「魏志倭人伝」に見られる魏と邪馬台国の親交

魏志倭人伝には魏と邪馬台国のやり取りが詳細に記載されており、

卑弥呼の1回目の記念すべく訪問については、次のようなものでした。

景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏将送詣京都 其年十二月 詔書報倭女王曰 制詔 親魏倭王卑弥呼 帶方太守劉夏遣使 送汝大夫難升米 次使都市牛利 奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈以到 汝所在踰遠 乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝 今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人 勉為孝順 汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞 今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 假銀印靑綬 引見勞賜遣還 今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直 又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也

 

これを分かりやすくまとめると、

「景初2年(238年)6月、倭の女王は大夫の難升米なしめ(+牛利)を帯方郡に使者として送り、

皇帝に拝謁して贈り物をする事を希望した。

 

帯方郡の太守だった劉夏は、

役人を派遣して難升米らを魏の都に送ってあげた。

 

難升米らは、魏皇帝(曹叡)に、

奴隷十人(男性の奴隷四人&女性の奴隷六人)と班布(綿布)二匹二丈を献上した。

※一匹=四丈=約9.2mなので、二匹二丈は約23mの長さという事になります。

 

魏皇帝(曹叡)はこれに喜んで、

倭の女王に「親魏倭王」の称号を与え、金印紫綬を与えています。

卑弥呼が「親魏倭王」の称号を頂いたのは、司馬懿のお陰!?

 

また難升米を率善中郎将に、牛利を率善校尉に任命して、銀印青綬を与えた。

他にも訪問へのお返しに、莫大な量の下賜品を与えた。」というようなものでした。

 

〜下賜品一覧〜

  • 絳地交龍錦五匹
  • 絳地縐粟罽十張
  • 蒨絳五十匹
  • 紺青五十匹
  • 紺地句文錦三匹
  • 細班華罽五張
  • 白絹五十匹
  • 金八両
  • 五尺刀二口
  • 銅鏡百枚
  • 真珠五十斤
  • 鉛丹五十斤

魏の1回目の邪馬台国訪問

正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王 并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 答謝詔恩

 

魏が最初に倭に訪問した内容がここでは書かれています。

 

どういう意味かと言うと、

「正始元年(240年)、

帯方太守だった弓遵きゅうじゅんが、建中校尉の梯儁らを難升米と共に倭に派遣して、

(既に亡くなっている故曹叡の)詔書・印綬・下賜品を持って倭へ行き、倭王(卑弥呼)に与えた。

 

倭王(卑弥呼)は大きな厚遇に驚き、大変感謝した。」といったものですね。

 

 

ちなみに難升米らが訪問した際の皇帝であった曹叡は、

239年1月22日に死去しています。

 

だからこの時の魏の使者は、

曹叡の跡を継いだ曹芳の代になってから時間差で送られたという事になります。

 

ただ曹芳の代になっても、

曹叡の詔書等はきちんと卑弥呼に贈られたということです。

卑弥呼の2回目の魏訪問

其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人 上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等壱拝率善中郎將印綬

卑弥呼の2回目の魏訪問について書かれるこの文章では、

「正始四年(243年)に、倭王(卑弥呼)は

伊聲耆うきぐ掖邪狗やくやこらを含め八人を使者として再び送った。

 

その際に次のような贈り物を魏に献上した。

  • 奴隷
  • 倭の錦
  • 青紫色の絹布
  • 綿の着物
  • 白布
  • 短弓矢

 

そしてこの時、掖邪狗らは率善中郎将と印綬を与えられた。」

と書かれてあります。

 

 

ここで少し疑問に思うことがあるんですが、

普通に考えると伊聲耆がおそらく正使、掖邪狗が副使だと思うんですよね。

 

それが伊聲耆を無視して、

掖邪狗らに難升米と同様の率善中郎将が与えられた点です。

 

「掖邪狗等(ら)」と書かれているので、

ここに伊聲耆が含まれている可能性もありますけど、

それなら「伊聲耆等」って記載するのが普通だと思うんですよね。

 

 

もしかしたら魏の都に到着する前に、

もしくは到着した後に死亡した可能性はあると思います。

 

でないと、記載の仕方があまりに不自然すぎます。

 

 

