魏に諸葛誕(しょかつたん)あり
諸葛誕は諸葛亮(蜀)や諸葛瑾(呉)と同様に、
徐州琅邪郡出身とされています。
諸葛亮は叔父の諸葛玄と共に南方へ移動していますし、
諸葛瑾は危険を避けてそれより前に揚州へ移動していますし、
もしかしたら諸葛亮・諸葛瑾・諸葛誕の3人は、
徐州にいた時は普通に遊んだりしていたのかもしれませんね。
その後、諸葛亮は蜀で、諸葛瑾は呉で、諸葛誕は魏で、
それぞれに才能を認められて出世しています。
その為、諸葛亮を龍、諸葛瑾を虎、諸葛誕を狗(いぬ)と比喩し、
「蜀漢は其の龍を得、呉は其の虎を得、魏は其の狗を得たり」と言われたみたいです。
龍や虎に比べて、犬と比喩された諸葛誕は、
魏の犬みたいな感じで響きがよくないようにも聞こえますが、
「国になくてはならない者」とか「高い功績を持っていた者」といった意味なので、意味合いが違います。
若かりし頃の諸葛誕
諸葛誕は若かりし頃に魏に仕官していますが、
船の試運転をしている時に、川に落ちて死にかけた事があるそうです。
意識不明の状態で川岸に流れ着いたものの、
奇跡的に助かったようですが・・・
諸葛誕は魏の中でも名声を得ていき、順調に出世していきます。
また「四聡八達」と呼ばれる12人の優れた者達の一人として数えられることになります。
実際は諸葛亮や諸葛瑾に比べて知名度が落ちてしまいますが、
二人に劣らないほどの才能の持ち主だったともいわれた程でした。
しかし曹丕が崩御すると、曹叡が二代目皇帝になるわけですが、
「彼ら四聡八達らが言っている事は絵に描いた餅で、飢えを凌いだりできるものでもない」と突っ込まれ、
諸葛誕は一方的に免職させられてしまいます。
ちなみにですけど、現在使われている「絵に描いた餅」というのは、
これが起源だと言われています。
曹叡の死に伴う諸葛誕の復職
曹叡がこの世を去ると、
曹叡の養子となっていた曹芳が跡を継ぐことになります。
曹芳はまだまだ幼かったため、曹爽と司馬懿が補佐をする形になるのですが、
曹爽が司馬懿を名誉職であった太傅に祭り上げ、実権を握ってしまいます。
この時に曹爽によって、
曹叡によって免職させられてた「四聡八達」の人達が呼び戻されます。
諸葛誕もその一人ですね。
ただ司馬懿がクーデターを起こしたことで、曹爽一派の多くが処刑されてしまいます。
この時に、四聡八達のメンバーで諸葛誕とも仲が良かった夏侯玄や鄧颺(とうよう)らも処罰を受ける中、
諸葛誕は何故か許され、司馬懿にその後も重用されています。
まぁそれだけ諸葛誕の才能が他の者達と比較にならず、
司馬懿も認めていたのかもしれませんね。
また王凌(おうりょう)が司馬懿を誅殺し、
諸葛玄を大将軍にさせようと画策していた際には、
諸葛誕に討伐を命じられて王凌らをすんなり打ち破っています。
ちなみに王凌は諸葛誕と親戚関係にあり、
司馬懿のことだから、諸葛誕の心を探る為に討伐を命じた気がします。
諸葛誕は、夏侯玄とも仲がよかったですし。
この事で司馬懿は諸葛誕を信頼したのか、
司馬懿の子である司馬伷に諸葛誕の娘を嫁がせ、親戚関係まで築いてしまいます。
諸葛誕の失態と活躍
司馬懿がこの世から去ると、
司馬懿の跡を引き継いで息子の司馬師が実権を握ります。
そして孫権が252年5月に亡くなると、
これをチャンスだと思った司馬師が呉に攻め込みます。
これを東興の戦いというんですけど、
この戦いで指揮を任されたのが諸葛誕と胡遵でした。
侵攻してくる魏軍に対して、
呉は諸葛瑾の子にあたる諸葛恪にあたらせています。
この戦いで諸葛同士の戦いが起こるわけですが、軍配は呉の諸葛恪にあがります。
