黄皓(こうこう)

黄皓は劉禅に仕えた宦官であり、

後に劉禅から愛され、宦官の身でありながら政治をいじくりまわして、

蜀の政治を腐敗させ、結果的に蜀滅亡の一つの原因を作った人物です。

 

そんな小悪党であった黄皓ですけど、

蒋琬・費禕・董允といった諸葛亮が跡を託した人達がいた時は、

陰を潜めていました。

 

特に董允は劉禅の周りを取りしきっていた時は、

黄皓が何かしようとしても何もできなかったぐらいに、

董允は宮中を見事に回していました。

黄皓の暗躍

董允がこの世を去ってしまうと、

その後任として陳祇(ちんし)が引き継ぐんですが、

 

それまで董允によって抑えられていた黄皓は、

この陳祇に取り入り、政治の舞台に介入してくるようになります。

 

 

黄皓は、この頃何度も北伐をして、

結果が残せずにいた姜維との関係が悪化してきます。

 

そうなると姜維は、

「黄皓みたいなやつは生かしてても意味ないんで、

ぶっちゃけ殺した方がいいですよ!」と劉禅に進言したりしますが、

 

優しい劉禅様のお気に入りになっていた黄皓を殺すわけもなく、

「まぁまぁそんな興奮せずとも」といって姜維をたしなめたりとかあったようです。

 

 

しかしこのままではいつか姜維に殺されてしまうと考えた黄皓は、

姜維をどうにかして排除しようと閻宇を姜維の後任に任命しようとしたりします。

 

諸葛亮の子であった諸葛瞻(しょかつせん)や董厥(とうけつ)など、

政治を取り仕切っていた者達までが黄皓側についたのだから、

姜維にとってはシャレにならない事態になります。

 

「強いものには巻かれろ!」という言葉のように・・・。

 

 

実際北伐によって何の成果もあげれず、

国を疲弊される原因にもなっていた姜維に対する批判が多くあったのも事実で、

姜維の立場は非常に悪化していきます。

 

姜維が漢中から成都に戻れば漢中が危うくなるかもしれないし、

成都に戻ったら戻ったで失脚させられる危険性から漢中で身動きできなくなります。

姜維にとっては「外に敵、内にも敵」という状況だったでしょうね。

劉永、遠ざけられる

 

劉備の子供で、劉禅の母違いの弟にあたる劉永は、

兄である劉禅にごますって取り入っていた黄皓を忌み嫌っていました。

特に董允死後の黄皓と劉永の対立は酷かったみたいです。

 

そんな劉永をどうにかせねばと考えた黄皓は、

「劉禅様の弟ではあるけど、あいつは色々やばいですよ」

と劉禅に劉永の悪口を言って、それを信じた劉禅は劉永が宮中への参内をできないように命令します。

劉永はそれから10年以上参内が許されませんでした。

 

劉禅の弟で、劉備の子であったにも関わらず、

それすらも黄皓一つの言葉でどうとでもなったというのは、

黄皓がどれだけ劉禅にとりいっていたか分かる一つの話ですね。

 

 

ちなみに劉備が白帝城で亡くなる直前に、

諸葛亮を枕元に呼びますが、劉備の子として一緒に連れてこられていた劉永・劉理に対して、

「孔明を父と思って仕えよ」と劉備が言った子供の一人になります。

 

その劉永がこんな仕打ちを黄皓からうけてしまうんだから、

かなり無念でたまなかかったことでしょう。

 

 

ちなみに晋が統一してから約30年後に起こる起こる永嘉の乱で、

劉備の子孫達ははほとんど殺されてしまいますが、

 

そこでなんとか生き延びたのが劉永の孫にあたる劉玄(りゅうげん)でした。

劉永の子孫が生き延びた事で、なんとか劉一族の血脈を保つことができたのです。

蜀の滅亡

 

こんな感じで国の政治が腐敗していきます。

忠臣が遠ざけられ、佞臣が出世するそんな感じです。

 

ちなみに三国志正史を書いた陳寿も、

黄皓によって遠ざけられた一人でした。

 

そんな状態が長く続き、運命の263年が訪れる事になります。

鄧艾・鍾会率いる魏軍が蜀へ攻め込んできたんですよね。

 

 

この際、姜維は劉禅に援軍要請を何度もしていますが、

全て姜維を嫌っていた黄皓によってその知らせは握りつぶされ、

鄧艾率いる別動隊が別ルートから侵入したという知らせも受けれないまま蜀は滅亡してしまいます。

横山光輝三国志(60巻170P)より画像引用

 

黄皓さん、さすがにそこは知らせないとまずいと思うんですけど・・・。

劉禅が皇帝であったからこそ、黄皓も力を持てたわけですから。

黄皓逃亡

劉禅の降伏によって蜀は滅亡してしまいますが、

鄧艾は黄皓によって蜀の政治が腐敗しているのを知っており、

ただちに黄皓を処刑しようとします。

 

この時、黄皓は魏の将兵に対して金銀財宝をばらまきまくって、

魏の将兵たちはそれに目を奪われている内に、黄皓は逃げたそうです。

 

 

正史ではこのように書かれていますが、

そんなことあります!?