だから自分なりの解釈を書くと、

「伊聲耆・掖邪狗を含め8人を魏に派遣したけど、

伊聲耆はその途中で死亡して、掖邪狗ら(7人以下)が贈り物を魏へ献上した。

 

そして掖邪狗らは、率善中郎将に任命された」

というのが正確な気がしますね。

卑弥呼の3度目・4度目の魏訪問

3度目の訪問に関する記載は下の短文にとどまっていますが、

 

4度目の訪問と合わせて見る事で、

邪馬台国側での重大な問題を持っての訪問だったことが分かってきます。

其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡假授

 

意味を分かりやすく解釈すると、

「正始六年(245年)、倭の難升米に黄色の軍旗を与え、その軍旗を帯方郡に贈った」

といったような意味です。

 

これはまず倭の難升米が魏の帯方郡に使者として赴き、

邪馬台国が狗奴国くなこくとの大きな戦争が近々始まる事を意味していたと思われます。

 

 

その理由は次の記述から分かります。

其八年太守王頎到官 倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢  拝假難升米 為檄告喩之

 

ここに書かれている意味は、

「正始八年(247年)、新しい帯方郡太守として王頎が到着した。

 

倭の卑弥呼は載斯さいし烏越うえつらを帯方郡に派遣して

狗奴国の男王の卑弥弓呼素との戦争が起こっている事を伝えた。

 

そうすると王頎おうきが、部下の張政に命じて、

二年前に弓遵が贈る予定だった黄色の軍旗と詔書を難升米に与えるために倭国へ行かせた。

 

そしてそれを渡し、邪馬台国と狗奴国の争いを治めさせた。」

と書いてあります。

 

 

邪馬台国の3度目・4度目の訪問から分かる事は、

省略されているものの邪馬台国が狗奴国との戦争が迫っているために、

魏への援助を求める為に、難升米が245年に派遣されていたという事です。

 

そして魏皇帝であった曹芳は、

魏は邪馬台国を支持するという意味も含めた正規軍の黄色の軍旗を帯広太守の弓遵に送っている。

 

しかしこの後、弓遵が邪馬台国へその軍旗を贈ろうとしていた際に、

反乱が勃発し、弓遵が殺されてしまったのです。

 

それで軍旗を渡す約束が果たされないまま、二年の月日がたったわけですね。

 

 

そしてその間に、邪馬台国と狗奴国の争いが起こり、

邪馬台国は苦戦を強いられてしまいます。

 

その為に247年に、再び載斯烏越を使者として帯方郡に送りました。

報告を受けた新しい帯方太守の王頎は、二年前に弓遵が果たせなかった約束を実行に移したわけです。

 

そして張政が派遣された事で、

魏が邪馬台国を支持している事が狗奴国にも自然と伝わります。

 

魏を敵にする気がなかった狗奴国は、

それ以上邪馬台国と戦争を続ける事はせず、戦争は終わったのです。

卑弥呼の死後の記述

「魏志倭人伝」には、

卑弥呼が死んだ時の事とそれ以後の後継者についても書かれてあります。

 

それが次の文章になります。

卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定

 

これを解釈すると、

「卑弥呼が死んで大きな塚が作られた。

卑弥呼と共に一緒に埋葬された奴隷は、男女合わせて100人以上にのぼった。

 

卑弥呼に代わって男王を立てたが、

内紛が多発した結果、1000人以上の犠牲者が出た。

 

だから卑弥呼の宗女であった十三歳の壱与いよを女王として立てると再び国が安定した。」というものです。

壱与の魏訪問

「魏志倭人伝」の最後に、

壱与が魏を訪れた事が書かれてあります。

壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹

 

上記には、

「壱与は掖邪狗ら20人に張政の帯方郡への帰還を送らせた。

 

掖邪狗らは張政を送った後、そのまま都に向かった。

そして男女の奴隷30人・白珠5000孔・青大句珠2枚・雑錦20匹を献上した。」

と書かれてあります。

 

 

この壱与の朝貢を最後に、邪馬台国含めて倭についての記載は、

413年まで中国の史書から消えることになります。

 

ちなみに前漢・後漢の時代から魏にいたるまで、

倭(日本)は中国に好意的な態度を一途に貫き続けた為、

 

当時の中国の人々にとって日本(倭)は、非常に好感を持たれる存在だったそうですよ。