江南八絶(こうなんはちぜつ)

 

後漢末期の騒乱から三国時代にかけて、

多くの英雄達が覇を競い合っただけでなく、様々な文化が大きく花開いた時代でした。

 

「建安七子」「竹林七賢」とか

曹一族が治めた魏では、有名な文化人がいましたが、

 

これに対して、孫一族が治めた揚州(江南)でも、

「江南八絶」と呼ばれる優れた八人の文化人(達人)が存在していました。

 

 

一般的には「江南八絶」と言われますが、「呉興八絶」と呼ばれたりもします。

 

この八絶に数えられる八人は、

趙達・劉惇・呉範・厳武・皇象・曹不興・宋寿・鄭嫗のことです。

 

曹操も一目置いていたと言われ、

そんな江南八絶の人達がどんな人達だったのかここでは紹介したいと思います。

九宮一算術を用いた占いの達人、趙達(ちょうたつ)

趙達は、九宮一算術(九宮算ともいう)の占いを得意とした達人。

 

九宮一算は色々な使い方が可能で、

空を飛んでいるイナゴの数を問われた際は、その数を見事に的中させたそうです。

また隠している物が何かと問われた際にも、それを見事に的中させます。

 

 

ある時、ある者が

「飛んでいるイナゴの数を当てるなど不可能でしょ!

適当な数を言ってるだけだろう」と言われることがありました。

 

まぁ普通にありえる話ですけどね。

 

そう言われた趙達は、筵(むしろ)の上に小豆をばらまかせて、

その数を一つも間違わず的中させて驚かせたそうです。

 

 

またある時には、数千と言われる白紙の竹簡を空の倉庫に入れておいて、

趙達に占いをさせた者がいました。

 

そうするとこの中に納められている竹簡は名ばかりで、

中身は何もないと言って見事に的中させた話も残っています。

 

 

249年に孫権が皇帝に即位した際に、

「私はどのくらい皇帝として生きていられるか?」と趙達に質問すると、

 

「漢の高祖が12年間在位しましたが、孫権様はその倍の24年間在位できるでしょう」

と答え、趙達の占い通り、24年後の252年5月に亡くなっています。

 

これ以外にも趙達は多くの占いを的中させており、

最後は自分自身で占った通りの年月日に亡くなったそうです。

天文・占数の達人、劉惇(りゅうとん)

劉惇は、天文・占数に通じた達人。

 

劉惇は、天文・占数を用いて、

水害や乾害の時期を的確に当てることができました。

 

またそれだけではなく、山賊や海賊などが侵入してくる時期まで、

的確に当てる事ができたようです。

 

劉惇の占いがあまりによく当たるので「神明」と呼ばれ、

孫策・孫権の従兄にあたる孫輔(そんほ)は劉惇を軍師に任命するほどでした。

 

 

ある時、孫権が星に異変が見られた際に、

「これは何か起こったのか?」と劉惇に尋ねる事がありました。

 

そうすると劉惇が、

「現在丹陽郡で災禍が起こったのです」と迷うそぶりもなく返事します。

 

孫権が「どんな災いか分かるか?」と尋ねると、

「部下が主人を殺したのでしょう。某月某日に知らせがやってきますよ」と返したそうです。

 

それから少しして、

「孫翊(そんよく)に仕えていた辺洪(へんこう)が謀反を起こし、

孫翊様を殺害してしまいました。」という知らせが届きました。

※孫翊:孫堅の子で孫策・孫権の実弟

 

この日は劉惇が予想した日であり、劉惇の占いが見事に的中したのでした。

204年の出来事でした。

 

 

劉惇の占いはよく当たり、

呉の儒学者として有名であった刁玄(ちょうげん)も絶賛しています。

風占いの達人、呉範(ごはん)

呉範は、風占いを得意とした達人。

 

呉範の風占いは具体的に多くの事を当てており、

揚州でも呉範の名は知れ渡っていました。

 

 

207年に孫権が父の仇でもある劉表配下の黄祖を攻めようとした際、

 