この戦いで敗れてしまった諸葛誕は、
毌丘倹(かんきゅうけん)と役目を交代させられてしまいます。
その後、毌丘倹・文欽(ぶんきん)らが反乱を起こすと、
諸葛誕はこれを討伐し、これに乗じようとした呉軍を蹴散らす功績を上げ、
征東大将軍に任命されました。255年の話です。
諸葛誕の決起
その後諸葛誕は、三公の一つである司空に任じられています。
しかし、司馬師の専横が続いている今の世に不満を抱き始めていた諸葛誕は、
10万人以上の兵を集め、257年に寿春で決起します。
そして諸葛誕は、呉の援軍無くして持ちこたえる事は出来ないと判断し、
子の諸葛靚を呉に人質として送り、援軍を求めています。
呉からの援軍
毌丘倹・文欽らが反乱を起こした際、諸葛誕に痛い目にあわされた恨みを水に流し、
呉は諸葛誕に協力する形で援軍を送ることを決意します。
この時の呉から最初に援軍として送られたのは、
文欽・文鴦(文欽の子)・全端・全懌ら率いる3万の兵でした。
※文欽・文鴦らは反乱に失敗後、呉に仕官中。
その後も呉は援軍を何度か送られるも援軍は撃退され、
魏の大軍によって包囲された諸葛誕は苦戦を強いられます。
それでもなんとか踏ん張って籠城を続ける諸葛誕でしたが、
籠城が長く続くにつれ、食糧不足という問題が発生。
そして呉からの援軍として駆けつけていた全端・全懌らが魏に裏切り、
投降者を続出してきたことで、諸葛誕・文欽・文鴦らは春寿から脱出を図ろうとするも包囲を突破できず失敗。
諸葛誕の最後
極限まで追い詰められてた諸葛誕は、
こともあろうか、諸葛誕が文欽を斬り捨ててしまいます。
魏に文欽がいた時から諸葛誕と文欽は仲が悪かったのですが、
ここにきて諸葛誕が爆発した形かもしれませんね。
これによって文欽の子であった文鴦は魏に降伏し、
諸葛誕軍の士気が大きく低下してしまいます。
その後諸葛誕は捕らえられ、処刑されてしまいます。
諸葛誕に長く仕えていた兵士らは最後まで降伏をせず、
「諸葛公の為に死ねるのなら本望だ!」と言って死んでいったそうです。
その数は400人~600人程度いたそうです。
諸葛誕に対して思う所あり
諸葛誕ってどことなく身内の事は、
考えない人だったのかと思ったりします。
王凌の息子であった王広に諸葛誕の娘が嫁いでいるけど、
お構いなしに王凌を討伐してますし、
その際に仲が良かった諸葛玄もそれにより処刑されてますし、
最終的には司馬一族と親戚関係であったのに反乱起こしてますしね。
もし反乱を起こさなかったならば諸葛誕の一族は、
晋で出世していった可能性が高いわけで、少し不思議な感じです。
諸葛誕の行きつくところ、曹一族の為だというのが、
根本にあったのからの行動だったのかもしれませんけど。
その為には、身内への気持ちは二の次と考えていたのかもしれません。
ただそうだとした場合、一番疑問に思ってしまう所は、
毌丘倹から誘いがあったのを断って、毌丘倹らの反乱を鎮圧した事。
もしかして仲が悪かった文欽がいたからという事も考えられはしますが・・・
もし王陵・夏侯玄・文欽・諸葛誕らが、
もっと計画的に協力して司馬一族の誅殺に動いていたならば、
成功していた可能性も少なからずあった気がします。
ましてや追い詰められていたとはいえ、
疑心暗鬼に陥って文欽を斬り捨てたあたりはもうなんともいえません。
そして諸葛誕が反乱を起こしたことにより、三族が皆殺しにされてしまいますが、
呉に人質として送っていた諸葛靚がその後も生き続けた事。
司馬師・司馬昭の弟にあたる司馬伷に娘が嫁いでいたことで、
諸葛太妃としてその後も子孫が途絶えなかったことは救いだったでしょうね。