蜀滅亡後の譙周

劉禅を魏へ降伏させた譙周は、陽城亭候に封じられています。

 

そして司馬昭から洛陽へくるように言われ、

洛陽へ向かうことになりますが、

漢中まで来たところで高齢ということもあり重い病にかかってしまいます。

 

漢中で療養していた譙周でしたが、

司馬昭がその時期になくなり、司馬炎が跡を継ぐと、

魏を滅ぼして晋を建国してしまいます。

 

 

晋の司馬炎は、魏を滅ぼして晋が建国された事を世に知らしめる意味でも、

どうしても劉禅を魏に降伏させた譙周に形の上でお礼がしたくてたまりませんでした。

 

そこで漢中から洛陽まで譙周の世話ができる体制を敷いて、

無理やり譙周を洛陽まで連れてこさせます。

これにより譙周は、267年に洛陽へやっとのことで到着します。

 

そして寝込んでいた譙周の元へ司馬炎自ら出向き、

騎都尉に任命して領地を与えています。

 

しかし蜀を降伏させた事を功績と取られたことを、

譙周は納得できないところもあり、司馬炎に辞退を願い出ますが、

司馬炎に聞き入れらることはありませんでした。

 

270年に譙周は司馬炎の側近になる散騎常侍に任命されますが、

重病を理由に断っています。

 

そしてその年に譙周は天寿を全うし、この世を去っています。

 

また譙周は「仇国論」以外に、

「古史考」「論語注」「蜀本紀」「五経然否論」等を書きましたが、

今ではその多くが散逸してしまっています。

弟子である陳寿との最後の交流

 

譙周が洛陽へきて2年目の269年のことです。

かつて師弟の関係にあった陳寿が譙周の元を尋ねた事がありました。

 

その時に譙周は陳寿に対して、

「昔の話になるが、儒教の祖である孔子は72歳で、

劉向(りゅうきょう)・楊雄(ようゆう)は71歳でこの世を去った。

 

自分ももう70歳になった。

孔子の年齢まで生きるのは恐れ多い、

できれば劉向・楊雄と同じ71歳でこの世を去れればと思っている。

 

なので私が生きても後1年ぐらいだろう。

だからお前ともこれが最後の別れになるだろう。」と陳寿に語ったそうです。

 

 

その言葉通り、翌年71歳でこの世をを去っています。

 

譙周が死んだことを聞いた陳寿は、

「師である譙周は天文にも通じ未来を予測する力があり、

この前あった時に71歳でこの世を去る事を既に知っていたのだろう。

 

だから孔子・劉向・楊雄の過去の偉人の名前を出して、

私に間接的に死期を教えてくれていたのだ」と悟ったといいます。

天文を通じて未来を見れた譙周

 

譙周は儒学者としてこの時代トップクラスの人物で、

劉禅を降伏させたことでの知名度が圧倒的に高かったですが、

天文を通じて未来を予想できる力もありました。

 

上で述べた譙周自身の死期についても言えますが、

その他もいくつか記録が残っているので紹介したいと思います。

蜀の滅亡

262年宮廷にあった大木が自然に倒れるという事件が起こりました。

 

これを見た譙周はひどく心配し、

「衆くして大なれば、その下に集まる。

徳備わって天命降れば、再び動かし得ず。」

という言葉を柱に書き残します。

 

大国であった魏はまさに衆(おお)くしてであり、

魏の曹一族に徳が備われば、誰ももう逆らうことができないという事であり、

蜀が滅んだ時、この譙周の言葉を思い出したそうです。

 

 

ただ実際は、曹一族の力は弱まり、司馬一族に取って代わられるんですけど、

母体が同じである魏も晋も同じだと言えるかと思います。

 

実際曹一族という言葉は書いておらず、

「衆くして」と書いていただけで、

同じ母体である魏または晋の領地を指していたのでしょうし。

 

譙周が書いた時は間違いなく魏の時代でしたし、

自然と魏の皇帝になりますから。

 

未来が分かっていた譙周だからこそ、

譙周は最高のタイミングで、劉禅に降伏を説いたのかもしれませんね。

司馬昭の死期

司馬昭が265年に死去し、

その後を継いだ司馬炎が魏を滅ぼして晋を建国するのですが、

 

漢中で病の為に寝込んでいた時、

「司馬昭が今年の8月に亡くなるだろう」と言っていましたが、

譙周の予言通り、265年8月にこの世を去っています。

陳寿の大成

譙周は陳寿に対して、

「お前は、必ず学問によって名を歴史に残すだろう。

挫折する事もあるとは思うが、それは不幸な事ではないから気にする事はない。

慎んで精進するとよい」と言っています。

 

 

陳寿は後に「三国志」を書き残すことで、

譙周の予言は的中します。

 

我々が今でも三国志の時代を知る事ができるのは陳寿のお陰なのです。

 

陳寿がいなければ三国志演義も制作されなかったでしょうし、

陳寿の時代から約1800年経った今でも三国志の魅力を私達に教えてくれています。

 

だからこそ中国で多くの時代があった中でも、

詳細に記載が残されている三国志が際立って多くの人達に愛されている理由の一つでしょう。

 

 

おまけとして「三国志」という名前ですが、

三人の皇帝がいた時代だからとなんとなくつけられた名前ではなく、

 

陳寿の残した本のタイトルに「三国志」と書かれており、

そこから名前が取られ、今で使われています。

譙周の評価

 

三国志正史を著書した陳寿は、

師であった譙周を次のように評価しています。

 

「譙周は文章の解釈に精通しており、当時の世の中で大儒学者だった。

それは、前漢の時代に名を残した大儒学者であった董仲舒(とうちゅうじょ)、楊雄(ようゆう)と同じレベルだった」

 

 

また蜀を降伏に導いた事から、

司馬昭・司馬炎からも高い評価を与えられていますが、

蜀の時代の譙周はそれほど高く評価されることがなかったようです。

 

その理由は、儒学者としての立場ではトップクラスの人物でしたが、

譙周は蜀の政治に関わる事がなかったからです。

 

 

後世の人々からも劉禅を降伏させて、

蜀を滅ぼした者として評価されることもあまりないようですね。

 

しかし姜維の北伐によって国が傾いており、

黄皓の台頭などにより蜀の政治は腐敗しており、

蜀の国は遅かれ早かれ滅んでいた可能性が非常に高いです。

 

そんな中で劉禅を魏に降伏させ、諸侯の礼遇を受けさせたこと、

その延長線上で蜀の民を苦しめることなく劉禅を降伏させた譙周は、

当時の蜀の民衆にとってはヒーローであったといっても過言ではない気がします。

 

戦争などで苦しむのはいつも民衆なのですから。