郭氏は曹叡の二人目の妻で、
毛皇后に次いで二番目の皇后になった女性です。
曹叡からも非常に愛された女性ですが、
皇后になったのも束の間、その一カ月後に曹叡がこの世を去ってしまいます。
力を伸ばしつつあった司馬一族にもひるまず、
曹家を盛り立てようと奮闘した郭氏の奮闘ぶりをみていきたいと思います。
目次
郭氏(郭皇后/明元皇后)
曹叡は虞氏・毛氏と結婚していますが、
郭氏もそんな曹叡の妻の一人になります。
郭氏は涼州西平郡の出身で、
個人的には「そんな辺境の土地から、
よく曹叡の妻になる機会を得たなぁ」というのが正直な感想です。
郭氏の父は郭満といい、
涼州の地方豪族の娘として誕生しています。
しかし郭氏の父であった郭満が反乱に加担したことがきっかけで、
郭満の地方豪族としての身分は全て剥奪されてしまいます。
そして郭氏も連座の罪で後宮に連れてこられてしまいます。
ある程度の美貌の持ち主でもあったのでしょう。
そもそも連座の罪で後宮に入れられること自体が、
そもそも強い運の持ち主だったと言えるかと思います。
入りたくても入れない女性の方が多い中で後宮に入れられたのですから・・・
まぁ郭満が反乱に加担したとしても、
それほど大規模に参加していなかったのも要因かもしれませんね。
このあたりの情報は推測になってしまいますが、
大規模な参加であったなら高い確率でまず郭満は処刑されていたでしょうし、
郭満の妻や郭氏も処刑されている可能性が高かったと思います。
曹叡からの寵愛
後宮に入れられたことで郭氏の人生は大きく変わります。
曹叡が曹丕の跡を継いで二代目皇帝になり、
郭氏が曹叡の目に止まり、寵愛を受ける事になります。
地方豪族とはいえ、反乱を起こした娘が、
皇帝の側室になるのだから驚くべきことですね。
まぁ一番驚いたのは郭氏でしょうけど・・・
曹叡から寵愛を受けた郭氏は、「夫人」の称号が与えられ、
毛皇后(毛氏)が曹叡から自殺を命じられてなくなると、
「皇后」の称号を与えられています。
これにて郭氏が曹叡の二代目皇后になったのでした。
曹叡の死で「太后」に・・・
しかし皇后になったのも束の間、
その一カ月後に曹叡がこの世を去ってしまいます。
二人の間に子を授かったのかどうかは分からず不明で、
もしいたとしても間違いなく早世しています。
何故なら曹叡の子供たちは全て早世している為に、
曹芳を養子として迎えているわけですからね。
ちなみに曹叡も36歳(34歳とも言われています)でこの世を去っており、
完全に死ぬのが早すぎます。
そんな父親である曹叡よりも先に全ての息子が死んでる時点で、
尋常じゃないほどに全ての息子が早死だったという事がいえるわけです。
とにもかくにも曹叡が亡くなった事で、
「郭皇后」は「郭太后」に呼び名がかわることとなります。
「皇太后」として魏を支え続けた郭氏
曹叡亡き後に曹叡の養子であった曹芳が跡を継ぐわけですが、
幼い曹芳に代わって、臣下の者達は郭太后の許可を貰って政策などを実行していました。
ただ曹叡が亡くなる前に、
曹叡は曹爽と司馬懿に曹芳を支えてくれるように遺言していたのもあり、
実質的な権限はこの二人にあったのが現実です。
まぁこれは表向き上のことで、郭太后にも決定事項の確認として、
知らせていたというのが正直なところでしょう。
鍾会が姜維と組んで反乱を起こした際も、
「郭太后の命令を受けて司馬師を倒す!」
大義名分を得る為の嘘として、郭太后を利用していましたしね。
そこからも分かるように表向きとして、
「郭皇太后のお墨付きを貰う」という事は大事な事だったのでしょう。
張皇后の父の反乱&曹芳の廃位
曹芳の二代目皇后となった張皇后(張氏)は、
郭太后の命令で皇后になった女性で、
曹芳は張皇后を寵愛する事はありませんでした。
曹芳は最も寵愛していた王夫人を「皇后」にしたかったらしいですけど、
郭太后にあっさりと反対されて実現しませんでした。
そして張皇后の父親であった張緝が、とんでもないことをやらかします。
とんでもないというか、曹魏に対しての忠臣ゆえの行動でした。
254年当時は、完全に司馬一族の専横状態になっており、
それを危惧した張緝が仲が良かった李豊と組んで、司馬師を殺害しようと行動を起こします。
そして司馬師に代わって、
夏侯玄(夏侯尚の息子)を「大将軍」に任命しようと画策したのでした。
郭太后の抵抗&曹髦の即位
しかしこの張緝の計画は失敗に終わり、
夏侯玄・張緝・李豊は三族皆殺しにさせられます。
曹芳の皇后であった張皇后も例外ではなく、連座の罪で廃されてしまいます。
ただこの事件はこれだけで止まらず、
これがきっかけとなり、曹芳まで廃位させられてしまいます。
この時の曹芳は23歳程度で、
年齢的にもやっと成長してきた矢先の出来事だったのです。
曹芳の廃位後、「誰を後継者にするか!?」でだいぶもめたといいます。
ここで司馬師に最後まで食い下がったのが郭太后であり、
最終的に郭太后が推した曹髦が跡を継ぐことになります。
郭太后推薦の曹髦が即位した背景
司馬師としては、曹據(曹拠)をずっと推していましたが、
曹叡の系統が途絶える事を恐れた郭太后が、
曹丕の孫であり、曹叡の異母兄の曹霖の子にあたる曹髦を推したことで、
どちらを曹芳の後継者にするか激突したのでした。
曹髦は幼いながらも才能豊かであり、曹叡からも近い血筋であったことから、
曹髦ならば司馬師の専横をどうにかしてくれる可能性があると、
郭皇太后は期待していたのかもしれませんね。
ここだけは自分自身の今後の立場的にも、曹家の未来の案じる意味でも、
司馬師に絶対に譲る事が出来なかったのでしょう。
そして郭太后の願いが通り、曹髦が四代目皇帝になった形でした。
その後の曹髦&郭太后
司馬師が翌年亡くなると、司馬昭が司馬師の跡を引き継ぎますが、
ますます司馬一族の専横が激しくなってくると、
曹髦は皇帝の身でありながら、
「自ら司馬昭を殺害しよう」と司馬昭の元へと兵を率いて出陣します。
しかし計画が露呈していたこともあり、
あっさりと曹髦は鎮圧され、
司馬昭配下の賈充の命令にて殺害されてしまいます。
ちなみに皇帝であった曹髦が殺害された理由として、
「郭太后を殺害しようとした罪」ということに表向きはなりましたね。
そして五代目皇帝として曹奐が即位します。
しかし魏はもう司馬一族に乗っ取られているのは誰の目にも明らかで、
曹奐は司馬昭の操り人形に過ぎませんでした。
そんな中で魏の最後を見届けることなく、263年に郭太后は死去しています。
ある意味で「魏」が滅亡する前に、
旅立てた郭太后は幸せだったかもしれませんね。