若かりし頃の游楚(游殷&張既)
游楚は馮翊郡の出身(旧左馮翊郡)で、
游殷の息子として誕生しています。
ちなみに游殷や游楚についての事は、
「魏志」張既伝の裴松之注の「魏略」に書かれてあったりします。
父親である游殷ですが、
自分の息子の游楚を高く評価するようなことはなく、
同郷の張既を「地方長官になれる逸材」と非常に高く評価しています。
非常に高く評価したという割には、
「地方長官かよ!?」と思ってしまう所がありますが、
そんな地方長官にすらなれないと思われた游楚は尚更に・・・
まぁ結論から言いますと、二人とも游殷の予想を大きく上回って出世するのは余談です。
とりあえず游殷は、張既に対して、
「私の息子を頼むぞ!」とまで言って託した逸話も残っています。
ちなみに余談ですが、游殷の予想はその後に見事に的中し、
張既は地方長官に任じられていますね。
漢興太守への任命
游楚は蒲阪の県令を務めていましたが、曹操が関中(長安近辺)を平定した際に、
「漢興太守には誰を任命したらよいだろうか?」
と曹操は張既に尋ねます。
それに対して張既は、
「游楚なる人物は、文武の両面を兼ね備えており、
太守を任せるに十分に足る人物です。」と返答したのでした。
これを聞いた曹操は張既の言葉を信じて、游楚を漢興太守に任じます。
その後の游楚はというと、隴西郡の太守に任じられていますね。
游楚は任された地をしっかりと治め、民衆からも大いに支持されたようです。
諸葛亮の北伐&隴西郡
隴西郡の太守であった游楚ですが、228年に入ると大きな出来事が起こります。
蜀漢の諸葛亮が、
漢王朝の再興の為に兵を率いて北伐を開始したのです。
諸葛亮は北伐に関して、しっかりと準備をしていたのもあり、
天水郡・南安郡・安定郡の官吏や民衆らが蜂起し、
三郡の太守を追いだして蜀の統治下に入ったのでした。
北伐を行ったタイミングも正月という奇襲にもってこいのタイミングでしたし、
おそらく事前に三軍に対して、調略を行っていた可能性も大いにあると思いますね。
そうでないと簡単に三郡が蜀に降るのは不自然ですから・・・
ただここで大きな問題が発生したのは隴西を太守であった游楚でした。
なぜなら隴西郡も流れに乗って、
蜀漢の軍門に降る可能性も十二分にあっただけでなく、
ましてや三郡の寝返りによって、本国と隴西郡は遮断されてしまう事になったのです。
游楚の機転
三郡が蜀漢の支配地となると、
近いうちに諸葛亮が隴西郡にも兵を進めてくるだろうと游楚は考えます。
またそれだけではなく、三郡と同じように、
隴西郡も蜀漢へと寝返る可能性も大いにあるとも考えたようです。
そこで游楚は思い切った機転を利かせたのです。
まずは隴西郡の官吏はもとより、民衆まで一か所にを集めると、
游楚は彼らに向けて次のように心に訴えかけたのでした。
「涼州の各郡の太守らには恩恵がなく、
各郡の官吏と民衆は諸葛亮に呼応する形で魏に逆らい、 太守に対して叛意を向けています。
隴西郡を任されている私も同じで、 何時殺されたりしても不思議ではない存在であるのです。
ただ私と違ってお前たちは違う・・・
私の首を持って諸葛亮の元へ行けば、 許されるばかりか、大いに報酬を得られるであろう!」 |
游楚の言葉を聞いた者達は、感激して涙を流し、
「私達は太守と共に歩む覚悟、
二心を抱くようなことはありませぬ!」
と游楚と共に諸葛亮を迎え撃つ決意をしたようです。
これを聞いた游楚は感謝の言葉を述べると共に、蜀漢軍に抵抗する為の作戦を伝えます。
「天水・南安・安定の三郡が蜀に降ったからには、
諸葛亮らは、必ず隴西郡へと押し寄せてくるであろう。
まずは一致団結して、皆で城を守ろうではないか!