「今年は攻めても良い事はないので、来年攻めると良いですよ。

来年には劉表も死んで国が亡びるでしょうから」と呉範が孫権に述べた事がありました。

 

孫権は呉範の言葉を信じずに黄祖を攻めますが、黄祖に撃退されてしまいます。

 

そして翌年の208年に、再度黄祖を攻めるのですが、

黄祖を打ち破り、孫堅の仇でもあった黄祖を捕らえて処刑することに成功。

 

またそれから少しして劉表もこの世を去っています。

孫家三代(孫堅・孫策・孫権)を翻弄した黄祖

 

 

212年には、「今から2年後、劉備が益州を獲得するでしょう」と占い、

 

呉範の予想通り、その2年後にあたる214年5月、

劉璋が降伏した事で劉備は益州を手に入れ、見事に的中させたのでした。

 

それ以外にも関羽が捕縛される時期を当てたり、

魏の曹丕の侵攻に対する予言など多くを占いで的中させています。

囲碁の達人、厳武(げんぶ)

厳武は囲碁の天才で、呉では囲碁が盛んに行われていました。

しかし厳武に敵う者は誰もいませんでした。

 

有名どころでいえば、

孫策・陸遜・諸葛瑾・呂範も囲碁を得意としたようですが、

おそらく厳武に軽くあしらわれていたのでしょうね。

 

魏で「建安七子」と呼ばれていた孔融や王粲も囲碁を得意としたようですが、

厳武と対局したかどうかは定かではありません。

曹操の逆鱗に触れた孔子の子孫「孔融」

人並外れた記憶力の持ち主「王粲」

 

ちなみに世界最古の棋譜として現在まで残っているのは、

中国最古の碁本「忘憂清楽集」に書かれてある孫策と呂範の対局だそうですよ。

後世の創作だとも言われていますけど・・・

 

ちなみに棋譜を見る限り、途中の43手で終わっています。

絵画の達人、曹不興(そうふこう)

曹不興は、絵画の達人。

 

曹不興の絵画の才能は人並外れており、

ある時孫権に贈る屛風に筆を落として墨をつけてしまうことがあったようです。

曹不興は筆を落としてつけた墨を利用してハエを描いてごまかしました。

 

そしてその屛風を孫権に贈った所、

孫権は本物のハエだと思って手で払いのけようとしたそうです。

 

 

そんな中で、曹不興が最も得意としていたのは、

龍・虎・馬・人物を描く事でした。

 

これらを描く際の筆さばきは人並外れており、

書き出して間も無く完成するというほどの腕前だったそうです。

 

完成された絵を見ても、指摘するような所が全くないほどの出来だったといいます。

 

 

またこの頃、中国にも新興宗教であった仏教が入ってきている時期で、

247年、揚州で最初の仏教寺院「建初寺」が建立されました。

 

曹不興は「建初寺」に仏像を描き、絵巻物を寺に献上し、

中国の仏教普及にも貢献しています。

 

曹不興は、この活動から中国初の仏像画家とも言われるようになりました。

魏・晋でも仏教が普及してくると、曹不興の名は天下に轟いたそうです。

極悪非道の悪党なのに、仏教を中国に広めた功労者「笮融」

書道の達人、皇象(こうしょう)

皇象は幼い頃から書道に秀でていました。

 

黄巾の乱討伐にも貢献した張超(ちょうちょう)の名が

既に知れ渡っていましたが、

 

この張超と同じく評価された人物に陳梁甫(ちんりょうほ)でした。

 

 

しかし二人の書法にはそれぞれ欠点があり、

皇象はそこに注目し、二人の書法の中で悪い部分を斬り捨て、

良い所だけを真似して独自の書法を確立させます。

 

そうすると皇象の名は天下に轟き、「江南八絶」に数えられるまでになったそうです。

夢占いの達人、宋寿(そうじゅ)&人相占いの達人、鄭嫗(ていう)

最後は宋寿と鄭嫗をまとめて紹介します。

 

宋寿は夢占いを得意としており、

一方の鄭嫗は人相占いを得意としていました。

 

そのため、他の六人に加えて「八絶」に数えられるようになったようです。