正史での太史慈の経歴

若かりし頃の太史慈といえば、母親の面倒を見てくれていた孔融が、

黄巾賊残党の管亥かんがいに襲われて危機に陥った時に、

 

太史慈は孔融を救うべく、

相手を罠にかけ城を脱出して劉備へ援軍へ赴いています。

 

そして劉備から3000の兵を借りて戻ってきた太史慈は、

城を包囲していた管亥軍を見事に打ち破り、孔融を見事に救出。

孔融へ恩義を返した青年「太史慈」

 

その後の太史慈は揚州刺史であった劉繇の元を訪ね、

孫策が侵攻してきた際に、太史慈と孫策は一騎打ちを繰り広げました。

 

この一騎打ちは正史にも記録が残っており、

三国志の世界でも、実際に一騎打ちが行われた数少ないうちの一つです。

太史慈と孫策の出会い(一騎打ち)

 

劉繇が孫策に敗れて後に太史慈は独立して抵抗。

しかし孫策と戦った末に敗れてしまい、これ以後は孫策に仕える事を決意。

 

それ以後、孫策の臣下として黄祖討伐戦などにも参加しますが、

赤壁の戦いが始まる前の206年に、41歳でこの世を去ってしまいます。

 

 

ちなみに三国志演義の方では、

合肥の戦いで張遼らと戦った際に、張遼の罠にかかってしまい、

 

その時受けた矢傷がもとで死んでいます。

太史慈の孔融救出戦での実像

孔融から受けた恩に報いるべく、孔融を助けた太史慈の姿をみると、

義に非常に厚い人物だ思う人も多いかもしれません。

 

ただはっきり一言で言うと、ただの「問題児」です。

孔融を助けるのも仕方なく程度の考えだったと思いますね。

 

実際、孔融に恩を受けていた母親が、

見るに見かねて太史慈に助けに行くようにほとんど強制的に命令されて、

太史慈としては「仕方ないなぁ」ぐらいの感覚で助けたと思うんです。

 

 

ですが、この後劉備に援軍を求めるために、

管亥軍に対して城を脱出する為に行った計略であったり、

 

その後、援軍を引き連れて管亥軍を打ち破ったのは事実なので、

能力が優れていたのは間違いないでしょうね。

 

ただ劉備に借りた3000人の兵は普通に返してない気しかしません。

太史慈の孔融救出戦より前の実像

孔融救出戦で一躍有名になった太史慈ですが、

ここだけ見ると「普通に好青年ってことでいいんじゃない?」って思っちゃいますよね。

 

 

ではそれ以前の太史慈の青年時代を見てみましょう。

 

太史慈はどういうわけか、21歳にして地元のトラブル解決の為に、

朝廷(都)への使者に大抜擢をされたことがありました。

 

まさしく正史上の太史慈の本当のデビューの時になりますね。

 

そんなデビューを果たした太史慈でしたが、

都に到着するな否や、トラブルの相手先から送られていた使者の上奏文を奪い取り、

 

それをすり替えるような形で、

自分が持ってきていた上奏文を提出するという荒業を行います。

 

 

これに慌てたのが、奪い取られた相手側でした。

 

慌てて上奏文を再提出しなおしますが、

それが受け取られる事はなく、太史慈側に有利に働いて一件落着。

 

 

と思いきや、そう人生うまくいくわけもなく、

 

トラブル状態にあった相手側は激怒し、

太史慈を殺そうと躍起になって刺客を送ったそうです。

 

実際は知恵を働かせて太史慈がうまくやったという捉え方もできますが、

まぁ太史慈は一人に近い身で、後ろ盾もないので普通にやばいと思ったのでしょう。

 

母親も置き去りにしたまま青州から逃亡し、

一人で中国の端である遼東半島まで逃げていったわけですね。

 

その時に母親の世話をしたのが孔融でした。

 

 

そしてしばらくして後、

タイミングを見計らって故郷の青州に戻るわけなんですけど、

 

この頃に孔融が黄巾賊の残党である管亥らに襲われ、

孔融を救出した時の逸話が生まれたのです。

故郷を捨てた太史慈

同じ青州東莱郡の出身であった劉繇が揚州刺史に任命されると、

太史慈は、孔融が治める青州から南下して劉繇の元に身を寄せています。

 

ただ劉繇は太史慈をあまり厚遇しなかったようで、

もんもんとしないような日々が続きます。

 

 

そんな最中に、孫策が劉繇の治める地へ攻め込んできたわけですね。

 

そこで太史慈は、劉繇から偵察の命を受けて、

一人の付き添いを連れて、孫策軍の様子を探りに行きます。

 

この時、たまたま孫策自身も13人を連れて偵察に出ており、

太史慈と孫策は、偶然にも山の中で見事に鉢合わせ。

 

血の気の多い太史慈と孫策は、ここで一騎打ちを繰り広げますが、

決着がつかないまま一騎打ちは引き分けに終わったようです。

 

その後、孫策の完全な標的になった劉繇は、孫策に敗れて追い出されてしまいます。

太史慈の独立

劉繇敗北後、太史慈も劉繇に従うと思いきや、

厚遇される事がなかった劉繇に対して何も思うところはなく、

 

劉繇の敗残兵をまとめあげ、丹陽郡の6県を支配して独立を宣言。

 

 

そして孫策と激突するも、あっさり敗れて敗北。

城を捨てて山中に逃げ込むんですが、孫策軍に見つけられ捕縛されてしまいます。

 

太史慈は、これまで逃げれるなら逃げての繰り返しの人生でしたが、

ここにきて太史慈は観念。

 

その後は劉繇の敗残兵を集めてきたりと、孫策に対して協力。

孫策が不遇の死を遂げた後は、後を継いだ孫権に忠実に仕えています。

 

 

またこういう事もありました。

 

孫権が敵軍の一人に侮辱された時には、

その敵兵の手を木の枝ごと貫通したなどの逸話も残っているぐらいです。

太史慈の最後の言葉

太史慈は、赤壁の戦いの2年前であった206年に病死してしまうんですが、

太史慈が最後に残した言葉もなかなかのもんです。

 

「男に生まれたからには、

七尺(約161cm)の剣を持って皇帝の位に昇ってなんぼだろ!!

 

それを実現もできないまま死んでしまうとは残念だ・・・」

 

 

太史慈は、孫策・孫権に仕えながらも、

やはり心のどこかで独立して上に昇り詰める事を考えていた野心家だったのでしょう。

 

しかし孫策・孫権麾下では、

最後までそのチャンスが巡ってことはありませんでした。

 

もしも孫策・孫権が太史慈に隙を見せていたなら、

平気で裏切って独立していた未来もあったのかもしれません。

 

 

こういう風に一つ一つを見ていくと、

太史慈は「義」「義理」という言葉から程遠い人物に見えてきますよね。

 

その証拠に、陳寿が書いた「三国志」には、

呉の臣下としてではなく、

 

劉繇・士燮と同様に群雄伝の一人として名が残されています。