馬忠(ばちゅう/呉)
馬忠といえば普通は蜀に仕えた馬忠が有名です。
しかし呉にも馬忠なる人物が存在しました。
馬忠(呉)に関する記述はほとんどありません。
ですが、初めて名前が出てきた時、潘璋に従って出陣し、
関羽・関平を捕らえたのが馬忠なのです。
関羽親子を捕らえただけの人物に関わらず、
正史での馬忠(呉)の登場はこれだけなのです。
蒼天航路(36巻191P)より画像引用
後の夷陵の戦いを引き起こす原因になった関羽の死、
そしてその中で最大の功績を上げ、関羽の捕縛をしたにもかかわらず、
これ以前の活躍、これ以後の活躍がない謎多き人物の一人です。
三国志正史に描かれる馬忠(呉)
そんな馬忠ですが、三国志演義にも登場します。
勿論登場場面は、正史と変わらず関羽捕縛のシーンで登場します。
ただ正史と比べて少しだけ出番が増えています。
関羽を捕縛した後、関羽は降らず首を討たれてしまいます。
そして関羽が乗っていた赤兎馬を、
関羽捕縛の手柄として孫権からもらい受けます。
しかし関羽死後、その赤兎馬は全く餌を食べる事がなくなり、
関羽の後を追ったように死んでしまいます。
夷陵の戦いで
そして関羽の仇を討つべく出陣した劉備の夷陵の戦いでも、
馬忠は登場します。
夷陵の戦いで黄忠を討ち取る
ここでも蜀の五虎大将軍であった黄忠を討ち取る手柄をまた立てます。
また張飛の子供である張苞軍を破る活躍もみせます。
とりあえず関羽を捕縛した正史の破壊力は半端なく、
三国志演義でも黄忠を討ち取った手柄までおまけされています。
しかし最後は、蜀の勢いに恐れをなし、
味方からも裏切られそうになった元蜀将の糜芳・傅士仁が、
再度自分達の命を守るべく裏切り、首を切られてあっけない最後を迎えています。
ちなみに劉備に馬忠の首を持って降伏した糜芳・傅士仁ですが、
関羽の死の原因の一つを作った彼らを劉備は許さず、関興によって首を討たせています。