呉氏(呉皇后/穆皇后)

呉氏は兗州で生まれたものの、幼い時に父親を亡くしています。

 

それからしばらくして、亡き父親と面識があった劉焉が益州に赴任するにあたり、

呉氏は兄の呉懿や従兄弟であった呉班らと共に劉焉を頼り、共に益州へと同行する事になります。

 

またある時に呉氏が、

「貴女は高貴な身分となる人相をしております。」

と人相見に言われたことがあったようです。

 

 

この話を耳にした劉焉は、自分の息子である劉瑁(三男)の妻に迎えたといいます。

 

劉瑁の妻となった呉氏でしたが、旦那の劉瑁は病気にかかり早世してしまいます。

劉瑁に嫁いだはいいものの、早くも未亡人になってしまったわけです。

 

 

ただ早いと言っても赤壁の戦い付近までの生存は確認できていますので、

劉帽も五十歳程度までは生きていたのでしょうけどね。

劉焉・劉璋の親戚であり、劉備の親戚でもあり、優秀だったのに個人伝が残されなかった呉懿(ごい/呉壱)

劉焉の死&劉備の入蜀

194年に劉焉が病気の為にこの世を去ります。

ただこの時に跡継ぎが三男の劉瑁と四男の劉璋しかいませんでした。

 

なぜかというと劉焉が馬騰と結んで、「長安を奪おう」という野心を抱いたばかりに、

長男の劉範・次男の劉誕を既に亡くしていたからですね。

 

 

そんな中で三男であった劉瑁ではなく、四男の劉璋が劉焉の跡を継ぐわけですが、

張魯が益州へ侵略してくると、同族の劉備に張魯を討伐してくれるように依頼します。

 

ただ劉備も益州を内心狙っていた時期であり、

劉璋からの依頼を受けたふりをして益州へと軍を進めたのでした。

 

 

そして白水関を守る楊壊・高沛を騙し討ちにして軍勢を奪い、

これをきっかけに劉璋と劉備との間で戦いが勃発するわけですが、

 

最終的に劉璋が降伏し、劉備の勝利で幕を下ろしたのでした。

漢中王&正妻

そんな折に漢中郡を支配していた張魯が曹操に敗れたことで、

漢中郡が曹操の支配下になってしまいます。

 

黄権より漢中郡の重要性を強く説かれた劉備は、

巴西郡・巴東郡・巴郡の奪取に成功し、漢中へと兵を進めます。

 

 

そして定軍山で夏侯淵を討ち取り、曹操との耐久戦にも勝利を収めた劉備は、

219年7月に「漢中王」を宣言したのでした。

 

劉備が漢中王を名乗った事には重要な意味があり、

漢王朝を打ち立てた劉邦がかつて漢中王を名乗った事にあやかったわけですね。

 

 

そして劉備が漢中王を名乗ろうとした際、

劉備の妻であった孫尚香(孫夫人)は呉へ帰国した後で、

 

二人は既に離縁していたも同然の間柄でした。

 

 

「漢中王に正妻が誰もいないのは問題ではないか」

と考えた周りの者達は、未亡人であった呉氏を妻に迎える事をすすめます。

 

 

これに対して劉備は、

「自分と同族だった妻を娶るというのはさすがに・・・」

と呉氏を娶る事に乗り気ではありませんでしたが、

 

半ば周りに押し切られる形で呉氏は劉備の正妻となっています。

 

 

 

その中でも特に強く劉備を説得したのが法正であり、

「春秋時代、晋の重耳(後の文公)が覇者になっておりますが、

 

不遇にも各地を19年間放浪していた時代、

自分の甥であった懐公の妻を娶ったこともありました。

 

 

ですのでそこまで気にする必要もないでしょう。

 

むしろ漢中王になる者に、

正妻がいない事の方が問題だと思います。」

といった説得を受け、この流れの中で劉備と呉氏は結ばれたのでした。

 

 

 

劉備は孫尚香の件があったから、

もう妻はいらないと思っていたのかもしれませんが、

 

劉備と呉氏は仲良くやっていったそうです。

 

 

ただ二人の間に子はおそらくいなかったのだと思います。

もしいたならば、間違いなく記録として残されているのが普通でしょうから・・・

 

 

そして劉備が皇帝を名乗ると、呉氏は皇后へと立場があがり、

223年に劉備が白帝城で亡くなってからは皇太后と呼ばれるようになります。

 

劉備との夫婦生活は七年で終わってしまった形となりますが、

呉氏は245年にこの世を去っています。

 

 

亡くなった後は、劉備と甘夫人(甘皇后)が眠る墓に合葬され、

呉氏にはぼく」の諡名が贈られています。

劉備の最初の正室である糜夫人&劉備に一番長く付き従った劉禅の母、甘夫人

劉琰処刑にまつわる呉氏の逸話

劉備がこの世を去ってから十一年後にあたる234年の話ですが、

 

呉皇太后(呉氏)のもとへ劉琰りゅうえんの妻であった胡氏こしが、

正月の挨拶に訪れた事がありました。

 

 

ちなみにですけど、劉琰と劉備は何の血縁関係もない人物ですが、

劉備の賓客として豫洲時代から長らく劉備に仕えた古参の一人になります。

 

 

ただそれだけ劉備・劉禅に長く仕えているにも関わらず、

ほとんど表舞台に登場しなかった人物ですが、

 

最終的に車騎将軍まで昇りつめた人物でもあるんですよね。

 

ただ軍事面で何らかの役割を担っていたとかではないので、

あくまで形式上だけの役職だったと考えてよいかなと思います。

 

基本的にたまに諸葛亮に相談を受けるだけの役割的な感じだったと記録に残っていますし・・・

 

 

そんな劉琰の妻が呉皇太后の元へ挨拶を行ったのには、

 

劉琰が魏延といざこざがあって、諸葛亮から役目を下ろされていた時期の話で、

精神的にも病んでいたタイミングでした。

 

 

そしてこれが後に不幸を呼ぶことになります。

 

呉皇太后の元を尋ねた胡氏ですが、呉皇太后に大変気に入られてしまい、

約一カ月にわたって宮中に留まらせました。

 

これによって劉琰は劉禅と胡氏との関係を疑い、

胡氏の言葉にも耳を傾けず、胡氏に暴力をふるってしまいます。

 

 

そしてこれがもとで二人は離縁するわけですが、

胡氏は理不尽な夫からの暴力を許すことができずに劉禅に訴えたのでした。

 

その結果、劉琰は処刑されてしまいます。

 

 

これがきっかけとなり、

臣下の母や妻が正月にあいさつ回りをすることは禁止になったといいます。

 

もちろんですが、これは蜀国の中だけの話になりますね。

 

 

でもどうして呉皇太后は、

劉琰に一言だけでも弁明してあげなかったんでしょうかね!?

 

せめて一カ月もとどめてしまった事に対して、手紙一つでも胡氏に持たせてあげていれば・・・

 

劉琰も精神的に病んでいた時ですし、

暴力はいけませんけど、劉琰だけが全て悪いとも言えない出来事だったと思います。