孫策の面影があった孫翊(孫儼/叔弼)
光和七年(184年)、孫翊は孫堅と呉夫人との間に誕生し、
孫策や孫権の弟にあたる人物になります。
孫策が亡くなる間際に、張昭が孫翊を後継者に推したものの、
孫策はその言葉を採用する事はなく、
孫権を跡継ぎとしたといった逸話が「呉志」孫翊伝(裴松之注「典略(魚豢)」)に残されています。
張昭にとっては孫翊に孫策の面影があった事も推した理由だったのでしょう。
とにもかくにも孫翊が孫策の跡を継ぐことはなかったのです。
孫翊殺害
孫翊は武勇に優れてはいたものの、性格は落ち着きがなく、
感情の赴くままに振る舞う事も多かったようです。
孫策を長らく補佐してきた朱治は、しばしば孫翊に対して注意し、
道義を説いて諭したたと「呉志」朱治伝に残されています。
また孫権が後継者となって孫策の跡を継ぐと、
各地の有力者の力をそぐべく、次々と粛清した出来事がありました。
この時に盛憲(元呉郡太守)も標的の一人になって殺害されたわけですが、
息子の盛匡は北方へと亡命し、その後は曹操に仕えます。
一方でかつて盛憲に仕えた事のある媯覧・戴員の二人は、
盛憲が殺害された事で、連座をおそれて身を隠していました。
ただ建安八年(203年)に孫策・孫権の弟である孫翊が丹陽太守に任じれ、
二人は孫翊によって招かれて復職し、重用されることとなります。
しかし翌年の建安九年(204年)に側近の辺洪に、孫翊が殺害される事件が勃発します。
その際に孫河がその調査も含めて現地へ赴き、媯覧・戴員らを強く叱責し、
このことによって状況は更に悪い方向へと向かいます。
「呉志」孫翊伝では辺洪の名ではなく、辺鴻で記載されています。一方で裴松之注である「呉歴」や三国志演義では辺洪の名で登場しています。 |
これに大きな不安を抱いた二人は、あべこべに孫河を殺害してしまったわけです。
かつての主君であった盛憲が孫権により殺害された事で、
おそらく孫河から孫権へ言いつけられることを恐れたからでしょう。
この辺りの事については孫邵伝(裴松之注「呉歴(胡沖)」)に記録が残されています。
ちなみに孫翊伝には媯覧・戴員の二人は登場しておらず、
孫翊は辺洪に殺害され、辺洪自身もすぐに殺害されたと簡潔に述べられています。
とにもかくにも孫翊は21歳(数え年)で亡くなったことになり、
兄の孫策は26歳、弟の孫匡も20歳前後で亡くなっていることからも、
孫家の方々は短命の人が多い印象を受けてしまいますね。
徐氏の卜占&仇討ち
孫翊は徐氏という女性を妻としていましたが、徐氏は占いを得意とした女性でもありました。
ちなみに孫翊を殺害したのは側近の辺洪とされていますが、
このことは「呉志」孫翊伝に残された記録です。
一方で裴松之が注釈を加えた「呉歴」にはまた違った内容が記載されています。
ちなみに徐氏が登場しているのは、この呉歴になりますね。
孫翊を宴席で殺害したのは孫翊伝の本文にもある通りに辺洪ではありますが、
裏で辺洪同様に嬀覧・戴員の二人も孫翊殺害を考えていたわけです。
辺洪は捕縛されて処刑されますが、
この時に二人は全ての罪を辺洪に擦り付ける形で罪をまぬがれます。
時が遡る事、孫翊が殺害される前日の事ですが、次のように孫翊が徐氏に尋ねます。
「明日宴席があるのだが、私を占ってくれまいか?」
徐氏は「その日は宜しくないから、日をずらした方がよいと思われます。」と答えます。
徐氏は卜占に優れた情勢でもあり、事前に孫翊の危険を察知していたわけですが、
孫翊はそのまま宴席に参加し、徐氏の不安は的中する事となります。
一方で辺洪に全ての罪をなすりつけた媯覧・戴員の二人は、郡府を掌握しただけでなく、
媯覧に関しては、未亡人となった徐氏すら自分のものとしようとします。
徐氏はここで媯覧・戴員らを殺害する事を計画し、
媯覧には夫の喪が明けるまでと月末の法事までは待つように伝えます。
媯覧は徐氏の言葉に納得するわけですが、
徐氏は孫高・傅嬰らに協力を求め、殺害の時を静かに待ったのでした。
そしてついにその時が訪れます。
喪が明けた事を媯覧に伝え、徐氏の元を訪れた媯覧を孫高・傅嬰らが殺害し、
そして次に戴員を襲って二人を殺害する事に成功します。
徐氏は二人の首級を孫翊の墓前に備えた事で、夫の仇を果たすことに成功したのでした。
そして孫権が丹陽へとやってくると、嬀覧・戴員の残党らは悉く誅殺されるに至り、
孫高・傅嬰を牙門将に任じ、徐氏を助けた者達にも褒美を与えたとされています。
ちなみに江南八絶の一人である劉惇は、孫翊の死を見事に言い当てたことでも知られていますね。