周りの郡が降伏する中で城を最後まで守り通せば、 多くの褒美を授かる事も可能であろうし、
もし本国から援軍が来れない状況が続けば、 その時は皆で私の首を持って蜀に降伏してくれればいい・・・」 |
これらのことからも分かる通り、自分自身の首を利用する事で、
味方の裏切りを事前に防いだ游楚は見事の一言ですね。
蜀漢の敗北
蜀漢の軍勢が隴西郡へと到着すると、游楚は迎撃体制を取ります。
そして蜀漢の軍勢に次のように語りかけたのでした。
游楚は長史の馬顒に命じて城外に陣をはらせた上で、
自らは城の上より蜀漢の軍勢に向かって次のように述べます。
「お前らが本国からの援軍を一ヵ月を超えて隴道を断ったままならば、
私達は何もせずともお前らに降伏するしか道はない!
しかし、本国からの援軍を一ヵ月防げないようならば、お前らは退却の道しかない。
この城が降伏するかどうかの行く末は、それだけのことであるのだ!」 |
そう述べると、馬顒に鼓を鳴らして反撃してきたことで、
蜀漢の軍勢は游楚らが籠る隴西の城より撤退していったのでした。
その後が十余日後に魏の諸軍が援軍に到着し、
馬謖が張郃に街亭で敗れ、趙雲も曹真に敗北するなど敗北が重なった結果、
諸葛亮ら蜀漢の軍勢が漢中へと引き上げた事で、游楚は隴西の城を守り通す事に成功したのでした。
この時に隴西郡のみならず、蜀漢に降った天水郡・南安郡・安定郡の三郡は、
再び魏の勢力下に落ち着くことになるのでした。
ただ隴西郡を守り通した游楚がいたからこそ、
諸葛亮は半ば三郡を放棄する形で撤退したわけであって、
もし隴西郡が蜀漢の勢力下に落ちていたならば、
例え馬謖が街亭を守れなかったとしても、三郡を維持する事も可能だったと個人的には思います。
しかし兵站的な問題もあり、半ば放棄された状態になったからこそ、
曹真・張郃らによって、なんなく三郡奪還されることになったわけですからね。
このようにしてなんとか勝利を収めることができた魏ですが、
戦後に天水・南安・安定郡の三太守には重い罪が課せられたといいます。
またそれと対照的に、隴西郡を守り通した游楚の功績を高く評価され、
游楚は列侯に封じられたのでした。
また共に戦った長史や掾属らも、官位や褒美を賜っているのは余談です。
游楚の参朝
列侯に封じられた游楚ですが、これとは別に曹叡は游楚の参朝も許したのでした。
つまり大変に名誉な事を許されたといえるわけですね。
游楚は小柄であったものの声が図太かったのですが、
ただ田舎育ちであった游楚にとって、参朝の際の礼儀など知る由もありませんでした。
そんな状態で参朝した游楚ですが、
戸惑った游楚の様子を察した曹叡は侍中に命じ、
侍中が「隴西太守、前にどうぞ」と言葉を発して手を引くと、
游楚は緊張した為か「唯」と普通なら答えるべきところを「諾」と大声で答えたのでした。
そんな游楚を見て、曹叡は微笑みながら労いの言葉をかけたといいます。
謁見が終わると、游楚は上奏して「宿衛として留まりたい」と願い出ており、
この願いが聞き届けられ、駙馬都尉を拝命されたのでした。
その後の游楚はというと、学問をすることはなく、遊びや音楽を好み、
歌芸を雇って琵琶・箏・簫の奏手を外出の際には常にお供させたといいます。
そして樗蒲や投壺の娯楽を楽しんだといいます。
樗蒲や投壺は聞きなれない言葉だと思いますが、
樗蒲は古代中国で遊ばれたダイスゲームのようなもので、
一方の投壺は的当てゲームのようなものだと考えてもらえれば理解しやすいかと思います。
つまり游楚はゆったりしたような余生を歩んだわけですね。
ただその数年後に再び涼州北地郡の太守に任じられ、七十余歳でこの世を去ったといいます。