 

目を奪われた者がいたとしても、

実際逃げ出した黄皓を鄧艾が「捕らえよ!」といえば、

それで終わる気がするんですけど。

 

まぁなんとか黄皓は鄧艾に殺されることなく、逃亡に成功したようです。

そしてその後の黄皓の記録は残っておらず、その後どうなったかは完全に不明です。

三国志演義での黄皓

結論から言うと正史以上に酷く描かれています。

黄皓だけのせいで蜀は滅びましたと言わんばかりにです。

 

まぁ間違いではないので、蜀を正統と描かれた三国志演義で、

国を亡ぼすきっかけの一つを与えたのですから、

正史以上に酷く書かれても当然かなと。

 

 

とりあえず三国志演義での黄皓は、

諸葛亮が生きていた時から佞臣として登場しています。

 

ということは蒋琬・費禕・董允がいた時も、

かわらず黄皓は屑っぷりを出してたんでしょうね。

 

 

そして蒋琬・費禕・董允らが死ぬと、

劉禅のお気に入りになっていた黄皓を止められる者がおらず、

魏から賄賂を貰って、姜維の北伐を中止させたりと国を完全に私物化していきます。

 

263年に鍾会・鄧艾が攻めてきた際には、

姜維から劉禅に援軍を求める手紙を握りつぶし、

何かあるごとに巫女(占い師)を呼んで、国の行く末を決める始末。

横山光輝三国志(60巻177P)より画像引用

 

 

ちなみに姜維が鍾会・鄧艾軍に苦戦させられていた時には、

「近い内に蜀は天下統一果たすから、何も心配しなくて良いですよ」

といいう巫女の言葉を劉禅は信じる始末。

横山光輝三国志(60巻175P)より画像引用

 

 

援軍もなく孤立奮闘する姜維でしたが、

漢中を失い、剣閣でも苦戦を強いられてしまいます。

 

 

そして鄧艾率いる別動隊が東の江油城を陥落させた際にも、

巫女(占い師)を呼んで国の命運を占う始末。

 

巫女が言うには、「まだ心配しなくていいですよ」

みたいな感じだったのでしょう。

 

いやもう心配もくそも末期ですから・・・

そして運命のその時が訪れ、成都へ鄧艾が攻め込んでくるわけです。

 

 

劉禅としては、

「あれ? なんで魏軍がここまで攻めてきてるんだろう。

大丈夫だったんじゃないの!?」という感じだったのかもしれませんね。

 

そして鄧艾は正史同様、

国を亡ぼす元凶となった黄皓を探して処刑しようと試みます。

 

命の危険を察した黄皓は、魏の将兵に対して金銀財宝をばらまきますが、

正史のように逃げれるわけもなく、捕らえらてしまいます。

 

そして国を亡ぼす元凶となった黄皓には、

鼻や耳のように体の一部を削ぎ落とす肉刑を受けた後、処刑されてしまいます。

実は正史がいうほど黄皓が悪くない説

 

正史でも演義でもひどい描かれようの黄皓ですけど、

実はそこまで黄皓は悪くなかったという考えもあったりするんです。

 

黄皓が佞臣であったのは間違いないのでしょうけど、

案外そこまで悪くなかったという意見ですね。

 

 

実際董允が死んでのが246年で蜀の滅亡が263年なんですよね。

ということは黄皓が劉禅のもとで暗躍してから考えても17年間蜀という国を保ってるわけです。

 

まぁ国を想う将軍たちが国境を守ってくれてたというのもあるのでしょうけど、

なんだかんだで国は大きくは乱れていないわけです。

腐敗していたのは間違いないでしょうけど。

 

ただあえて誰かのせいにしたいというのが人間の心情だと思うので、

そこで黄皓一人に蜀滅亡への多くの罪をなすりつけられたような気はします。

 

 

その上陳寿に関しては、

黄皓によって遠ざけられた事実があるわけなので、

 

黄皓に関して私怨から、

実際より悪く書いたということも無きにしも非ずかと。

 

 

まぁ少し黄皓を庇ってみましたが、

やっぱり黄皓のやってきた小悪党ぶりは半端ないと思いますね。

董允が死んで17年国を保てたとか屁理屈でしかないです。

 

例えば、黄巾賊が反乱(184年)を起きたにも関わらず、

漢王朝が最終的に滅んだのは220年です。つまり曹丕が皇帝になった時ですね。

 

「漢王朝は宦官が原因で国が乱れ、黄巾の乱を起きてしまったけど、

その後36年漢王朝は生き延びたんだよ」とか言われても、それは結果論に過ぎないかと。

 

とりあえず、黄皓が蜀の政治を腐敗させた事実は間違いなく、

ごちゃごちゃ言わずに、その事実だけでいいような気しかしません。