閻行(えんこう/彦明)-韓遂配下-

閻行涼州金城郡の出身で、韓遂に仕えた人物になります。

 

184年に黄巾の乱の勃発により中央が大きく混乱している中になって、

閻行は韓遂の部下として西方を荒らしまわっていました。

 

 

韓遂が隴西郡を襲撃した際に、

涼州刺史であった耿鄙こうひの司馬であった馬騰は、

漢王朝を裏切る形で韓遂に味方したわけです。

 

 

その後に二人は意気投合して義兄弟の契りを結んだのでした。

 

義兄弟の契りを結んだ事がはっきりと記録として残っている人物は、

孫策・周瑜の「断金の交わり」であったりを除けば、他に記載が見当たらないと思います。

 

「劉備・関羽・張飛も、

苦労を共にする中で兄弟のようになっていった」

との記載こそ一応正史の中にも残っていますが、

 

「桃園の誓い(義兄弟の契り)」の言葉は、

三国志演義などで知られた御話であるからです。

 

 

ちなみに義兄弟についての記載が残されているのは、

正確には「蜀志」馬超伝に裴松之が注釈を加えた「典略」が正確です。

 

 

ただ韓遂と馬騰は生涯共に支えあったのかというと、

そういうわけではなく、逆に西涼を巡って血で血を洗う争いへと発展していきます。

 

この中で馬騰の妻子も韓遂によって殺害されていますね。

 

 

最終的に二人の仲介に入ったのが曹操でした。

もう少し正確に書いておくと、曹操に命じられた鍾繇になりますね。

 

 

これが一応の流れになるのですが、韓遂と馬騰の争いが激化していた際に起こったのが、

閻行と馬超の一騎打ちになります。

 

三国志演義では数えきれない程の一騎打ちが繰り広げられていますが、

そもそも正史には一騎打ちを行った記録自体がほとんどなく、貴重な一騎打ちの一つになりますね。

 

ちなみに他にどのような一騎打ちがあるのかというと次の二つになります。

  • 呂布VS郭汜(192年)
  • 孫策VS太史慈(195年)

 

 

一騎打ちとは多少違う匂いも漂いますが、

関羽と顔良の戦いも一騎打ちに入れても良いかもしれません。

  • 関羽VS顔良(200年)

 

 

それでも驚くほどに一騎打ちの記録自体がないのが実情です。

大将が簡単に一騎打ちを繰り広げる方がおかしいので当たり前の話でもありますが・・・

閻行VS馬超(一騎打ち)

韓遂と馬騰が争う中で、閻行と馬超が一騎打ちを繰り広げたわけですが、

結果は閻行の圧勝という結果に終わります。

 

 

「三国志演義」しか読んだ事ない人であったり、

KOEIの三国志(歴史シュミレーションゲーム)をやった事がある人なら、

受け入れがたい結果だったりするかもしれませんが、

 

生涯のうちで馬超が一騎打ちした記録はこれだけになります。

 

つまり1戦1敗で全敗なわけですね。

 

 

他にも郭援らの討伐を任された際にも、馬超は手傷を追ったりしている記録が残っていますので、

武勇に優れた人物ではなく、一般的な腕前程度だった可能性もあるかなと思っています。

 

 

ちなみに潼関の戦いで曹操をあと一歩まで追い詰めた話などは、

きちんと正史にも記録が残る話ですが、

 

曹操の虚をついた形で曹襲い掛かっただけの話なので、一騎打ちとは関係がありませんしね。

 

 

 

話を閻行と馬超の一騎打ちに戻しますと、

二人の一騎打ちを行う中で、閻行の矛が馬超に突き刺さります。

 

これにより馬超討死してしまうのかという最中に、

閻行が差した矛が突き刺した直後に「パキッ」と折れてしまったのです。

 

「馬超としては運が良かった」

の一言に尽きると思います。

 

 

それでも閻行は馬超を殺害する為に、

折れた矛を握りしめ、それをもって馬超に再び突き刺そうとしたのです。

 

しかし馬超はなんとかその危機を回避する事に成功し、命からがらその場から逃れる事に成功したのでした。

良くも悪くも自分の信念のもとに乱世を生き抜いた馬超

曹操に逆らう事を嫌った閻行

曹操が袁尚の遺児らを打ち滅ぼして華北を統一すると、

建安十三年(208年)に曹操は馬騰らが関中に割拠している危険性を考えて、

馬騰らに入朝するように命じます。

 

これに対して馬騰はしぶるものの、最終的に一族を連れて入朝を果たしています。

 

またこの年は、赤壁の戦いで曹操が敗れた年でもあり、

閻行を曹操のもとへと赴かせて、様子を探らせたのでした。

 

曹操は閻行を厚く待遇し、犍為太守に任じ、自分自身に従うように念を押したといいます。

 

 

その後に帰還した閻行は、曹操に逆らう事の愚かさを韓遂に説き、

「現状を考えると曹操に帰順すべきです。

私は父親である曹操のもとへと人質として送る事を決めました。

韓遂様も息子を一人送って、曹操殿に従うべきです」と述べたのでした。

 

そして閻行の父母と共に韓遂の息子を曹操のもとへと送っていますね。

 

 

ただその翌年に馬超が韓遂を誘って反乱を起こそうとした際に、

閻行は強く韓遂を諫めたものの、それが韓遂の耳に聞き届けられる事はありませんでした。

 

それに伴って挙兵した馬超・韓遂らでしたが、

潼関の戦いで敗北したことで二人は西方へと落ち延びていく事となります。

 

 

その後も曹操に帰順する様子がなかったことで、

馬騰の一族をはじめ、韓遂の息子は処刑されていますね。

 

この時に閻行の両親が罪に問われる事はなかったようです。

 

 

それは閻行が曹操のもとへと行った際に、

 

「父親を人質として差し出したい」

という閻行の言葉があったからこその曹操の配慮だったのです。

韓遂との決別

曹操は閻行の両親を罪に問う事はなく、その上で閻行に対して手紙を送りつけます。

 

そこには次のように書かれてあったのです。

「韓遂殿は話が通じない人物であったが、

閻行殿は違うはずだ。

 

今現在も変わらず、閻行殿の両親は平穏に暮らしているが、

今のままだと投獄するはめになってしまうぞ!」

 

 

この話を伝え聞いた韓遂は、閻行が曹操になびかないように、

閻行の父親を殺害するように画策します。

 

自分自身の娘を無理やりに閻行に嫁がせて、血縁関係を結ばせた上で、

閻行に西平郡を統治させたわけです。

 

 

これに対して曹操は閻行に対して疑いの目を向けるものの、

 

閻行が両親の命を最優先に考え、長らく付き従った韓遂と決別の道を選択し、

韓遂を討ち取るべく夜襲をしかけて攻撃したのでした。

 

 

しかし閻行は韓遂に敗れてしまみます。

 

ただなんとか曹操のもとへと落ち延びていくことになるのでした。

そして曹操は閻行を迎えいれ、列侯に封じています。

 

その後の閻行がどういう生涯を送ったのかは今に伝わっていません。

 

 

最後に余談ですが、閻行が決別した韓遂ですが、

配下であった麹演・蒋石の裏切りにあった形で殺害されていますね。