、
呂範軍は、敗北を喫してしまいます。
負けたかに思われた呂範軍ですが、
全琮・徐盛が反撃したことで相手側の臧覇を打ち破り、
その勢いのまま曹休・張遼を打ち破った事でなんとか勝利を収めます。
結果的に勝利を収める事ができた呂範は、
揚州牧に任命されます。
228年には大司馬に出世するも
病気にかかり、この世を去っています。
呂範は、豪快で、派手好きな一面もありましたが、
国の為に一生懸命働いていた為、陸遜らも常に呂範に対して敬意を抱いていました。
また、孫権が呂範の墓を訪れた際は、
字(あざな)で呼びかけ、涙を流したそうです。
三国志演義での呂範
呂範は、孫策・孫権の参謀として登場します。
朱治の提案によって、
孫策が袁術から独立を検討していた際に、
その話を聞きつけた呂範は、
孫策に仕える事を願い出て、仲間になっています。
孫策の元で活躍した呂範ですが、
孫策がこの世を去ると、孫権に仕えます。
劉備暗殺計画
呉を孫権の妹である孫夫人(孫尚香)と結婚する為に、
劉備が孫権の元を訪れた際には、呂範は劉備暗殺を孫権に進言し、
これに孫権は賛成ます。
そして劉備は、
甘露寺で孫権の母である呉国太と会う事になるのですが、
呂範は、賈華(かか)に300の兵を任せ、寺の廊下に潜ませ、
呉国太が劉備に対して怒りを覚えた際には、
それを理由に劉備を暗殺しようとします。
ところが呂範らの思惑とは異なり、
呉国太が劉備を気に入ってしまいます。
さらに劉備の供をしていた趙雲に伏兵を見抜かれ、
劉備からその旨を聞かされた呉国太は孫権らに怒りをあらわにします。
この時、呉国太の怒りを恐れた孫権・呂範は、
全責任を賈華に押し付け、呉国太は賈華を処刑するように孫権に命じますが、
結婚というめでたい席を前に、劉備らの取り成しによって賈華は許されています。
その後の呂範
後の荊州争奪戦では、
関羽の退路を予測し、的中させています。
また結果的に正史では洞口の戦いに勝利した呂範ですが、
三国志演義では、呂範軍は曹休らに大敗した事になっています。