孫羌・孫堅・孫静兄弟
孫静は孫鍾の末子であり、孫羌・孫堅の弟にあたる存在です。
一言ではっきり言ってしまうと、
孫堅以外の孫羌と孫静は結構存在感がありません。
早くして亡くなった孫羌に関しては、ほとんど資料もないぐらいで、
それに比べたらまだ記録があるのが孫堅の弟にあたる孫静ですね。
孫羌に関して言えば、
息子であった孫河(兪河)が比較的有名かもしれません。
理由は孫堅・孫策に従って活躍したから、
資料が残っているという単純な理由になります。
孫静(そんせい)という人物
孫堅は比較的暴れん坊で戦いに身を置いた人物ですが、
孫静はそれと真逆に近い人生を送っています。
孫氏の「風林火山」でいえば、
孫堅が「火」で、孫静が「林」「山」といったイメージですね。
孫堅が董卓討伐等で外征して名を上げていた際、
孫静が何をしていたかというと一族の者達を守って後方を守り通していた感じです。
「自分が後方は守るから、前だけ向いて心配せずに行ってこい!」
といった感じでしょうかね。
しかし孫堅が劉表を攻めていた際に討ち取られてしまいました。
この時の孫静は、特段動かずってな感じでした。
あくまで孫静は、一族の多くの者達を最優先に考え、
兄とはいえ孫堅は一族の一人だという考えでいたのかもしれません。
孫策軍に合流
孫堅亡き後、袁術にいいように利用されていた孫策ですが、
袁術から1000人程度の兵を借りた事を契機に劉繇・許貢らを撃破して領地を拡大。
そして江東制覇の仕上げとして、
会稽太守であった王朗が守る城へ攻めかかる際に、
後方で一族を守りを続けていた孫静を呼び寄せ、
孫静はその呼びかけに応じて一族の者達を引き連れ馳せ参じます。
会稽攻略戦での孫静の策略
孫策は会稽郡を奪うべく攻略に動き出しますが、
水に覆われた地形を活かして戦ってくる王朗に阻まれて、思うように攻略できずにいました。
孫策は、武力一辺倒で押し寄せたわけですね。
そこで登場したのが孫静です。
孫静は冷静に戦場を分析して孫策に対して、
「王朗が守りやすい地形を活かして戦っている。
力押しをしただけでは王朗が守る固陵を簡単に落とせるものではない。
それよりも今攻めるべき場所は査瀆である。
何故なら査瀆はここから南へたった数十里の距離であり、
交通の要と呼べる場所であるからだ。
査瀆を抑える事ができれば、固陵を内側から攻めて不意をつくことができる」
と孫策に進言します。
そして「私が攻略して見せましょう」と言葉を続けました。
これを聞いた孫策は、自分では固陵を落とせそうにないので、
孫静に任せる事にしました。
孫静の会稽攻略戦
孫静がまずやったことは味方を騙して嘘の情報を流したことです。
どんな指示を出したのかというと、
「ここ最近、雨が続いていたために水が濁っている。
濁った水を飲んでいる兵士達の多くが腹痛を起こしているので、
綺麗な水を飲むために数百の水を入れる為のカメ(壺)を準備を急いでするように!」
というものでした。
しかしこれは嘘の情報であり、まず味方を騙し、
その情報が敵に漏れる事も狙ったものだったと思います。
そして孫静は夜になると火を焚いて、
自分達が火の傍にいるように相手に見せかけたのです。
その間に孫静は暗闇に乗じて査瀆を抑え、王朗の陣を襲ったわけです。
完全に不意を突かれた王朗は驚き、
元九江郡・丹陽郡太守であった周昕・周昂兄弟を当たらせたが、これに勝利します。
そして孫策は、周昕を見事に討ち取り、また周昂を逃亡させ、
会稽郡の制圧に成功しました。
おそらく力押ししか発想がなかった孫策は、
孫静がいなければ会稽郡を落とせなかった可能性は高かったかもしれません。
下手したら父の孫堅と同じように討死した可能性も少なからずあったでしょう。
それほど会稽は水に覆われた要害だったからです。
孫静のその後
孫策は孫静の功績を高く評価し、
重い官位を与えてその恩に報いようとしましたが、
孫静は一族の者達を守る為に故郷であった呉郡に留まることを希望して拒否。
それを聞いた孫策は、孫静の気持ちを優先してあげました。
孫策が亡くなり、孫権が跡を継いでも孫静の基本的な考えは変わっていませんでしたが、
孫権によって昭義中郎将に任じられた際はそれを受諾。
しかし息子であった孫暠が会稽郡で反乱を企てた事が原因で、
責任を取って父であった孫静とともに官を退くことになりますが、
その後の孫静は静かに暮らし、天寿を全うしたそうです。
一族を大事にした孫静の人生でしたが、
「孫家の者達は、大なり小なり一人一人がきちんと役目を果たしており、
その点においてきちんと評価されるべきである」と陳寿は孫静について書き綴っています。