孫策に処刑を言い渡された魏騰(魏滕)

魏騰ぎとうは字を周林しゅうりんといい、揚州会稽郡の出身であり、

祖父の魏朗は河内太守をつとめ、八俊の一人に数えられた人物だったといいます。

 

魏騰は一度こうと決めたら、危険な目にあうことになっても、

それによって自分の考えを変えるようなことはしなかった人物でした。

 

このことからも魏騰は、良い言い方をするならば一本気な性格の人物であり、

悪い言い方をすれば頑固な性格の人物であったと言えるでしょう。

 

そんな魏騰ですが、「呉志」呉範伝(裴松之注「会稽典録」)に記録が残されています。

 

 

魏騰は孫策に仕官しますが、ある時に孫策と意見がぶつかってしまいます。

主君相手であろうとも、魏騰の性格上意見を貫いたことが想像ができますね。

 

ただ孫策の怒りも大きく、これにより魏騰は処刑されそうになります。

 

 

魏騰の助命嘆願を行った者達も多かったのも実情ですが、

 

この時の孫策は、それまで積もり積もったものが爆発してしまったからなのか、

孫策の怒りが収まる事はなかったのでした。

呉夫人の助命嘆願

孫策から死罪を言い渡された魏騰でしたが、

それでも己自身の考えを曲げる事はなありませんでした。

 

 

そして魏騰の命も尽きようとしていたその時、

孫策の実母でもある呉夫人が孫策を井戸の前に呼び出します。

 

その時に呉夫人は次の言葉を孫策に伝えたといいます。

「お前はまだこの地を治めてから何の恩恵を施してもいませんよ。

そしてお前の志はまだ途中の段階ではないですか・・・

 

これからは今まで以上に多くの優れた者達が必要になってくるというのに、

職務に懸命にこなす魏騰殿のような優れた者を処刑してどうするのですか!?

 

 

ここで魏騰殿を処刑してしまえば、今後お前の元には優秀な人物は集まらなくなりますよ。

 

そうなってしまえばお前は落ちぶれてしまうだけであり、

そんな姿を私は見たくないのです。

 

 

それでもお前が魏騰殿をど処刑する事をやめないというならば、

私はこの井戸から身を投げようと思います。」

 

これを聞いた孫策は驚くと共に、魏騰への死罪を取り消したといいます。

 

孫堅の妻として、孫策・孫権の母として支え続けた呉夫人(ごふじん/呉氏) ~呉夫人なくして呉なし〜

孫権から処刑を言い渡された魏騰

呉夫人の説得のお陰で孫策から許された魏騰ですが、

それから少しして孫策が殺害されると、後を継いだ孫権に引き続き仕えます。

 

 

しかし孫策の時同様に、意見の相違から孫権ともひと悶着を起こしてしまいます。

 

魏騰はやはり孫策の時同様に、主君であっても考えを曲げる事はなく、

孫権の怒りも大きく、魏騰に死罪を命じます。

 

そして周りの者達にも、

「魏騰を庇た者も同罪だぞ!」と言葉を発すると、

自らの命を犠牲にしてまで魏騰を庇おうとする者は誰一人いませんでした。

呉範の助命嘆願

そんな状況の中にあって、今度は親友であった呉範が、

自らの命をかけて魏騰の助命嘆願をしてきます。

 

呉範は呉夫人の一族というわけではなく、

「江南八絶」に数えられた一人で、風占いを得意とした人物でした。

 

ただ呉夫人が揚州呉郡の出身で、呉範が揚州会稽郡の出身であることを考えると、

もしかすると少し世代を遡れば、同じ呉一族だった可能性はあると思います。

 

 

そして呉範の占いについて軽く紹介しておくと、

黄祖討伐が達成できる年を当てたり、劉備が益州攻略を成し遂げる年をあげた人物になります。

 

 

呉範は大事な髪を全て切り落として頭を丸めただけではなく、

自らを縄で縛った状態で孫権の前に参上し、

 

「どうか魏騰殿の命を助けて頂きたい!」

と自らの頭を床に強打させながら助命嘆願を行ったのでした。

 

 

「三国志」の著者である陳寿の父親も、

第一次北伐で陳寿の父が馬謖の参軍であったことから、

馬謖の死罪に連座する形で髠刑(剃髪刑)にさせられたという逸話が「晋書」陳寿伝に残されています。

 

そういった事からも頭を坊主にするなどあり得なかった時代だったわけです。

 

だからこそ孫権にも、呉範の親友を想う心が痛い程に伝わったのでしょう。

これによって魏騰の死罪は取り消され、罪を許されています。

 

 

釈放された魏騰は、呉範に対して、

「真の友と呼べる人物は、

呉範殿のような者が一人いれば十分だ!」

と命をかけてくれた呉範に感謝の言葉をかけたのでした。

 

 

孫策と孫権の二代にわたって、同じような理由で処刑されそうになりながらも、

呉夫人・呉範の二人のお陰で命を長らえた魏騰なのですが、

 

その後は、歴陽県・鄱陽県・山陰県の三つの県令を歴任し、

最終的に鄱陽太守に任じられたと記録が残されています。

呉を支えた江南八絶(趙達・劉惇・呉範・厳武・皇象・曹不興・宋寿・鄭嫗)

魏騰の人となり

 

処刑されそうになる度に呉夫人や呉範といった人達から

自らの命をかけてまで救われた魏騰はやはり只者ではなかった気はします。

 

 

ただ救ってくれた人達が呉夫人や呉範といった大物で、

呉夫人は孫堅の妻であり、孫策・孫権の母であったのは言わずもがなですが、

 

また一方の呉範はというと、「江南八絶」に数えられた一人で、

揚州で呉範を知らない者はいないというほど有名な人物であったといっていいでしょう。

 

 

そんな二人が自分の命を懸けてまで救った魏騰は、

それだけ殺すに惜しい程の才能があったと考える方が自然だと思います。

 

ただ孫策・孫権というトップの人達に気に入られることがなかったであろうことからも、

結果的に重く用いられる事はなかったのだと私は思います。