賈逵かき(梁道)

賈逵は名家の賈一族として生まれます。

父の名は残っていませんが祖父に賈習かしゅうがいました。

 

しかし賈逵は、両親を早く亡くした事で貧乏生活を余儀なくされ、

祖父であった賈習に世話になります。

 

貧乏生活を送っていた賈逵がまだ幼かった頃に、

「軍隊遊び」をしていたことがあり、

 

それを見た祖父の賈習は賈逵に大きな期待を寄せたそうです。

 

 

また賈習は、その時のことがきっかけとなり、

 

「お前はまだ小さいが、大きくなれば軍を指揮する人物になる」と言って、

賈逵に多くの兵法書を読ませ、直接教え込んだといいます。

 

賈逵は様々な兵法の中で「春愁左氏伝」の本を一番好んで学んだようです。

郭援・高覧との戦い

賈逵は河東郡の絳邑こんゆうの県令に抜擢されます。

そして賈逵の名が世間に広がったのは、郭援かくえん高覧こうらんとの戦いでした。

 

 

袁紹が官渡の戦いで敗れ、202年に死亡すると、

 

曹操は、袁紹の跡目を競って袁譚えんたん袁尚えんしょうが分裂していたことにつけこんで、

戦争を仕掛けるようになっていきます。

 

 

この時に袁尚は、曹操の背後を脅かすべく、

河東郡の平陽にいた呼廚泉に反乱を起こさせた上で、河東郡に郭援・高覧は攻め込ませました。

 

郭援らは、平陽へ向かって進軍を開始し、

それに伴って多くの県が次々と降伏する有様でした。

 

そんな中で、賈逵が守備を任されていた絳邑のみ降伏せずに、

徹底抗戦の構えを見せます。

 

そこで、郭援・高幹は、平陽の呼廚泉を呼び寄せて猛攻撃を開始しました。

 

 

それに伴って絳邑の長老らは、県令の賈逵の命を助けてくれる事を条件に、

勝手に降伏する旨を伝えますが、

 

その上で郭援・高幹は賈逵を味方に率いれようとしますが、

賈詡は逆に怒鳴りつけて郭援らを罵倒する始末。

 

賈逵の言葉に怒りを覚えた郭援は

「賈逵を捕らえた上で処刑するぞ」と脅すと、絳邑の長老らも含め住民が逆に激怒して交渉決裂。

 

それだけ賈逵が住民達から慕われていたのでしょうね。

 

 

賈逵は最後まで戦う意思を示したものの、

現在の猛攻撃から耐えきるにも限度があると判断した上で、

河東郡太守に重要な要所である皮氏を郭援・高覧より先に占領するように知らせたといいます。

 

そして結果的に賈逵が守る絳邑の城は陥落してしまいますが、

 

そこでも賈逵は策略を用いて、

皮氏に進軍を開始しようとする郭援軍の侵攻を一週間遅らせました。

 

 

その結果、皮氏を郭援より先に占領した河東郡の軍勢は、

 

鍾繇・馬超・龐徳の援軍もあり、

郭援は馬超に負傷を負わせるも、龐徳に討ち取られています。

 

そして高覧・呼廚泉が降伏した事で、この戦いは曹操の勝利で幕を下ろしたのです。

 

 

高覧がその後に反旗を翻しますが、

賈逵の見事な対応もあり、高覧は捕らえられて処刑。

 

賈逵はこの戦いで名を轟かせますが、

賈逵の祖父であった賈習が死んだことを理由に官職を捨てて野に降りました。

 

 

祖父が郭援・高覧・呼廚泉らに殺されたのか、

はたまた天寿を全うして去ったのかはわかっていませんが、

 

祖父の死を理由に官職を捨てたというのは事実です。

曹操により再度取り立てられた賈逵

賈逵は官職を辞めてのんびりした生活を送っていましたが、

曹操によって呼び戻され、三公である司空の属官として取り立てられることになります。

 

そして馬超・韓遂らの反乱を鎮圧するために出陣した際は、

司隷しれいの弘農太守の代理を任されました。

 

曹操は、「太守をする者達が全て賈逵のような人物らであれば、心配する事は何もないのに」

と賈逵を褒め称えたそうです。

 

 

賈逵は軍事面で活躍を重ねていき、

曹操が劉備討伐に乗り出した時も付き従っています。

 

曹操がこの世を去った時は、葬儀責任者として賈逵が選ばれ、

円滑に執り行い、無事に曹操の葬儀をやりとげたようです。

豫洲刺史としての手腕

曹丕が曹操の跡を継ぐと、賈逵は鄴の県令を任され、

その後、魏郡太守に任じられています。

 

賈逵にとっては、弘農太守の代理はしたことがありましたが、

初めて郡の太守に任命された事になりますね。

 

その後右肩上がりに出世していき、豫洲刺史を任されるまでになります。

 

 

賈逵が豫洲刺史を任されると、

豫洲郡の高官や二千石以下の官吏を厳しく取り締まり、

 

法を無視していた高官や官吏を免職することで、豫洲の治安は見事なまでに良くなりました。

 

この賈逵のやり方は曹丕から評価を受け、

「賈逵ほどの刺史はいない」と褒めた上で、各州の見本とされたそうです。

 

また賈逵が豫洲刺史の時にやった事はそれだけではなく、

呉と国境が接していたこともあり、軍備の強化にも力をいれています。

 

その中でも賈逵が二百里にも及ぶ大運河「賈侯渠かこうきょ」を築いた事は、

一番の功績といっていいかもしれません。

その後の賈逵・・・

 

また賈逵は呉との戦いにも何度も参加し、

曹休が周魴しゅうほうの策略にかかって大敗すると、これを助け出したこともありました。

七通のラブレターを送ってまで曹休を信じ込ませた周魴

 

この時、要所を完全に抑えてしまっていた呉軍の中から曹休を救う為に、

 

通常より二倍の速度で軍を進めた上で、

旗指物と太鼓をたくさん設置するなどの対応をします。

 

これにより大軍が潜んでいると判断した呉軍は退却したそうです。

 

 

曹休はこの戦い時にできた腫瘍が原因で亡くなりますが、

賈逵もその年に病気にかかり亡くなっています。

 

賈逵によって救われた曹休も救った賈逵も、

同じ年になくなるとは何か不思議な感じもしますね。

曹操に「我が家の千里の駒」と高く評価された曹休

 

賈逵は亡くなる寸前に側近の者に対して、

 

「国からこれだけの大恩を受けながら、

孫権を斬った上で、曹操様にお会いできないのが残念だ」と言ったといいます。

 

賈逵が亡くなった事を知った豫州の官吏や民衆らは、

賈逵の事を想って祠を立ててあげたそうです。

 

ある時に曹叡が、呉対策の為に東征した際、

賈逵の祠を通る事がありました。

 

そして曹叡は、

「賈逵は生前は多くの功績をあげ、死んだ後でも多くの者達から慕われている。

そうやって賈逵は名を残したのだ! 皆も賈逵を見習うように!」といったといいます。